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なにもない

なにもない心地よさ

毎朝毎朝、家事をする。
家事は生きてる限り続く労働である。
労働と言うと気が重くなるが、そうでもない。
働いた後に待ってるひとときが楽しみだからだ。

8時頃から始めて、9時半には終了。
ほっと一息つきながらのコーヒータイム。
コーヒーのお供は手作りの発酵あんこだ。

ぼんやりと眺めるのは掃除で清められた床。
赤松の無垢板である。
板に塗られた濃い赤茶色が白い漆喰に映える。
季節や時間によって日の差し込み方が変わる。
自然ならではの面白さだ。

部屋にはテレビ以外になにもない。
ダイニングテーブルやダイニングチェアはもちろんない。
テレビ台や食器棚、本箱もない。
天井にあるはずのシーリングも、窓にあるはずのカーテンもない。
なにもない代わりに気持ちが落ち着く空間がある。

なにもない禅寺

始まりは建長寺だった。
鎌倉五山第一位臨済宗の禅寺である。
14年前、仕事に疲れていた僕は、連れ合いと一緒にお参りした。
とはいえ、禅に興味があるわけでも、信心深いわけでもなかった。
ただ、なんとなく足が向いた。

門をくぐり、奥へ奥へと進んで行く。
おそらく方丈という建物だったと思う。
中に入って廊下を進むと、広い庭を見渡せる板の間に出た。
そこに腰を下ろし、しばらくの間ボ~ッとしていた。
なにもないところで、なにもしない。
ただボ~ッと。
無性に気持ちがよかった。

noteの著名なライターのしんめいP氏は『自分とか、ないから』の中で、「禅とは何か」を白紙4ページで教えてくれた。
350ページにも及ぶ著作の中に真っ白な紙が4ページある。
これはただ事ではない。
本来活字で埋められるはずの紙面になにもないのだ。
どうやら禅の神髄は、なにもないことのようである。

自分なりの心地よさを見つけよう

今の世の中、便利になったはずなのに、なぜか忙しない。
ご飯は炊飯器におまかせだし、洗濯は乾燥まで全自動。
冷蔵庫には冷凍庫までついてるし、食材を温めるのはレンチンで。
それなのにイライラしている人や落ち着かない人が大勢いる。
疲れ切ったアンパンマンみたいに顔も欠けている。
正義の味方として誰かを救った訳でもないのに。

日常生活の中にジャムおじさんは存在しない。
ならば、自分で顔を元に戻す工夫が必要だ。
僕にとっては、なにもない無垢板の空間。
眺めてよし、座ってよし、寝てもよし。
現代版の三方よしである。

資本主義には反するが、僕は引き算で顔を元に戻した。
未来のあなたはどうする?

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