小説 『思い出の味は』(作:きっこうまん)
もう20年前にもなる話だ。
俺の実家は中華料理屋だった。薄汚くて、5個しかないテーブルが油ぎって鈍く光っているような、どこにでもある小さい街の中華屋だった。「だった」というのは、再開発が決まって立ち退いたのを機に、親父が店をあっさりと閉めてしまったからだ。それだってきっとどこにでもある、なんでもない話だ。
「立ち退きってこんなに貰えるのな。」
と通帳を満面の笑みで眺める親父の顔が思い出された。その時、親父が店に何の愛着も持っていなかったんだと悟ってから、もう俺は無邪気に笑って親父の飯を食えなくなった気がする。
俺が小学校から帰ると、いつも奥の端っこの席に座って飯を食っているおっさんがいた。そして俺の顔を見ると決まって声をかけてくる。
「よぉ坊主。座れよ、学校楽しかったか? 腹減ってんだろ、食えよ。」
といって、半分ほど手をつけた天津飯を差し出す。
「食わねえのになんでいつもこればっか頼むんだよ。てかこれ昼飯?晩飯?」
「これから仕事でよ、朝飯。いや店入るときにゃあ、あれこれ考えてんのよ。これがいいか、あれがいいか。でもなんかやっぱ天津飯だなと思って頼んで、いざ食ってみるとすぐ飽きちまうんだな、これが。ほら、餡がくどいんだよ。祭りの屋台で見かけたら、いつもせっかくだと思って買って、すぐ甘すぎて飽きちゃうりんご飴みたいなもんよ。」
この中年がりんご飴を買って食べている姿を想像して笑いを堪えていると、親父は
「くどくて悪かったなぁ。」
とチャーハンを叩きながら顔を顰めた。
それから、1年後ぐらいのことだ。学校から帰ると、おっさんは真っ赤な顔をしてビールを飲みながら、天津飯を食べていた。
「あれ、これから仕事じゃないのかよ。」
と声をかけると、
「あぁ、昨日辞めてよ。」
おっさんは深く吐息をついた。
「酒臭いよ。もう飲むのやめろよ。」
虚ろな目を俺に向けて、おっさんは言った。
「依存できるものがあるとぉ、楽でいいよなぁ。どうにもできねぇこととか、背負ってるもん一旦全部放り投げて肩ほぐせるもんなぁ。坊主、依存ってわかるか、依存。」
「知ってるけど、よくわかんねぇよ、俺小学生だもん。」
「本読んでぇ、勉強に励みなされよ。坊主、なんか読んでるか。」
「漫画とラノベぐらいしか読まない。」
「らのべってなんだ。」
店の立ち退きが決まったのは、それから3日後のことだった。今から思えば、おっさんの職場は再開発を機に潰れてしまったのかもしれなかった。
工事が始まった頃には、店が忙しい時に面倒を見てくれた近所のおばさんも、いつもガムを一個まけてくれた駄菓子屋のおじさんも、みんなバラバラになってしまい、今じゃどこでどうしているのかすらわからない。幼馴染だって最初は連絡を取っていたけれど、その時々に精一杯だった俺がそれを切り捨ててしまうのも長くはなかった。
おっさんだって例外じゃない。最後に会ったとき、家も立ち退くからその金で郊外に家を借りて暮らすんだ、といっていた。だけど、その2年後には生活に苦しくなって首を吊ってしまったらしい、と親父は言っていた。それも何人聞き伝えたかわからない、風の噂のようなものに過ぎない。
俺は今、妻と息子を連れて実家に帰って来ている。というのも、親父が癌で死んだからだ。息子は自分のじいちゃんが死んだことをイマイチ理解出来ずにきょとんとしている。だけど、俺も大して変わらないのかもしれない。俺は自分の父親のことが最期までよく分からなかった。どんな酒が、食べ物が好きか、趣味は何か、なんで中華屋を始めたのか、そんなものは家族だから知っている。だけど、あの通帳を見て笑う父親を見てから、魚の骨が喉に刺さったみたいに、その痛みを時々思い出して、押し流そうとして、その後の思い出はまるで味わうことなく飲み込んできた気がする。
遺品整理は思った以上に大変だった。店を畳んでからほとんど捨てたと思っていたものは、意外にも立ち退き後に越してきた実家のちっこい物置にぎっちり詰め込まれていた。
「親父、面倒がって整理しなかったんだな……」
色が剥げたお菓子の缶が隅にあった。開けると劣化して端が反った写真がたくさん出てきた。やけに若い親父と、俺が生まれてすぐに死んだ母親。ランドセル姿の自分と親父。カメラに気づいていないおっさん。みんな笑っている。
真っ赤なのれんが出てきた。もっと汚いくすんだのれんじゃなかっただろうか。
「二代目万来軒」
二代目をでかでかと書きすぎて肝心の店名が小さくなってしまっている。
「……だっせぇよ」
なんで親父が店を諦めてしまったのか、それだけでも訊いておけばよかった。
その晩は酒の量が多かった。飲んでも飲んでも、堰を切って溢れ出した思い出がくどくて、洗い流せないようだった。
「くどくて悪かったなあ。」
と顔を顰める親父を思い出して、またあの天津飯が食べたい、そう思った。
「父ちゃん、顔真っ赤。飲み過ぎだよぅ。」
「なあ…… 依存ってわかるか、依存。」