2020.5.30 娘の誕生月に…
五月は娘の誕生月。
改めて、忘れてはいけないと今までのこと、今の気持ちをここに記そうと思う。
感覚としては、この前生まれたんじゃないか?というカンジ。
その赤ちゃんだった人が、もう十代後半なんだな。早いなぁ!…なんて、毎年言っている私。
でも密度は濃い。娘は、
「もう何十年も生きてる気分」
と言う。
以前も書いたが、乳児期の娘は音にも周りの雰囲気にも敏感、抱っこしていないと眠っていられないし、母乳の飲みもいまひとつ。
乳歯がはえるのも言葉も歩き出すのもゆっくりめで、2歳になる頃まであまり私から離れなかった。
ある時を境に、急に私から離れて探索行動を始めたのでびっくりした。
それ以来、“おっとりしてるけど空気を読む、明るくおちゃらけたりして周りをたのしませる子”になっていった。
小学生になり、いろんな問題で落ち着かない家庭の中、どんなに気持ちが揺れただろう。私には見せないように荒れた言葉で話していた、とママ友が教えてくれたこともあった。
ついに別居に至り私と娘で実家に住むことになり、さみしさでいっぱいになっていたようだったが、
「もうあの家には戻れないんだ」
と話すと、なんとも言えない表情でうなづいていた娘。本当は納得なんてできなかっただろうに、我慢して。
明るく振る舞って、さみしさや悲しさを隠していたのだろう。片頭痛など体の不調も増えてきていた。
中学で、数人の同級生の嫌がらせで体調を崩し不登校の時期もあったが、なんとかまた登校し始めて。
高校に入学すると、好きな部活に入部して学校生活を楽しんでいるようだった。相変わらず片頭痛や食欲減退などの不調はあったので無理せず休ませたりしていたが、それでも積み重なっていったであろう無理。
それが娘の父親の死で崩れる。
学校に行けない日が増えて、適応障害と診断されて、動けない自分を責めていた娘。
また学校に行けるようになったのは、部活が好きだったからだと。でも周りの人々をいやな気持ちにさせたくない、楽しく頑張っている自分でなければと無理し続けて、頭痛や嘔吐やパニック症状にも耐えていた。休む日は増えていったが、本人の好きなことを頑張りたい気持ちがまだ強かった。
その年の末頃、限界がきた。
「死にたい」「父のところに行きたい」
話してくれた。
それでやっと馬鹿な私は目が覚めた。
わかっているようでわかっていなかったんだ。強制的にでも休ませるべきだった。
本当にごめんね。
…敏感な娘を抱っこしつづけてヘロヘロになってた乳児期の私。
娘は可愛くて可愛くてたまらなくて、でも育児でいっぱいいっぱいで他の家事はほとんどできなくて。睡眠不足と貧血の頭は回らない、簡単なことさえできない覚えていられない、私はもう社会には戻れない、なんて涙が出て軽い産後うつ状態になってたのに気づかず…しんどかったことを思い出す。
保育士の資格があっても、どんなに子どもが好きでも、しんどいものはしんどい。
それに子育てはいつでも初心者。知識があったって思うようにはいかないことに、翻弄される。
きっとそれは子どもがいくつでも、大きくなっていっても続いていくのだろうなぁと思う。
だから、過去も今もこれからも、翻弄されながら悩みながら、それでも自分なりに娘を守っていく。
そして自分も大事にしていく。
誕生日おめでとう。