『学びをやめる』という概念がそもそもわからない(『学び直し』に思うこと)
RayArc(レイアーク)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
今回は、久しぶりの変化球です。日本経済新聞さまのお題に挑戦します。お題は『#私の学び直し』です。
『#私の学び直し』には違和感しかなかった
じつは前回の『#天職だと感じた瞬間』というテーマも、なんともいえない釈然としない感がありました。
今回も、あくまでも私個人は「なんだろうそれは…」とモヤモヤします。似た響きの言葉でも『学びほぐし』は腹落ちしやすい。学びの副産物みたいなこり、かたより、クセを、意識的に解き放つ。これは、わかる。必要だ。
天職、学び直しと、違和感があるお題の連続で、もしかしてこのリアクションも視野に入れた意図的な設計なのかな? とさえ感じます。それとも、お題を考えている方の価値観あるいは言語感覚が、私とたまたま遠いのか…?
『学び直し』へのif分岐は常に『false』に流れる
RayArcの本業はシステムの受託開発です。私(ワクワク魔人S)自身も、現場でゴリゴリ設計や実装をこなすエンジニア…なのですが、こちらのnoteではたまーにしか、エンジニアっぽいことを書いていません。
どちらかというと場づくりのことを多く書いているような気もしています。数少ないQiita記事もリーダーシップとディレクションやマネジメントの話。
これぞ、なんというかたよりでしょう。たまには、わかりやすくなんちゃってエンジニアっぽい表現で、言いたいことを書いてみようかなと思いました。いや、違います。なんちゃってではありません。私はエンジニアです。
条件の確認
たとえばAという対象を『学び直し』することが成立するには、以下2つの条件が、最低限満たされる必要があると思います。
「これから私はAを学ぶのだ」という意志がある
Aは私にとって、以下の条件をすべて満たすものである
私にとってAは、初めて学ぶものではない
(データベースであればCreateではなくUpdateである)私にとってAに対する学びは「完了」というステータスである
(「継続中」「中断中」などではない)
もし、Aが初めて学ぶ分野なら『学び直し』とは言わないはずです。
ステータスが「継続中」の場合も。継続的でも、あるいは多少断続的であっても、Aが学び続けてきたことなら『学び直し』とは言いません。
では「中断中」だとしたらどうか? たとえば、Aについてうんざりするほど過去に学んで、ゲシュタルト崩壊気味になってきたので、あえていついつまでは距離を置く、みたいな誓いを立てたとか、そういう場合。
これも、私の言語感覚では『学び直し』ではないのです。誰にでもわかりやすく伝えようとするなら『学びを再開する』じゃないかなと。
しかも、挙げたケースのように、あえて脳の整理を促すための休息なら、それは広義では『学び続けた』とも言えます。意図的に距離を置き、脳をクールダウンさせることは、あくまでも『学びの一環』ではないでしょうか。
すると、やはり『学び直し』になるためにはどうあっても「完了」にならないといけないわけです。これがどうやって条件を満たすのか私にはよくわかりません。
ステータス「完了」を満たすには?
もしありえるとしたら、
不遜にも、私は『学びつくした』とAをとらえたか?
Aに対して「関係を断つ」強い意志で袂を分かつことにしたとか?
とかなのかなぁ、と思いますが…。(すでに、ぴんと来ていない)
まず1については、私が及びつかない大天才みたいな人なら、ありうることなのかな? と考えてみましたが、逆にそれこそありえない気がします。
天才的な人ほどむしろ謙虚で、知らないということを知っていて『学びつくした』なんて夢にも思わない印象があります。『無知の知』ということでしょうか。
そして、少なくとも私に限って言えば。ナニカを『学びつくした』なんて状態になるわけがないと思っています。この果てしなく広い世界のほんとうにわずかなことを知れるだけでも知り、考えるだけ考えるのが関の山。
少し狭義にとらえれば「ここで学べることは、(厳密にはゼロってことではないけど『とりあえず』)学びつくしたから、もっと広い世界に飛び立とう」みたいな考えで、次の挑戦の段階に進むことは、あるかもしれませんよね。
でもその場合、大前提として『学び自体は続ける』からこそなのです。この道の先にも『学び直し』が登場するとはちょっと考えにくいです。
「関係を断つ」で『学びをやめて』いたら?
というわけで。「学びつくしたZE!」みたいな、なんだか陽気そうな1のパターンも、考えてゆくと『学び続ける』にはたどり着かない気がしてきました。このパターンの「完了」って概念の世界にしかないのかも。
次は2です。Aに対して「関係を断つ」強い意志で袂を分かつことにしたケースを考えます。(大前提として「思想・信条的な理由でこの学問はやらない」みたいなことは、この検討とちょっとベクトルが違うので棚上げします)
回りくどい言い方をしてしまいましたが、要するに本人の感覚としてはAに『挫折』したり『嫌い』になったケースです。
あるあるだと、
分数の割り算でのつまずきからの算数嫌いコース
基準がわかりづらい(たとえば「メロスの気持ちを答えなさい」に、なぜか正解と不正解がある)から国語は嫌だ
みたいなものですね。
音楽とか美術のような芸術系科目も、子どもの頃に出会った周囲の人たちの接し方によっては、まるでアレルギーのように「自分とは関係ない世界」に追いやってしまうケースがあります。
このパターンで『学びをやめて』いた人が、オトナになってから色々な出会いを通じて、たとえば「あれ? 算数って面白い!」となったりして。意識として『学び直し』することはあるかもしれません。
ただ、理屈をこねるようですが、たぶんこの場合の『学び直し』って対象であるAのとらえなおしが先に起きているんですよね。つまり今まで学んだと思っていたものは、Aのほんとうじゃなかったみたいな。
これって『学び直し』なのかな? 私には、このケースは遠回りしてやっと『学び始める』にたどり着いたという感じがします。だからこれを『学び直す』とするのも、なんとなく違和感があるんですよね…。
そもそも、『学ぶ』は終わるものなのか?
最後に、少し違う視点で、『学ぶ』という言葉のとらえ方が狭かった場合を考えてみます。つまり「勉強は学校でするもの」で「卒業したからもう学びは終わった」みたいな考え方だとどうなるか?
その場合、修了=『学びをやめた』ととらえる可能性はあります。そうすると、この先に『学び直し』は出てくるのでしょうかね?
でも、今どき…いや違うな。これは古今東西、普遍的な気がしますが、仮に修了時点ではそうだとしても、わりとすぐに気づくと思うんですよね。
学び方を学んできただけなんだって。
そもそも、終わっちゃいなかったって。
むしろ、やっと始まったんだって。
『学び直し』は、私には概念の存在(まとめ)
というわけで。『学び直し』は私にとってファンタジー世界の住人みたいなものです。実在する姿が思い描けません。
だから、私には『学び直し』たいことはありません。『学び始めたい』こと『学び続けたい』こと『学びほぐしたい』ことなら、私自身の意思の中にはあります。しかしそれも、それすらも。ほんとうに、意思なのでしょうか。
『学ばない』という選択肢は、そもそも『生きる』の中にはなくて。とどのつまり『学びたかろう』が『学びたくなかろう』が『学ぶ』を避けることはできない。
つまり『学ぶしかない』。ただそれだけなのではないでしょうか。そしてさいわいなことに、私たちにはそれにワクワクできるチカラが備わっている。
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)