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『良い会社』かどうか? 答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねることかな?

RayArc(レイアーク)、ならびにRayArc Astrolabe(アストロラーベ)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!

今回は、久しぶりの変化球です。日経COMEMOさまのお題に挑戦します。お題は『#良い会社の条件』です。

株式会社RayArcのオープン社内報として、取り組み・思いを社内外に発信!

最近のお題が、私には『遠い』のです

以前、別のテーマに対してこんなことを書きました。厳密にいうと、少しお題の募集元の系統(日本経済新聞さま/日経COMEMOさま)は異なるのですが、私の受け止めの共通項を軸に、ちょっと乱暴にくくってしまいます。

天職、学び直しと、違和感があるお題の連続で、もしかしてこのリアクションも視野に入れた意図的な設計なのかな? とさえ感じます。それとも、お題を考えている方の価値観あるいは言語感覚が、私とたまたま遠いのか…?

正直に述べると、今回の日経COMEMOさまのお題も私の言語感覚からは『遠い』お題です。『良い会社』ってなんやねん。そもそも私は、なにかに安直に『良い』『悪い』とラベルを付けること自体に、だいぶ懐疑的です。

やれやれ、ふー

すでにこの世界は、いやちがう、そもそもこの世界はそんなにカンタンじゃない。二元論でもない。

  • ある瞬間の『良い』は別の局面では『悪い』かもしれないし

  • ある人にとっての『悪い』はむしろ素晴らしい可能性かもしれないし

  • そもそも『良い』とかラベリングすること自体が『諸悪の根源』のような気さえするし

と、もやもやするんです。このテーマ。かといって「時と場合による」みたいな逃げ口上というか、ツマラナイ答えを書くのも、それこそツマラナイ!

「いやいや、なにを言っているんだ、だからこそじゃないか。その多様性というヤツをあぶりだすために、広くこのテーマで見解を募るんじゃないか、そこにたくさんの『違う』が集まるのを期待している! そう、思いは同じだよ!(キラリ😎✨)」

(私の勝手な妄想COMEMOさん)

とか、そんな狙いのテーマである可能性も、たしかにあるんですけどね。素直に解釈すればそうなのかなとも思いますが。いやー、でもなんだろう。言葉のあやですかね。そうだとしてもしっくりこないのでござるよ、私には。

まぁでも。このしっくりこなさは「むしろ言語化してみるべき」かもしれません。すべての違和感には、ミライへのヒントが眠っています。

1.『良い会社』の条件

しいていうなら、

  • 『良い会社』かどうか、答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる会社

が、私から見て「悪くないだろう…」と思える会社ですね。

わかりやすくいえば、

  • 「ウチって『良い会社』でしょう?」

と、同意を求めてこない。仮に経営者自身や、あるいは従業員、顧客、関係者の中のだれかは「『良い会社』だな」と思っていたとしても。お互いに、他者にまでそう思わせようなどと、まったく強制しない会社です。

ココロを支配するなんて
そもそも無理なのだ

いや、別に言いたければ言ってもよいのです。それも自由ですし。文脈的にアピールしなくてはいけない場面だってあるでしょう。その言葉が、いついかなる場面でもガチガチにダメとか、そういうことではないです。

でも、たとえどういわれても同じこと。
最後にそれを判断するのは『私』(=一個人の内心)です。

そもそも、純粋に『良い会社』でありたいと模索すること自体は、むしろ企業の使命かもしれません。でもそれは、相手にそう思うように押し付けることとはまったく別というか、むしろ逆ではないかなぁ、という…。

さて、さらに日経COMEMOさまの問いかけに素直に答えるなら、

  • 「2.『良い会社』になるために必要なこと」

  • 「3.『悪い会社』になってしまう原因」

と続くところですが、この問いかけは順番を入れ替えたほうが考えやすかった…というか説明しやすいので、「『悪い会社』~」から検討してみます。

2.『悪い会社』になってしまう原因

ここまでの前提に基づくのであれば、

  • 『良い会社』かどうか、答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる会社

ではなくなってしまう可能性を考えるとよさそうです。

  • その原因になるものはなにか?

  • どんなことが考えられるか?

仮説的に積み上げれば、それが私にとっての『悪い会社』になってしまう原因なのでしょう。

一人ひとりに、最後の判断を委ねられなくなるメカニズム…? それは、ときに『信頼』の問題としてとらえられ、語られるかもしれません。しかし、個人的な感覚かもしれませんが、どうもしっくりきません。

🤡「相手が『信頼』できないから、
 最後の判断を委ねられなくなる……?」

もっともらしく聞こえますが、本当にそうでしょうか? というか、それだけでしょうか? 鶏が先か卵が先か? 因果関係が逆に思えます。

会社の中で、あるいはもっと広く人間関係全般において、『委譲』や『尊重』の考えが損なわれ、組織が硬直する場面を思い起こすと。それは先に『信頼』が損なわれたから…ではない(ことが多い)気がする。

むしろまず先に『尊重』されないから、『信頼』が育たないという方が、実際に起きている現実の不具合に近い(ことが多い)気がする。では、まず『尊重』してみる…ができないのはなぜか? 

もしかしたら、人間関係の問題ですらないのかもしれない。じつは『相手』を尊重していないのではなくて、もっと別のものを軽んじてしまっているのかもしれない。つまり『考える』ということ自体を。

管理職研修の際に、課長の多くは部下についての悩みとして「指示しないと動かない」「言われたことしかしない」「上司と違う意見を言わない」「資料の裏付けとなるデータを自分で見つけられない」などを挙げます。こういった考えない部下の特徴は自分からアクションを起こせないことです。
深刻なのは、上司も実は「考える課長」ではないことです。

管理職1年目の貴女へ 考える部下を増やそう
アルファ・アソシエイツ社長 藤原美喜子さん
日本経済新聞

3.『良い会社』になるために必要なこと

『悪い会社』になってしまう原因として、『考える』ということ自体の軽視があるのではないか、と仮説を立てました。

であれば。一人ひとりの考えを尊重するには、人と人の間でリスペクトがあること(もちろんそれは大切だが)以前に、まず「一人ひとりが考える」こと自体を大切にするマインドが必要ではないでしょうか?

その前提があるから、ようやく相手を尊重するという行動の中に「答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる」が含まれるようになる。

ここからはとくに、私のごく個人的な経験からのお話ですが。

他者に対して、

  • 『信頼』しています(しているつもりです、しようとしています)」

  • 『尊重』しています(しているつもりです、しようとしています)」

  • 優しい(あるいは、なんらかのポジティブな)気持ちを持っています

と、言葉にする人は、たくさんいます。性格的にも、決して「相手を傷つけてやろう」とか「自分だけいい思いしよう」と考える利己的な方でもなくて。きっとココロからその言葉を発しているだろう、と感じる人が。

だけど不思議なことに、そういう『少なくとも善良ではある』人が、必ずしも「答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる」行動にはならない(こともある)のです。「よかれと思って」考えを押し付けたり、抑圧したりする。

ずっと不思議でした。それは私から見れば、一番相手を『尊重』しない行動といってもよいから。いわば『良い会社』から遠ざかり『悪い会社』に近づくことだから。そこに悪意がないことが、なおさら困惑のもとでした。

でも、全てではないかもしれないが、そのうちの何割かの答えがわかりました。いや、わかったというと語弊がありますが、ある程度納得感のある仮説にたどり着きました。

そのような人は、自分自身も含め、そもそも「考える」こと自体を大切にしていないのだ。大切ではないものだから、相手から「考える」を奪っても、それが『尊重』しない行動と受け止められるとは想像もしないのだ。

であれば、会社が組織である以上、『良い会社』であるためにはより影響力のある立場の人ほど、脳に汗をかき続けて、いわば『死に物狂い』とでもいうべき必死さ、真摯さで、考え続けなければならない。

考える人でなければ、相手の「考える」を本当に尊重することはできない。

「リーダーは自らが変わり続けなければ。リーダーが固定化すると、みんなが退屈する。むしろ周りがついていけない、と焦るくらいの気持ちにさせたほうが、組織に柔軟性が生まれる」

リーダーは威厳ではなく自ら変化 建築家・隈研吾氏
私のリーダー論|NIKKEIリスキリング

この答え自体が、私の主観であると同時に、通過点です。誰かから見れば、禅問答のようかもしれません。少し迷宮に入っていると感じるかもしれません。ただ、それでもこれは必要な通過点に思えるのです。

現時点では中途半端ですけども。読む人には消化不良かもしれず申し訳ないですけど。でも、それでも書いてみることで、その先に進みたいのです。

一人ひとりが、決め続ける(まとめ)

  • 「ウチって『良い会社』でしょう?」

と、同意を求めてこない会社であってほしい。
これは『合わせ鏡』的な側面もあると思っています。

逆に、従業員なり、関係者なりが、ただ自分とその会社の考えが合わないだけのことを即『良い会社』『悪い会社』と表現するのもなんか違うなと。(客観的に法を犯しているとか、そういう次元のものは別ですが、価値観の違いとして許容できる範疇であれば)

ましてや、その考えに他の誰かを無理に同意、賛同させようとするなら、『良い』を押し付けるのと同じことなわけで。

『良し』『悪し』のラベルを張るのではなく、「これこれしかじかで、私の考えとは違う」と、自分の考えをただ率直に伝えてゆくなら「悪くないだろう」と思いますけどもね。

未来を何色にしたいのか、考えて実現させるのは私たち自身です。皆さんは、何色の社会を創りたいですか。そこにどんなWillを込めますか。

何色の社会を創りたいですか?そこに込める想いは?
川合尊・日本特殊陶業社長(7月4日)
日本経済新聞 未来面

絶対的な『良し』『悪し』なんてないから。とりあえずなにを『良し』とするか? それは私が、一人ひとりが、それぞれの瞬間を大切にしながら、決め続けられたらと思います。

(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)


さあ、ワクワクしようぜ!

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