『良い会社』かどうか? 答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねることかな?
RayArc(レイアーク)、ならびにRayArc Astrolabe(アストロラーベ)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
今回は、久しぶりの変化球です。日経COMEMOさまのお題に挑戦します。お題は『#良い会社の条件』です。
最近のお題が、私には『遠い』のです
以前、別のテーマに対してこんなことを書きました。厳密にいうと、少しお題の募集元の系統(日本経済新聞さま/日経COMEMOさま)は異なるのですが、私の受け止めの共通項を軸に、ちょっと乱暴にくくってしまいます。
正直に述べると、今回の日経COMEMOさまのお題も私の言語感覚からは『遠い』お題です。『良い会社』ってなんやねん。そもそも私は、なにかに安直に『良い』『悪い』とラベルを付けること自体に、だいぶ懐疑的です。
すでにこの世界は、いやちがう、そもそもこの世界はそんなにカンタンじゃない。二元論でもない。
ある瞬間の『良い』は別の局面では『悪い』かもしれないし
ある人にとっての『悪い』はむしろ素晴らしい可能性かもしれないし
そもそも『良い』とかラベリングすること自体が『諸悪の根源』のような気さえするし
と、もやもやするんです。このテーマ。かといって「時と場合による」みたいな逃げ口上というか、ツマラナイ答えを書くのも、それこそツマラナイ!
とか、そんな狙いのテーマである可能性も、たしかにあるんですけどね。素直に解釈すればそうなのかなとも思いますが。いやー、でもなんだろう。言葉のあやですかね。そうだとしてもしっくりこないのでござるよ、私には。
まぁでも。このしっくりこなさは「むしろ言語化してみるべき」かもしれません。すべての違和感には、ミライへのヒントが眠っています。
1.『良い会社』の条件
しいていうなら、
『良い会社』かどうか、答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる会社
が、私から見て「悪くないだろう…」と思える会社ですね。
わかりやすくいえば、
「ウチって『良い会社』でしょう?」
と、同意を求めてこない。仮に経営者自身や、あるいは従業員、顧客、関係者の中のだれかは「『良い会社』だな」と思っていたとしても。お互いに、他者にまでそう思わせようなどと、まったく強制しない会社です。
いや、別に言いたければ言ってもよいのです。それも自由ですし。文脈的にアピールしなくてはいけない場面だってあるでしょう。その言葉が、いついかなる場面でもガチガチにダメとか、そういうことではないです。
でも、たとえどういわれても同じこと。
最後にそれを判断するのは『私』(=一個人の内心)です。
そもそも、純粋に『良い会社』でありたいと模索すること自体は、むしろ企業の使命かもしれません。でもそれは、相手にそう思うように押し付けることとはまったく別というか、むしろ逆ではないかなぁ、という…。
さて、さらに日経COMEMOさまの問いかけに素直に答えるなら、
「2.『良い会社』になるために必要なこと」
「3.『悪い会社』になってしまう原因」
と続くところですが、この問いかけは順番を入れ替えたほうが考えやすかった…というか説明しやすいので、「『悪い会社』~」から検討してみます。
2.『悪い会社』になってしまう原因
ここまでの前提に基づくのであれば、
『良い会社』かどうか、答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる会社
ではなくなってしまう可能性を考えるとよさそうです。
その原因になるものはなにか?
どんなことが考えられるか?
仮説的に積み上げれば、それが私にとっての『悪い会社』になってしまう原因なのでしょう。
一人ひとりに、最後の判断を委ねられなくなるメカニズム…? それは、ときに『信頼』の問題としてとらえられ、語られるかもしれません。しかし、個人的な感覚かもしれませんが、どうもしっくりきません。
もっともらしく聞こえますが、本当にそうでしょうか? というか、それだけでしょうか? 鶏が先か卵が先か? 因果関係が逆に思えます。
会社の中で、あるいはもっと広く人間関係全般において、『委譲』や『尊重』の考えが損なわれ、組織が硬直する場面を思い起こすと。それは先に『信頼』が損なわれたから…ではない(ことが多い)気がする。
むしろまず先に『尊重』されないから、『信頼』が育たないという方が、実際に起きている現実の不具合に近い(ことが多い)気がする。では、まず『尊重』してみる…ができないのはなぜか?
もしかしたら、人間関係の問題ですらないのかもしれない。じつは『相手』を尊重していないのではなくて、もっと別のものを軽んじてしまっているのかもしれない。つまり『考える』ということ自体を。
3.『良い会社』になるために必要なこと
『悪い会社』になってしまう原因として、『考える』ということ自体の軽視があるのではないか、と仮説を立てました。
であれば。一人ひとりの考えを尊重するには、人と人の間でリスペクトがあること(もちろんそれは大切だが)以前に、まず「一人ひとりが考える」こと自体を大切にするマインドが必要ではないでしょうか?
その前提があるから、ようやく相手を尊重するという行動の中に「答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる」が含まれるようになる。
ここからはとくに、私のごく個人的な経験からのお話ですが。
他者に対して、
「『信頼』しています(しているつもりです、しようとしています)」
「『尊重』しています(しているつもりです、しようとしています)」
「優しい(あるいは、なんらかのポジティブな)気持ちを持っています」
と、言葉にする人は、たくさんいます。性格的にも、決して「相手を傷つけてやろう」とか「自分だけいい思いしよう」と考える利己的な方でもなくて。きっとココロからその言葉を発しているだろう、と感じる人が。
だけど不思議なことに、そういう『少なくとも善良ではある』人が、必ずしも「答えを関係者一人ひとりに最後まで委ねる」行動にはならない(こともある)のです。「よかれと思って」考えを押し付けたり、抑圧したりする。
ずっと不思議でした。それは私から見れば、一番相手を『尊重』しない行動といってもよいから。いわば『良い会社』から遠ざかり『悪い会社』に近づくことだから。そこに悪意がないことが、なおさら困惑のもとでした。
でも、全てではないかもしれないが、そのうちの何割かの答えがわかりました。いや、わかったというと語弊がありますが、ある程度納得感のある仮説にたどり着きました。
そのような人は、自分自身も含め、そもそも「考える」こと自体を大切にしていないのだ。大切ではないものだから、相手から「考える」を奪っても、それが『尊重』しない行動と受け止められるとは想像もしないのだ。
であれば、会社が組織である以上、『良い会社』であるためにはより影響力のある立場の人ほど、脳に汗をかき続けて、いわば『死に物狂い』とでもいうべき必死さ、真摯さで、考え続けなければならない。
考える人でなければ、相手の「考える」を本当に尊重することはできない。
この答え自体が、私の主観であると同時に、通過点です。誰かから見れば、禅問答のようかもしれません。少し迷宮に入っていると感じるかもしれません。ただ、それでもこれは必要な通過点に思えるのです。
現時点では中途半端ですけども。読む人には消化不良かもしれず申し訳ないですけど。でも、それでも書いてみることで、その先に進みたいのです。
一人ひとりが、決め続ける(まとめ)
「ウチって『良い会社』でしょう?」
と、同意を求めてこない会社であってほしい。
これは『合わせ鏡』的な側面もあると思っています。
逆に、従業員なり、関係者なりが、ただ自分とその会社の考えが合わないだけのことを即『良い会社』『悪い会社』と表現するのもなんか違うなと。(客観的に法を犯しているとか、そういう次元のものは別ですが、価値観の違いとして許容できる範疇であれば)
ましてや、その考えに他の誰かを無理に同意、賛同させようとするなら、『良い』を押し付けるのと同じことなわけで。
『良し』『悪し』のラベルを張るのではなく、「これこれしかじかで、私の考えとは違う」と、自分の考えをただ率直に伝えてゆくなら「悪くないだろう」と思いますけどもね。
絶対的な『良し』『悪し』なんてないから。とりあえずなにを『良し』とするか? それは私が、一人ひとりが、それぞれの瞬間を大切にしながら、決め続けられたらと思います。
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)
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