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荒廃した教育を復活させる一手『教育勅語』に学ぶ和の生き方(完結編)~教育勅語に学ぶ和の生き方とは?~ー『日本人のこころ』5ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
1月27日(土)(昨日)、
令和6年最初の「和だち会」をX(旧Twitter)にて
開催することができました!
今年一回目でしたが、
たくさんの方々にご参加いただくことができました。
ありがとうございます!
令和6年は、
毎週土曜日夜8時から開催します。
来週もよろしくお願いいたします。
さて、
いよいよ1月も最終週となります。
今回は、私たちの先人たちが大切にしてきた
「和の人生観」についてお話をしていきます。
最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
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私たちの先人たちが大切にしてきた
「生き方」とはどのようなものでしょうか。
1)「日本人」という生き方
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天皇が国民のために国を建て、ひたすら国民の幸せを祈る。
その姿を見て、
「自分も国のために何かできることはないか?」を真剣に考える国民。
これが我が国の国体(国柄)です。
国に生きる皆が「世のため人のために役立つことを進んで行う」。
そのためには、
ものすごい教育が行き届いていなければ為すことはできません。
人は、弱い生き物です。
快楽に陥りやすいのです。
教育の基本は、ここなのです。
テストでよい点数を取ること。
試験に合格すること。
そんなことよりも、大切なことは、
「何のために人は生きるのか?」
ということなのです。
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「他人を蹴落としてでもいいから、のし上がれ」
「世のため人のため。そんなものは、成功してからの話だ」
一瞬嫌悪感を覚えるかもしれませんが、
これは、世界では当たり前のことです。
ボランティアというのは、成功者がやるもの。
これが世界の当たり前です。
でも、日本では違います。
金持ちだろうが、貧乏人だろうが
「世のため人のため」に働くことは日本では当たり前
のことだと考えられています。
ヨーロッパでは、貧乏人は法律を守らないと言われています。
生きるために法律なんて守っている場合ではないからです。
だから、スラム街では犯罪が頻発します。
でも、日本ではそうはならない。
そもそもスラム街が形成されません。
貧しい人が犯罪を起こすなんてありません。
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幕末にタウンゼント・ハリスという外交官が
下田に駐在した時に日記を書いていたのですが、
下田周辺の農村は大変貧しかったそうです。
ハリスは、漁村を見てびっくりしたということが日記に書かれています。
「人々はものすごい貧しい。しかし、振る舞いは貴族のようだ。
来ている服は、ボロボロだがきちんと着ているし、
みんなが協力し合いながら、助け合いながら暮らしている。」
貧しいけれど、立ち振る舞い、生き方、考え方は貴族の生き方だ、
というのです。
貧乏人だったらボロボロでだらしない。
貧乏人だったた人の物を取るのは当たり前。
貧乏人だったらわがままになって当たり前。
これが世界の当たり前なのです。
でも、日本は違うというのです。
どんなに貧乏でもそれだけはやってはいけないというものがあるのです。
衣食足りて礼節を知るというのが西洋です。
でも、
衣食足りなくとも礼節を汚さない。これが日本なのです。
2)和の「生き方」~世のため人のために生きるという『人生観』~
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国王と国民が対立することは世界では常識です。
国王が多く税金を取ったら、
贅沢三昧暮らすことができるが、民は苦しむ。
反対に、
国王が税金をあまりとらなかったら、
国王の生活は苦しくなり、民は富んだ生活を送ることができる。
取るか取られるかという利益相関関係にあるわけです。
君と民が対立関係なのは、世界では常識なのです。
しかし、
日本では君と民が対立関係になったことはありません。
「世のため人のために役立つことを進んで行う」
しかも、一人だけではなく、何人もの国民。
そして、君主である天皇陛下も進んで行う。
だからこそ、2000年以上国が続いてきたのです。
これは、
「世のため人のために役立つことを進んで行う」
このような教育を
幼いころから環境としてつくってきたからこそなせる業なのです。
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「他者のために生きる」
自分が幸せになるために一見遠回りのように見えますが、
確実に自分が幸せになる方法なのです。
人間は、
自分のためだけに生きて幸せになった人は、この世に一人もいません。
自分のために働いてお金を得る。
そして、
そのお金を自分のためだけに使う。
どんどん仕事を成功していき、車も家も手に入れることができ、
美味しいものが食べられるようになって、いい腕時計をつけて、
お金を散財する。
これが幸せですか?
と言ったら多くの人が幸せではないと答えるのではないでしょうか。
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生き方を考えることは、死に方を考えることです。
死ぬ間際に自分人生を振り返った時に
どのような思い出が浮かんでくるのか?
豊かな人生を歩んだ人はどのようなことを思うのか?
自分の快楽だけに生きた人はどのようなことを思うのでしょうか?
自分の快楽だけに生きた人は、
自分は大きな家を買ったぞ!いい車を乗り回したぞ!
あぁ~、いい人生だった!
となると思いますか?
いいえ、なりません。
自分の人生は虚しかったなと思うだけです。
自分のお葬式で大切な人にどのように言ってもらえたら
いい人生だったなと思うことができるでしょうか?
「あなたがいてくれたおかげで今の自分がある。」
「自分がどん底にいたときにこんなことを言ってくれた。その一言で自分の人生は変わったんだ。ありがとう。」
「私はあなたの子どもで幸せでした。」
こんなことを言われたら、もう嬉しくて仕方ないですよね。
最高の死に方というのは、
惜しまれながら死んでいく
これに尽きると思います。
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では、どのような人が惜しまれながら死んでいくのか?
答えは明確です。
それは、
「世のため人のため」に生きた人
です。
家族のため
地域のため
会社のため
国家のため
なんでもいいです。
「世のため人のため」に生きた人。
このような人は惜しまれながら死んでいくのです。
だから、
自分のために生きた人は幸せにはなることができません。
世のため人のために生きた人が幸せになることができるんです。
そして、
このことを私たちは子供のころから教わってきているのです。
3)教育の力で荒廃した世を立て直す
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アメリカのMicrosoftの創業者にビル・ゲイツという方がいます。
彼は、金持ちになりたいと思って会社を立ち上げました。
そして、
金があればあるほど幸せになることができると思った。
バリバリ頑張ってお金を得た。
でも、まだ幸せじゃない。
だからもっと頑張って小金持ちになった。
でも、まだ幸せではない。
それは、金がまだまだ足りないからだと思った。
だからもっともっと頑張って
世界一の大金持ちになりました。
そして、
フォーブスが世界一の金持ちにビル・ゲイツと出したその時、
彼は絶望します。
世界一の金持ちになったけど、
なんでこんなに不幸だと思ったんですって。
そこで彼は気づきました。
「そうか…。人生金じゃない…。」
遅すぎるだろっ!
と思わず突っ込みを入れたくなりますが、
そんなこと日本の子供たちはみんな知っているわけです。
その違いなのです。
だって、
アメリカでは「金がすべてだ!」と教育しているのですから。
「とにかく稼げ!」と。
でも仕方のないことです。
激しい競争社会なのですから。
アメリカで負け組になったら本当に大変です。
だからとにかく勝ち組に行け、と。
とにかく親は必死です。
「世のため人のため。そんなことを言っている場合じゃない。
それは自分が金持ちになってからの話だ。」と。
競争社会だとそのようになってしまうのです。
人は環境によって大きく変わるのです。
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「強くて優しい大人になってほしい。」
「立派な大人になってほしい。」
「周りから慕われるような大人になってほしい。」
「世のため人のために役に立つ大人になってほしい。」
そのような期待をかけられながら子供が育っていく。
だからこそ、そのような大人になっていくのです。
お金には確かに価値がある。
力がある。
でも、
お金では決して手に入れることができないものは本当にたくさんあります。
本当に大切なものは決してお金では手に入れることはできません。
すべては教育なのです。
もしも、教育が荒廃したらどうなるか。
私利私欲にまみれた人ばかりになっていきます。
そのようななってしまったら
もはやその国は「日本」と呼んでよいものなのか。
これが明治20年に、
明治天皇や井上毅をはじめ、多くの地方長官たちが抱いた危惧です。
「このままでは、日本が終わってしまう。」と。
この現状を何とかしないといけない。
そう決意し、『教育勅語』がつくられたのです。
この問題は、現代の我が国が抱えている問題と一緒ですよね。
だからこそ、
「教育の力」で日本国を一緒に立て直しませんか?
みなさんも、
一緒に『教育勅語』の内容を実践していきましょう!
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
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「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。