思いやりと助け合いを実現するための一手『伝統文化江戸しぐさ』に学ぶ共生の教育観(中編)~江戸の人々はどのような暮らしをしていたのか?~ー『日本人のこころ』39ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
先日、
とある団体で社会科の歴史教育の視点について考える
実践報告をしてきました。
戦後、GHQによる教育改革とそれを引き継ぐ日教組による
歴史錯誤の教育が近年その勢力が弱まり、
日本史観の歴史観を取り戻すチャンスが到来しているように感じます。
真っ赤な誤った歴史観を
私たちの先人たちがつなげてくださった日本史観の歴史観に
戻すことによって、
日本人の自己肯定感、自尊心を取り戻し、
さらに我が国の素敵な文化や思想が世界に広げ、
再び力強く優しい和の心をもつ日本を取り戻すことができるように
尽力していきたいと思います。
本日は、
和の心が育まれた江戸時代の先人たちの暮らしについて
考えていきましょう。
最後までおつきあください。
よろしくお願いいたします。
1)江戸の町づくりとは?
江戸時代には、
電気・ガス・水道などのインフラはなく、
生活雑貨がそろうスーパーマーケットもありませんでした。
現代と比べて生活環境が大きく異なるため、
江戸庶民の暮らしは想像しづらいかもしれません。
「不便な生活だった」と思う方もおられるかもしれませんが
さまざまな外食産業が発達していたため、
食事に困ることはなく、夜でも身近な娯楽がありました。
謎が多い庶民の日常ですが、
どのような生活を送っていたのでしょうか?
江戸時代は、
身分によって住む地域が決まっていました。
武士が住む「武家地」
寺社領である「寺社地」
庶民の住む「町人地」の3種類がありました。
土地の占有率は時代によって異なりますが、
武家地が江戸の約70%を占め、
寺社地と町人地がそれぞれ15%前後でした。
町人地の人口は約50万人ほどで、
日本橋や深川周辺、または主要街道沿いが主な居住地でした。
江戸の町人地は、
無秩序につくられていたわけではなく、
幕府によって計画的に設計されていました。
京都の町割りが参考にされていて、
碁盤目状の街路計画を基に設計されました。
町人地の出入り口には、「町木戸」というものが設けられていました。
「町木戸」とは、
町の境に設けられ得た防犯のための木戸のことです。
その脇には、木戸の開閉や警備を担当する木戸番や
消防や交番などの機能をもつ自身番が設置されていました。
町木戸は夜10時頃に閉められ、
朝6時頃に開かれるのが決まりでした。
町木戸が閉じられた後は、防犯上の観点から
医者や産婆さんしか通ることができませんでした。
また、
大通り(表通り)に面して立ち並んでいるのが、
表店(おもてだな)、表長屋です。
八百屋・魚屋・瀬戸物やなど
日常生活に必要な商品を売る小店が多く、
午前6時前後から営業が始められました。
その一方で、
表通りに面していない路地裏では、
裏長屋や土蔵などが建ち並んでいました。
裏長屋は、
細長い1棟の住宅を、数戸から十数戸に仕切って作られた、
いわば集合住宅のことです。
一部屋が6~8畳くらいの大きさで、
大工などの職人、商店の奉公人など
さまざまな職種の人が家族とともに暮らしていました。
裏長屋の共有スペースには、
井戸・トイレ・ごみ捨て場・物干し場などが設けられていて、
住人が共同で利用していました。
江戸庶民の一日は、
明六つから始まるのが一般的でした。
明六つとは、
日の出の30分前ぐらいの時間帯です。
季節によって前後しますが、
現代の時刻に当てはめると午前6時前後になります。
江戸じゅうに明六つを知らせる鐘が鳴り響き、
各町の木戸が一斉に開かれると江戸庶民の活動が開始します。
2)江戸の庶民はどのように暮らしていたのか?(午前の部)
裏長屋で最初に目を覚ますのは、
各長屋のおかみさんでした。
おかみさんが最初に行うのは、
家族の朝食を用意するためかまどに火をつけることです。
そして、
共有地にある井戸で水を汲み、
長屋の土間に置かれた水がめに必要な水を運びます。
現代のような水道設備はなく、
蛇口をひねると水が出てくるわけではありません。
自分で汲んできた水を使って、
米を研いだり、食材を調理していました。
ご飯を炊いている間、
おかみさんは顔を洗って髪を結い、
房楊枝で歯を磨きました。
房楊枝とは、
柳の小枝の一方を叩いて木の繊維をほぐし、扇形の房にしたものです。
江戸時代の歯ブラシは、
房の部分で歯を磨いたり、反対側の柄で舌のざらつきをとっていました。
また、江戸初期には歯磨き粉も登場します。
特に人気が高かったのは、
房州砂を原料にはっかやこしょうなどの香料を加えた歯磨き粉
だったそうです。
少し磨くだけで、
歯が白くなることから歯の白さを競った江戸っ子たちは
こぞって使っていたみたいです。
ちなみに、江戸後期には、
100種類以上の歯磨き粉が売られていたそうです。
朝食の準備が終わると、
朝の支度を終えた夫と子供たちとともに朝ごはんを食べます。
江戸庶民の朝食は、一汁一菜が基本でした。
一汁一菜とは、
主食となる白米のほかに、
みそ汁などの汁ものが一品と惣菜などのおかずが一品という食事
のことです。
庶民がよく口にしていた惣菜は、
納豆、切り干し大根、煮物、昆布、油揚げなどです。
江戸後期につくられた人気おかず番付によると、
庶民に人気だったのは、
八杯豆腐という豆腐のすまし汁とめざしいわしでした。
江戸時代は、
現代のように1つの机を囲んで食事をしていたわけではありません。
食膳が用意されていて、
自分の分をそれぞれ食べるのが一般的でした。
食べ終わった後は、茶碗にお湯を注いで、
漬物などでご飯粒をとりながら食べていたそうです。
これは水を節約するためで、
食べながら食器をきれいにした後、水で洗わずに片付けていたそうです。
朝炊いたご飯は昼食と夕食でも食べるため、
おひつに入れて保存していました。
朝食が終わる午前7時頃、
外で仕事がある男性たちは家を出ます。
裏長屋には、
棒手振り、職人、日雇い労働者などが暮らしており、
それぞれの始業時間に合わせて家を出ました。
夫と子供たちを送り出したあと、
おかみさんは洗濯や裁縫などを行いました。
洗濯は井戸の近くのたらいに水を張り、
手もみや足踏みで着物を洗うことが一般的でした。
当時は、
洗濯板や石鹼などはなかったため、
洗剤代わりになる灰汁(あく)や米のとぎ汁を使っていました。
単衣(ひとえ)と呼ばれる1枚布の着物は丸洗いをしていましたが、
裏地がついた袷(あわせ)や木綿が入った綿入れの着物は
縫い目をほどいて生地にして洗っていました。
着物を丁寧に洗った後、
生地を戸板に張り付けて乾かす「洗い張り」を行っていました。
日当たりが悪かった裏長屋では、
洗濯ものを乾かすときにも共有スペースである物干し場を
利用していました。
井戸端には、各長屋のおかみさんが集まって洗濯をしていたため、
世間話やうわさ話で自然と盛り上がったそうです。
洗濯が終わると裁縫などの内職に取り掛かります。
江戸時代の女性にとって、裁縫は身につけるべき必須スキルでした。
なぜなら、
日常的に針仕事をすることが多かったからです。
洗濯のたびに着物を解体、仕立て直したり、
衣替えの季節には、着物を縫い直す必要もありました。
当時の着物は大変貴重だったため、
裾や袖が擦り切れたときには、継ぎ当てを繰り返して使い続けていました。
裁縫は、家事の中でも特に重視されていて、
子供の頃から縫物ができるように親から教えてもらっていたそうです。
洗濯、裁縫、家の掃除などが終わると、
おかみさんは買い物のために表通りの小店を訪れます。
長屋を訪れる棒手振りから
様々な食材や生活用品を購入することができましたが、
複数の商品を購入するときには、小店で買い物をすることが一般的でした。
江戸の町全体の総店舗数は1万3778軒だったとされています。
食品、衣類、雑貨、金融などの様々な業種がありますが、
圧倒的に多かったのが、
「つき米屋」と「炭薪(すみたきぎ)仲買」でした。
「つき米屋」は、
米を精白して販売する米の小売業で店舗数は2919軒ありました。
玄米を精米するのは、重労働だったため、
庶民は、つき米屋で白米を購入するのが一般的だったそうです。
「炭薪仲買」は、
炭や薪などの燃料を扱っているお店で店舗数は3702軒ありました。
煮炊きや暖をとるのに不可欠だったすみや薪は、
庶民の日常生活に欠かせないものでした。
2つのお店数が多かったということは、
それだけ需要が高かったということでしょう。
昼間は、
男性は仕事で精を出し、
子供達は寺子屋で勉強
おかみさんは洗濯、裁縫、買い物などの家事を済ませる。
これが江戸長屋の庶民の平均的な1日でした。
3)江戸の庶民はどのように暮らしていたのか?(午後の部)
昼食の時間は、現代と同じく12時頃で、
夫や子供が長屋にいる場合は家族そろって食事をとっていたそうです。
昼食の献立は、朝食とほとんど同じで朝に炊いたお米に味噌汁、漬物に惣菜や魚のおかずが一品つくのが一般的でした。
外で働いている男性の昼食は、
弁当を作ってもらえた人もいたそうですが、
それ以外の男性は、
そば屋、茶漬け屋、一膳飯屋などの外食店を利用していました。
文化8(1811)年に幕府が行った実態調査によると、
外食産業の店舗数は7594軒あったそうです。
内訳は、
居酒屋が1808軒
甘味処が2912軒
飲食店が2439軒
惣菜店が435軒になります。
さらに江戸の町には店を構えて営業をしていた店舗だけではなく、
いたるところに屋台も出店していました。
屋台で人気だったものは、
そば、寿司、天ぷら、イカ焼きなどだったそうです。
価格もお手頃で気軽に食べることができる
ファストフードとして庶民の食生活を支える存在でした。
一人暮らしの男性が多かった江戸では、外食産業が盛んだったため、
お金があれば食べることに困ることはなかったみたいです。
文政年間(1818~1830年)頃の世相を書き記した
『文政年間漫録』によると、
妻と2人の子供がいる野菜売りの収支が紹介されています。
その野菜売りは夜明けとともに天秤棒を担いで家を出て、
青物市場で商品を仕入れるのが日課でした。
元手は600文から700文ほどで
仕入れたのは、かぶら、大根、蓮根、イモなどです。
夕方まで野菜を売り歩いたそうです。
売り上げは、日によって異なりますが、
全部売り切れば1100文から1200文ほどでした。
1文を30円で計算すると、
だいたい33000~36000円ほどでした。
順調に売ることができれば、
元手の2倍くらいの売り上げになったそうです。
そこから翌日の仕入れ代と日割りの家賃を除くと、
手元に残るのは15000円ほどで、
米や味噌など食費などに充てていたそうです。
利益が多い時は、お酒を飲むことができましたが、
天候不良で商売が立ち行かない場合に備えて貯金する必要もありました。
最低限、家族を養うことはできましたが、
十分な貯金ができるほど収入は多くはなかったようです。
午後3時から4時頃。
仕事が早く終わったり、暇な時間ができると
庶民はよく神社やお寺に立ち寄っていたそうです。
江戸には、大きな寺社が数多く存在しましたが
信仰の場であると同時に遊興の場でもありました。
寺社の門前には様々な出店が並んでいて、
神仏への祈願を済ませた後は、
盛り場の雰囲気を楽しむことができたようです。
また、
お茶やお菓子などを提供する茶屋も多く、
仕事で疲れたときの休憩所としても利用されていました。
午後5時頃。
仕事から夫が帰ってくると「湯屋」と呼ばれる銭湯に家族で出かけました。
裏長屋にはお風呂がありませんでした。
燃料となる薪代が高いことに加えて、
火事になるリスクも高かったからです。
失火で罪に問われることもあったため、
庶民は各町で営業していた湯屋に通っていました。
風が強く、ほこりをかぶりやすかった江戸では、
毎日湯屋に迷うことが習慣になっていたのです。
湯屋は男女混浴で、
脱衣所として利用されていた板間、
身体を洗うための流し場、お湯が張られていた浴槽に分かれていました。
まず、
熱いお湯が入った浴槽に使って体を温めた後、
湯汲み番から「上がり湯」といわれるきれいなお湯をもらい、
流し場で体を洗っていました。
身体を洗うためのぬか袋はお手製のものを使いますが、
忘れてしまったときは、
4文(120円)でレンタルすることができたみたいです。
湯屋の料金は
江戸中期の明和年間(1764~1772年頃)で
大人が6文(180円)で、子供が4文(120円)ほどでした。
価格がお手頃だったこともあり、
貧しい庶民でも毎日通うことができました。
湯屋の2階は男性専用の休憩所になっていて、
お風呂上がりの男性たちの社交場でした。
知人と色々な話をしたり、
囲碁や将棋を指すなど憩いの場として活用されていました。
男性は、湯屋に行った後、
髪結床に立ち寄ることもあったそうです。
髪結床とは、
現代の理容室や美容院のことです。
当時は、
頭頂部の月代(さかやき)を剃ることが一般男性の嗜みで
残りの髪はまげにすることが一般的でした。
月代とまげは自分で管理することができなかったため、
定期的に髪結床に通っていました。
髪結床には、親方と下職と呼ばれる下働きが2人ほどいました。
まず、
下職が客の髪を濡らして月代を剃り、
元結(まげを束ねていた紐)を切って髪をほどきます。
次に、
顔を濡らしてあごの下まで髭を剃ると、
最後に親方がまげを結います。
髪結い代は24文(720円)ほどで
営業時間は、午前6時頃から午後8時頃まででした。
店の奥は待合室になっていて、
待っている客が退屈しないように将棋盤、碁盤、草双紙(くさぞうし)
などが置かれているところもあったそうです。
髪結床は、
男性が身だしなみを整えると同時に、
町の社交場としての役割も果たしていました。
午後6時頃。
湯屋から家に帰ったら夕食の時間です。
庶民の夕食は粗食で
冷や飯をお茶づけにして漬物と一緒に食べる程度でした。
一人くらしの男性は自炊することはほとんどなく、
屋台で寿司やそばなどを食べたり、惣菜を購入していたそうです。
江戸の町には居酒屋も多かったので
仕事帰りに一杯飲んでから家に帰る男性も多かったようです。
電気がなかった江戸時代。
日が沈む時間には寝ていたと言われていますが、
夜でも楽しむことができる身近な娯楽がありました。
それが「寄席」でした。
「寄席」は、人寄せ席の略称で、
神社や寺院の境内で講談のような話を聞かせる催し物が
起源とされています。
元禄年間(1688~1704年)に始まったとされる寄席は、
文化文政年間(1803~1830年)には、
江戸市中で120軒以上の寄席小屋があり、
幕末には町内に1軒は常設されるほどの人気でした。
演目は、
怪談噺、手品、軽業、浄瑠璃、影絵、声帯模写など多種多様でしたが、
寄席の中心演目は「落とし噺」と呼ばれた落語でした。
寄席の開園時間は、
昼席が正午から午後4時頃、
夜席は午後6時から午後10時頃まででした。
寄席を楽しむこともあった庶民ですが、
通常は日が暮れたら早く寝るようにしていたそうです。
当時は行灯という照明器具を使っていましたが、
原料となる菜種油や魚油が高価であったからです。
普段は価格の安い魚油を使っていたそうですが、
手元が少し明るくなる程度でした。
そのため、
物書きや針仕事をするときには、
行灯に近寄って作業をする必要がありました。
また、
魚油は悪臭がひどくて長時間使うことができなかったこともあり、
午後9時から10時頃には皆就寝していました。
そして、
午後10時頃になると、
木戸番によって各町の木戸が閉じられ、江戸の一日が終わります。
ここまでは、
江戸時代の庶民の一日に触れながら、
当時の生活様式や文化について考えてきました。
次回は、
世界でも類を見ない200年以上平和だった時代に育まれた
我が国の伝統文化である「江戸しぐさ」について学んでいきましょう。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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