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個を生かす教育を実現するための一手『松下村塾』に学ぶ和の教育観(完結編)~松下村塾ではどのような教育が行われていたのか?~ー『日本人のこころ』9ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。




アメリカ大統領選の予備選で、
5連勝を果たしたトランプ元大統領。

サウスカロライナ州では元知事の対抗馬に大差をつけ、
さらに勢いをつけています。

「もしもトランプさんが再び大統領になったら…」

の一部をとって

『もしトラ』

と言われていますが、

もはや

「ほぼトランプさんになりつつある…」

ほぼトラ

になろうとしています。


アメリカ大統領選挙は、
我が国にとっても
世界にとっても
今後の国際情勢を左右するものになっています。

トランプ大統領が再選を果たした時に
前回と大きく異なることは、
世界のリーダシップを発揮してきた安倍さんがいないということです。

安倍無きトランプさんはどのように働くのか、
今後も注視していかなければいけません。

戦争を起こさないために大切なことは、
「戦争をしない」と声高に叫ぶことではありません。

国際情勢を読み解き、
世界のリーダーがどのような思惑で動いているのか?

を考えることだと思います。

さて、
いよいよ2月も最終週となります。

今回は、私たちの先人たちが大切にしてきた
「和の教育観」についてお話をしていきます。

最後までお付き合いいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。






先人たちから日本国のバトンを受け継いだ私たちが
松陰先生の生きざま、教育観から
学ぶべきことはどのようなことなのでしょうか?


1)天野清三郎(渡辺蒿蔵)が実践した個性の生かし方




松陰先生が生まれ育った
1830年代から1840年代の我が国を取り囲む情勢は、
国際的にひっ迫の度を加えていました。

アジア各地に植民地を獲得した欧米諸国が、
当時鎖国政策をとっていた我が国の近海に進出して、
形成をうかがうようになっていたからです。

1837(天保8)年には、
アメリカ船が浦賀に入港し、浦賀奉行が砲弾を加える事件があり、

1843(天保14)年には、
イギリス船が都・八重山諸島に

1844(弘化元)年には、
フランス船が琉球に
オランダ艦が長崎に

1845(弘化2)年には、
イギリス船が琉球になど
毎年イギリス、フランス、アメリカなどの艦船が我が国の近海に来ては、
通商貿易を強要する事態に加え、
オランダ国王が幕府に対して鎖国政策をやめて開国するように勧告してきま
した。


このようなひっ迫した事態にもかかわらず
徳川幕府は衰えて対処する力はなく、
各藩は互いに対立し、一致団結して外国に当たる勢力はなかったので、
我が国はあわや国内分裂の上、
国家の独立も失いかねない一大危機に直面していたのです。

なんだか、現代の日本に似ているところがあると思いませんか?

しかし、
幕末の日本では、
逆境を乗り越え、明治維新という新しい国づくりに成功したのです。

松陰先生とその門下生の青年たちは、
その明治維新という新しい国づくりに大きな貢献をしたのですが、
それは、「人はなぜ勉強するのか?」
「人をして勉学へと突き動かすものは何か?」という
私たちの根本問題に真摯に向き合いました。

松下村塾で学んだ青年たちは、
我が国が幕末から明治維新の国づくりへの激動に苦悩する時代に
生まれ育ち、
松陰先生門下にあってその時代の課題を自らの課題として、
懸命の「自分探し」の勉強をしておのおの立志を為し、
その立志に自らの生涯をかけて新しい国づくりという
「公なるもの」のために進んで役割を取得し、
ついに明治維新の成立と発展に大きな貢献を為なしたのです。




松下村塾の門下生に天野清三郎という人物がいます。

天野清三郎は、
1857(安政4)年の冬、15歳で松下村塾に入門します。

癖のある扱いにくい少年でしたが、
松陰先生は安政5年6月19日の久坂玄瑞あての手紙で
「天野はなかなか変わった人物で人々からはよく思われていないが、
私がひとりで可愛がって目をかけている」
と述べています。

天野清三郎が松下村塾で学んだ時代は幕末の激動の時代で、
1858(安政5)年9月には、世にいう「安政の大獄」があり、
天下騒然となる中、
12月になると判明によって松陰先生が野山獄に入れられてしまい、

年が改まった安政6年10月27日に亡くなってしまいます。

死の直前の5月25日に高杉晋作あての手紙で

「天野少しく才をたのみ勉強せず、
これ惜しむべし…深く顧みてくれたまえ」


と天野のことをくれぐれも頼んでいます。

自分の死後の門人それぞれについての身の振り方を
考えてやっているところに
松陰先生の門下生への愛情の深さが伝わってきます。

松陰先生の死後、
高杉晋作は天野を引き取って面倒を見ました。
天野も高杉晋作を尊敬して懸命に働きました。
高杉晋作の指導の下で勤王討幕の政治運動に参加したのです。



ところが、懸命に働きながら天野は
自分は頭の働きが鈍く、いざというときに臨機応変の処置ができない。

そのうえ、
もともと勉強嫌いで、運動のための理論づけの能力がない。
だから、政治運動には向いていないと考え、
思いつめた天野はついに政治運動から身を引く決心をしました。

これは今まで行動を共にしてきた同志から命が惜しくなって
逃げだした裏切り者だとみられて
かえって命をねらわれかねない大変な決心でした。

その苦悩の中で、天野はこれから自分はどうすればよいのか、
政治運動に向かないなら何をしたらよいのか、
真剣に「自分探し」を続けました。
考え続けるうちに、
かつて松陰先生から聞いた言葉が耳に残っていることに気が付きました。




それは、
1853(嘉永6)年、ペリーが率いるアメリカの軍艦4隻が
浦賀に来航した時、
松陰先生は直ちに現地に行ってつぶさに黒船をみるとともに、
幕府をはじめ日本側のありさまに憤慨して帰り、対応策を解いて、
我が国にも同様に黒船を製造しない限り
国を守ることができないことを強調したその言葉が
耳に残っていたのでした。

「そうだ!
 自分は頭の働きが鈍いうえに勉強嫌いであるが、
 手を使って物をつくることは好きである。

 松陰先生の説いた『船造り』になろう。
 立派な黒船を造って日本を守るのだ。」

と心に決めたのでした。

当時は武士の身分の天野が身分を捨てて
船大工の職人になるわけにはいかなかったのです。

藩内にいてはとうていできないから、
天野は、脱藩し密航して上海に逃げ、
さらにイギリスのロンドンに行き、
グラスゴー造船所で働きながら船づくりを学ぶことになりました。

イギリスの造船所で船大工として働いて、船づくりを学んでいるうちに、
船を造るには手先の技能だけではなく、基本となるいろいろな学問が必要であるという事実を実感します。

つまり、造船の学問が必要なのです。

造船の学問を学ぶには、学校に入らなくてはなりません。
そこで、昼間働きながら、夜は学校で勉強しました。
イギリスの学校なので、
英語で基礎の数学や物理学などを学び始めるのです。

日本から遠く離れた異国の地で不自由な英語で、
昼間の労働で疲れた体に鞭打って、
生まれて初めて数学や物理学を学ぶわけですから、
その苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。


そもそも、
天野清三郎は勉強嫌いだから船大工になろうとしたのですが、
その勉強嫌いがはるかイギリスの地で不自由な英語を使って、
習ったこともない数学や物理学をはじめ、
造船の基本の学問を血を吐くほどの苦しい思いをしながら
勉強をつづけた驚くべき底力はいったいどこから出たのでしょうか。

それは、
「これよりほかにわが生きる道はない」と思い定めた『立志』から
出たのです。

船づくりの一人前の大工になって立派な黒船を造り、日本国を守りたい。
そして、松陰先生のお言葉に応えたい。
それよりほかに道はないのだ。

だから石にかじりついても、血を吐く思いをしても、
何が何でも船づくりの勉強は続けなければならないのです。

この『立志』こそ、苦境の天野清三郎を支えました。

天野は、さらにアメリカのボストンにわたり、
ついに1874(明治7)年に日本に帰国します。
松下村塾の同朋は、明治新政府の要人になっていました。
天野は、明治新政府に請われ、工部省に入りました。

そして、
長崎造船所の建設に尽力し、
その所長として今日では世界に観たる日本造船業界の草分けの偉業を
成し遂げたのでした。

さらに、
日本郵船の社長になって日本の海運業の発展に尽くしました。

彼は、のちに渡辺蒿蔵と改めましたが、
松下村塾の問題児であった彼もまた、後世に名を残す人物になったのです。



2)吉田松陰先生に学ぶ和の教育観



なぜ、
松下村塾から明治日本を支える多くの人物が輩出されたのでしょうか?

それは、
松陰先生が
「なぜ人は学ぶのか?」を徹底的に突き詰めたからです。

例えば、
入門を希望する者に対し、
「何のために学問をするのか?」と尋ねることがよくあったそうです。

松陰先生は、『講孟余話』の中で、

「そもそも人は一人一人、
 本性を天下から授かり、心に道徳を備えられている。
 それは天地の神々が期待し、

 先祖の霊が頼みとするところであって、特に重んずべきであると
 言わなければならない。

 自分から天性を尊く重んずべきことを忘れて、
 みだらででたらめの限りをつくす者は、
 自分自身を軽んじ侮っているではないか。」


と訴えています。

松陰先生は、
人には誰もが持ち味があると信じています。

これを「真骨頂」と呼び、
学問はおのおのの「真骨頂」を探究して自覚することであるとしています。

先ほどの天野清三郎も政治活動をしているときに、
政治運動は、
自分の「真骨頂」ではない。と自分が一番輝く場所はどこかを考えています。
何をするにしても、自分次第であって、
人の能力とか、人のお金を頼りにするのではなく、
「自分でやる」ということが大切なのです。

どんな人にも、社会の役に立つ場所が必ずあります。
そこには、
価値を見出すことができ、生きがい、やりがい、働きがいを感じることが
できる場所が必ずあります。

そのような気持ちに満ち溢れた毎日を過ごすことこそ、
人生を豊かにする大切な気持ちなのです。



生きていると、
豊かになったり、貴い地位に昇ったり、
反対に貧しくなったり、低い地位に落とされたりします。

楽しいときも悩むときも、苦し時もあります。

人生というのは、
そのように自分の外側の状況が次々と変化していきます。

人生で起こる出来事にいちいち動揺してはいけません。

天が人に大きな任務を与えようとするとき、
天はまずその人の志を苦しませ、その人の体を酷使させ、
その人の体を飢えに苦しませ、その人が着るものさえもない状況にさせ、
さらにその人がやることなすこと、
うまくいかない苦境に立たせるものです。


3)教育の力で荒廃した世を立て直す




松陰先生が生きた幕末の動乱期には、
「志士」と呼ばれる先人たちがたくさんいました。

「志士」とは、
高い志をもち、どのような環境にあっても、その志を堅持できる人です。

そして、
「死んでもやり遂げたい!」という強い願望こそが志です。

だからこそ、
目的を見失わないように「何のためなのか?」に立ち返ることが重要です。

どのきれいな言葉を使うより、
どんなきれいな身なりよりも、
どんなにお金があるのかよりも、
それよりも尊い価値があります。

それは、
どのような「生きざま」であるか?なのです。



松陰先生は、
死を直前にして、なおあきらめきれないことがありました。

それが「大学」を設立することでした。

まず、
京都に大学を創設し、
日本の中心にある朝廷のご学風とはそもそもどういうものであるのかと
いうことを日本中に示すこと。

その後、
日本中からすぐれた才能をもつ人材や、
人並外れた能力をもつ人材を京都に呼び集める。

さらに、
日本中から古い本や新しい本からも、正しい主張や確かな主張を集めて、
それをひとつの本にまとめ、その本を使って学習をする。

その本を日本中に配付する。

そうすれば、日本中の人のこころは一つにまとまるに違いない。

松陰先生は、
日本の未来にとって「教育」というものをきわめて重要なものであると
考えていました。

そして、
先生が期待したものは
「日本人としてのこころの教育」であったと言えます。

そもそも本当に志のある人は、
自分の心、体、家、国…。いずれのことも真剣に考えます。

自分を大切にしない、家族を大切にしない、国を大切にしない、
それらすべての心理の根底にあるのは「自己肯定感」のなさに
よるものです。

「自己肯定感」は、
人が人らしく生きていくうえで書くことのできない土台です。

現代には、
人の悪いところを見つけるのが得意な人はいくらでもいます。
その原因は、大人も「自己肯定感」がないからです。

それは、
世代間で負の連鎖を続けており、断ち切らなければなりません。

すべての人間関係は、
「自分」→「家族」→「地域」→「国家」と同心円状に広がっていきます。

古来の『武士道』の心を教育によって継承し、
全国各地、一町一村に至るまで再建することで、
国の病を治癒しなければなりません。

今の日本が長い停滞から目覚め、本来の力を取り戻すためには、
先人たちが大切にしてきた「日本人のこころ」を取り戻し、
日本人らしい心をもつことが必要なのです。




松陰先生は、
10月25日から書きはじめ、
10月26日の夕方に自分の門人に宛てた遺言書ともいうべき著書である
『留魂録』を書き終えました。

そして、
その翌日の27日、松陰先生は数え年30歳で処刑され、
武蔵野の野辺に散りました。

その『留魂録』の中で、
自分の「死」を一粒のモミに例えています。


『私は死んでも、
 私の志を継ぐ者が現れれば、それは私が立派な「種もみ」であった
 ということではないでしょうか。
 今、私は死を前にしても、とてもおだやかで安らかな気持ちでいます。
 それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて悟ったから
 です。
 みなさんもよく知っている稲のことを思い出してみてください。
 稲は、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に稲を刈り、
 冬には収穫し蓄えます。
 秋になり冬になると、人々はその一年の仕事が実を結んだことを歓び、
 酒や甘酒をつくり、村も野も喜びの声で満ち溢れています。
 いまだかつて、収穫の時を迎えながら、そのことを歓ばず、
 その年の仕事が終わることの方を悲しんでいる人がいたなどという
 話は聞いたことがありません。
 私は、今30歳です。何一つ成功させることができないまま、
 30歳で死んでいきます。
 人から見れば、それは例えば、稲穂が出る前に死んだり、
 稲穂が実る前に死んだりすることに似ているかもしれません。
 そうであるならば、それは、たしかに惜しいことでしょう。しかし、
 私自身、私の人生はこれはこれで一つの収穫の時を迎えたのではないか
 と思っています。
 どうして、その収穫の時を悲しむ必要があるでしょう。そもそも人の
 いのちは、「あらかじめ決まった年数」などというものはありません。
 稲は必ず、四季を経て実りますが、私はすでに30歳になります。
 稲に例えれば、もう稲穂が出て、実も紡いでいます。
 その実が実はカラばかりで中身のないものか、あるいは、
 立派な中身が詰まったものなのか、本人である私には、分かりません。
 けれども、もっしも同士の人々の中で、私のささやかな誠の心をあわれ
 と思う人がいて、その誠の心を私が継ごうと思ってくれたら幸いです。
 それは、例えば、一粒のモミが次の春の種もみになるようなもの
 でしょう。』


今を生きる私たちは、
松陰先生をはじめとする祖国の先人たちの志を受け継いでいる
「稲」と言えるでしょうか?

また、私たち自身は、
「中身の詰まった種もみ」のような人生を送っているでしょうか?

我が国が大切にしてきた個を生かす教育を実現することによって、
一人一人が必ず持つ、持ち味を発揮し、
さらに日本国が輝きを増すことができるように、
それぞれの持ち場で取り組んでいきましょう。


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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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