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日本国が「目指したもの」2~我が国の歴史から『差別』について考える~(中編)ー日本人のための『和の国・日本国』講座55ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
さて、
前回から
わが国の歴史から『差別』について考える
のテーマでお話をさせていただいています。
前編の続きからお話をさせていただきますので、
ぜひ、前編をご覧になってから、見てくださいね!
今回は、
現在の自虐史観に満ちた教科書で取り上げられがちな
江戸時代の身分制を切り口にお話をさせていただきます。
![](https://assets.st-note.com/img/1682522611269-8gsI2Ryz6q.jpg?width=1200)
教科書で「差別」に関して大きく取り上げられている
「百姓は幕府に搾取されていた」
「えた・ひにんは被差別階級として厳しい差別を受けた」
という2つの問題について考えていきます。
最後に、日本国が目指してきたものは何かについて考えていきます。
3部に分けてお話をします。
まずは、「百姓は本当に幕府に搾取されていたのか?」を考えていきます。
1)そもそも『一揆』って何?~江戸時代は本当に不満の言えない時代だったの?~
![](https://assets.st-note.com/img/1682522644328-Snpumhi9Je.jpg?width=1200)
みなさんは、江戸時代の農民に対して、どのようなイメージを持っていますか?
多くの人が持っている江戸時代の農民のイメージは、
刀狩りによって武器を取り上げられ、
検地によって土地に縛り付けられ、
移動の自由や職業を選ぶ自由はなかった。
そして、
農民は作った米の大半が年貢で取り上げられ、
農民自身はお米をめったに口にすることができなかった。
苦しい生活をしいられた農民は、竹やりやくわや鎌を手に、
しばしば百姓一揆を起こした。
というものではないでしょうか?
まず、『百姓一揆』について考えてみましょう。
江戸時代には、百姓が集団で要求行動を起こすということが江戸時代260年の間、全国各地で約3000件起きたようです。
一揆にも種類があり、
定められた手続きにのっとった訴えのことを
「愁訴(しゅうそ)」といいます。
合法的な手続きを踏まずに、百姓の代表が直接領主を訴えることを
「直訴(じきそ)」といいます。
そして、
多数の百姓が集団でおしかけて領主に強引に要求をのませようとすることを「強訴(ごうそ)」といいます。
百姓が抗議の意思表示として、集団で逃げることを
「逃散(ちょうさん)」といいます。
逃げることも、百姓一揆の一つなんです。
さらに、「打ちこわし」というものもあります。
「打ちこわし」と聞くと何か暴動のようなイメージがありますが、
実際は、打ちこわしをする店に到着すると火事にならないように火の始末をしてから、米などの商品を道にぶちまけ、水をかけて使い物にならないようにしてから、その家を壊します。
しかし、泥棒のような目的外の行動はみんなで規制し、秩序だった行動をとったそうです。「その秩序だった行動に感心した」という記録も残っています。
さらに、武力衝突になった場合を「蜂起」と呼んでいます。
そして、
これらの「愁訴」「直訴」「強訴」「逃散」「打ちこわし」「蜂起」を全部合わせて「百姓一揆」と呼んでいるのです。
それでは、江戸時代に起こった約3000件の百姓一揆のうち、百姓たちが領主の軍隊と武力衝突した一揆はどのくらいあると思いますか。
一番多かったのが「強訴」で783件。
次が、「直訴」で552件。
「愁訴」が534件。
「打ちこわし」が408件。
「逃散」が230件。
そして、
「蜂起」が78件で全体のわずか3パーセントくらいだったそうです。
つまり、
「江戸時代の一般的な百姓一揆は、武力衝突をしない集団要求行動」と言えるのです。
もしも、生活ができないくらい虐げられたのであれば、武器を持って蜂起する百姓が多くてもおかしくないはずですよね?
2)百姓は主に何を食べていたの?~百姓は本当に貧しかったのか?~
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次に、
『江戸時代の平均的な農民は、日常的に何を一番食べていたのか?』
ということを考えてみましょう。
もちろん、一口に農民といっても「豪農」といわれたお金持ちと貧しい農民とでは、当然違いはあります。
また、地域によっても違いがあったり、同じ江戸時代でも、時期によって違いがあるかもしれません。
しかし、この問題は、「すべての農民、すべての時期を平均して、一番たくさん食べていたもの」は何かについてです。
では、問題です。
江戸時代の百姓のおもなエネルギー源となっていたのはどれでしょうか。
①お米
②麦(うどんやまんじゅうなど)
③雑穀(あわ、きび、そば、もろこし、豆類など)
④いも・大根・その他の野菜、山菜、木の実など
小学生にこの問題を出すと、もっとも多くの子どもが予想するのがお米です。
しかし、高校生や大人は、③の雑穀と答える人がかなり多いです。
この問題の正解は「①お米」です。
教科書には、誤った記述が書かれており、それをもとに考えてしまうと、百姓は虐げられていたため、お米は食べさせてもらえなかったにちがいない。
と勘違いをしてしまうのです。
3)実は税金は現代よりも軽かった?~百姓はそんなに虐げられていたの?~
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さらに、『年貢(税金)』についても考えてみましょう。
多くの教科書には、
「収穫高の40~50パーセントを年貢として納めるほか、特産物にかかる税があった。また、街道周辺の村では宿場に馬や人夫を出すなどの負担もあった。」
と書かれています。
しかし、
江戸時代末期の天保(1830~1844)年間に長州藩が村ごとの人口や科k主生産高を調査した結果が残っていて、
それを分析した結果、
まず、農業部門の生産高に対して年貢率を計算すると、47パーセントになります。
しかし、
農村では、米だけではなく、木綿織、製塩、酒造などの製造業、林業、海産なども行っており、産出額の大きさでは農業部門と同じで、
これらにはほとんど年貢がかかっていませんでした。
両方を合わせて考えると年貢率は25パーセントほどでした。
現代日本の租税負担率は、社会保障を除いても国内総生産の26.2パーセント(令和2年)なので、かえって今よりも低いのです。
「収穫高の40~50パーセント」「四公六民」という表現から、
「作った米の半分近くも巻き上げられた」
という印象を子供が持つとしたら、
意図的にそう思わせようとしているのではないかと疑ってしまいますよね。
4)本当の江戸時代の日本の姿~外国人から見た日本国~
![](https://assets.st-note.com/img/1682523398826-m2b88KD7Xk.jpg?width=1200)
明治初年に日本を訪れたイギリスの探検家のイザベラ・バードは、
いまだ江戸時代の余韻を残す米沢近郊について、
次のような印象記を残しています。
米沢平野は、南には寧する米沢の町があり、北には、湯治客の多い温泉上の赤湯があり、まったくエデンの園である。
「スキで耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、たばこ、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。
実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの肥沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。…美しさ、勤勉、安楽に満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川にかんがいされている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。
これだけ種類の多い作物があれば、
すべてのものを課税対象にすることはほとんどできないでしょう。
![](https://assets.st-note.com/img/1682523492134-cZomDRtOUd.jpg?width=1200)
さらに、
オランダの商会付きの医師として来日した
スウェーデン人のカール・ペーテル・ツェンベリーは、
次のような観察を残しています。
日本の農民は、他の国々で農業の発達を今も妨げている様々な強制に苦しめられているようなことはない。
農民が作物で収める年貢は、確かに非常に大きい。しかし、とにかく彼らはスウェーデンの荘園主に比べれば、自由に自分の土地を使える。スウェーデンの農民は、わずかな金のために馬を走らせてものを運ばねばならない。そのために、丸二日も仕事を妨げられるし、脱走兵や囚人をすぐ近くの城へ移送するために耕作を休まねばならない。
だが、日本のん坊民は、こうしたこと一切から解放されている。彼らは、騎兵や兵隊の生活と装備のために生じる障害や困難については、全く知らない。そんなことを心配する必要は一切ないのだ。日本の農業に十分な余裕があるのは、たった一人の主人、すなわち藩主に仕えているだけでよいからである。国の役人、徴税官、地方執政官、警察などなどという何名もの人間によって支配されることはない。農民は、自分の土地の耕作に全力を投入し、全時間をかけることができる。妻や子はそれを手伝う。
その結果、この国の人口密度は非常に高く、人口は豊かで、そしておびただしい数の国民に難なく食料を供給しているのである。
確かに、
日本の農民は、馬や人夫を出すなどの負担もあったのかもしれませんが、
世界規模で考えていくと、
日本国の暮らしは、非常にゆたかであったと言えそうです。
5)なぜ私たちは、「江戸時代の人々の暮らしは悲惨だった」と錯覚してしまったのか?~本当の日本史観に立った清の歴史の見方とは?~
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では、
なぜ私たちは、
「江戸時代の民衆の生活は、悲惨であった」
と思い込むようになったのでしょうか?
戦後の歴史学では、
「階級史観」の下で、
「近世封建社会では、幕府や藩による過酷な民衆支配が行われていた。過酷な収奪によって、悲惨な生活を余儀なくされた民衆は、しばしば百姓一揆を起こして抵抗した。」
「明治の近代化は、欧米に比べて不徹底であり、民衆の生活はますます悲惨であった。」
ということを前提に、
それを立証することを目的に研究が進められてきました。
その結果、
「支配者による厳しい抑圧と、それに対する民衆の抵抗」というイメージ
が作られ、それが教えられてきたのです。
これからお話しする「えた・ひにん」などの『部落史学習』では、
まず、江戸時代の民主の悲惨な状況を強調し、
そして、「近世の被差別部落は、悲惨な生活を強いられた民衆の不満をそらすために、支配者がつくった」と教えてきました。
その結果、「被差別部落は、さらに悲惨であたにちがいない」というイメージが定着することになりました。
しかし、現在、教科書に書かれていることは、本当に真実なのでしょうか?
次回は、この「えた・ひにん」について
日本史観に立ってお話をしていきます。
自分や自分の家族の幸せだけを願っていた僕が、この日本国に生まれ、日本人として生きることができ、本当に幸せだな。誇りに思うことができるようになりました。
だから、あなたにも知ってほしいのです。
私たちが生まれた日本国が本当に目指していたものを。日本国が本当に素敵な国だということを。
そして、今日まで、私たちが豊かな暮らしを営むことができるこのすてきな国が続いているのは、日本国を、私たちを命がけで守ってくださった先人たちのおかげであるということを。
先人たちが大切にしてきた精神性。
僕たちの心の中に眠っている精神性。
『和の精神』を呼び覚まし、再び日本を皆がよろこびあふれる豊かな国にしたい。
自分を、自分の国を堂々と語り、誇りに思ってほしい。
子どもたちが希望を感じ、いきいきと輝くことができる国にしたい。
それが今、我が国に生きる僕たち大人の役割だと思うのです。
一緒に、日本を学びませんか?
最後まで、お読みいただきありがとうございました。