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【完結編】先人たちが大切に受け継いできた「和の心」を取り戻す~国家百年の計は教育にあり~ー『日本人のこころ』50ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すという主題のもと
小学校教諭をさせていただきながら、
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。


令和6年も残りわずかとなってまいりました。
今年度で、『和だちプロジェクト』設立から3年が過ぎようとしています。
前身である活動も合わせると6年が経ちます。


1年間、たくさんの方に記事を読んでいただき、
X(旧Twitter)のDMなどを通じて感想や応援メッセージを送っていただき、
大変励みになりました。

ここまで活動することができているのも、
ひとえに日頃より記事をお読みいただいたり、
温かいお言葉をかけていただいたりしてくださっている皆様のおかげです。
心より感謝申し上げます。

『和だちプロジェクト』の活動としましては、


【令和元年】 『和』の学級経営   ~国体~
【令和2年】 『和の国』日本国講座 ~伝統文化~
【令和3年】 先人たちの『神語』  ~国史~
【令和4年】 『新・日本文明』   ~経済~
【令和5年】 『日本再興戦略』   ~政治~


と進めてまいりました。





そして、

令和6年は特に、

我が国古来の教育の在り方を模索し、

『日本人のこころ』と題して

先人たちのお姿や遺してくださったお言葉・書物から学び、
我が国の教育をどのように進めていくのか?
に重点を置いて
研究したことをお伝えをしてまいりました。


今回の記事では、
『日本人のこころ』の総集編として、
これまでの教育観を整理してお話させていただきたいと考えています。


最後までお読みいただけると幸いです。

よろしくお願いいたします。






1)なぜ、今「教育」を見つめなおすのか?





私はまだ小さいころ、従業員の人に、
「お得意先に行って、
『君のところは何をつくっているのか』と尋ねられたら、
『松下電器は人をつくっています。電化製品もつくっていますが、その前にまず人をつくっているのです』と答えなさい」
ということをよく言ったものである。いい製品をつくることが会社の使命ではあるけれども、
そのためにはそれにふさわしい人をつくらなければならない。

(松下幸之助 『実践経営哲学』・PHP研究所)



数人の町工場から世界的な大企業に成長させた
松下電器産業、現在のパナソニックを創業した
松下幸之助さんは、著書の中でこのように語っています。





少数の限られた天災の活躍だけでは、
経済全体の発展は望むことはできません。
広く国民一人一人が「世のため、人のため」という和の精神をもち、
多様な本を読んで学び、
それぞれの持ち場で主体的に考える力を発揮してこそ、
一国の経済が発展します。

明治日本が急速に近代化を遂げ、
日清・日露の戦役を勝ち抜き、
わずか半世紀で世界の五大国にまでの大躍進という
世界史史上初めてのことをやってのけたのも
幕末から明治・大正の教育が成し遂げた奇跡です。

また、
大東亜戦争終結後に、
世界最貧国から、奇跡的な経済復興と高度経済成長を達成できたのも、
戦前の国民教育の成果だと言えるでしょう。




しかし、
戦後は占領軍の戦前教育をすべて悪と断罪する政策、
それを引き継いだ日教組の活動、
さらにその影響を受けた文部科学省の教育政策の迷走により、
我が国の教育制度の荒廃が続いていきました。

ただし、
これだけ学校教育がふらついている中でも、
いまだに我が国の学力レベルが世界でもトップレベルにあるのは(少なくとも義務教育段階までは)、
志ある親や教員の家庭や教育現場における奮闘の賜物だと思います。





現在の日本は、
・経済の停滞
・高齢化と人口減少
・政治の漂流
など…
国難ともいうべき時期にありますが、
これらの危機は外からきたものではなく、
政治にしろ経済にしろ、
十分な人材が育っていないことからきた内発的なものです。

戦前を必要以上に全否定した我が国の歴史や伝統文化に基づかない
日教組の売国偏向教育
と文部科学省の政策によって
学校はあれども「人づくり」はおろそかにされてきたことが
現代の我が国を襲っている危機の主要因であると僕は考えています。




国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。


教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方を
考えることができると思うのです。



2)「日本人」という生き方





天皇が国民のために国を建て、ひたすら国民の幸せを祈る。
その姿を見て、
「自分も国のために何かできることはないか?」を真剣に考える国民。

これが我が国の国体(国柄)です。

国に生きる皆が「世のため人のために役立つことを進んで行う」
そのためには、
ものすごい教育が行き届いていなければ為すことはできません。

人は、弱い生き物です。
快楽に陥りやすいのです。


教育の基本は、ここなのです。
テストでよい点数を取ること。
試験に合格すること。
そんなことよりも、大切なことは、


「何のために人は生きるのか?」


ということなのです。






「他人を蹴落としてでもいいから、のし上がれ」
「世のため人のため。そんなものは、成功してからの話だ」



一瞬嫌悪感を覚えるかもしれませんが、
これは、世界では当たり前のことです。

ボランティアというのは、成功者がやるもの。

これが世界の当たり前です。

でも、日本では違います。

金持ちだろうが、貧乏人だろうが
「世のため人のため」に働くことは日本では当たり前
のことだと考えられています。

ヨーロッパでは、貧乏人は法律を守らないと言われています。

生きるために法律なんて守っている場合ではないからです。

だから、スラム街では犯罪が頻発します。

でも、日本ではそうはならない。

そもそもスラム街が形成されません。

貧しい人が犯罪を起こすなんてありません。





幕末にタウンゼント・ハリスという外交官が
下田に駐在した時に日記を書いていたのですが、
下田周辺の農村は大変貧しかったそうです。

ハリスは、漁村を見てびっくりしたということが日記に書かれています。

「人々はものすごい貧しい。しかし、振る舞いは貴族のようだ。
 来ている服は、ボロボロだがきちんと着ているし、

 みんなが協力し合いながら、助け合いながら暮らしている。」


貧しいけれど、立ち振る舞い、生き方、考え方は貴族の生き方だ、
というのです。

貧乏人だったらボロボロでだらしない。
貧乏人だったた人の物を取るのは当たり前。
貧乏人だったらわがままになって当たり前。
これが世界の当たり前なのです。

でも、日本は違うというのです。

どんなに貧乏でもそれだけはやってはいけないというものがあるのです。

衣食足りて礼節を知るというのが西洋です。

でも、
衣食足りなくとも礼節を汚さない。これが日本なのです。





国王と国民が対立することは世界では常識です。
国王が多く税金を取ったら、
贅沢三昧暮らすことができるが、民は苦しむ。
反対に、
国王が税金をあまりとらなかったら、
国王の生活は苦しくなり、民は富んだ生活を送ることができる。

取るか取られるかという利益相関関係にあるわけです。

君と民が対立関係なのは、世界では常識なのです。

しかし、
日本では君と民が対立関係になったことはありません。

「世のため人のために役立つことを進んで行う」


しかも、一人だけではなく、何人もの国民。

そして、君主である天皇陛下も進んで行う。
だからこそ、2000年以上国が続いてきたのです。

これは、

「世のため人のために役立つことを進んで行う」

このような教育を
幼いころから環境としてつくってきたからこそなせる業なのです。




「他者のために生きる」




自分が幸せになるために一見遠回りのように見えますが、
確実に自分が幸せになる方法なのです。

人間は、
自分のためだけに生きて幸せになった人は、この世に一人もいません。

自分のために働いてお金を得る。
そして、
そのお金を自分のためだけに使う。
どんどん仕事を成功していき、車も家も手に入れることができ、
美味しいものが食べられるようになって、いい腕時計をつけて、
お金を散財する。

これが幸せですか?

と言ったら多くの人が幸せではないと答えるのではないでしょうか。




生き方を考えることは、死に方を考えることです。

死ぬ間際に自分人生を振り返った時に
どのような思い出が浮かんでくるのか?

豊かな人生を歩んだ人はどのようなことを思うのか?

自分の快楽だけに生きた人はどのようなことを思うのでしょうか?

自分の快楽だけに生きた人は、
自分は大きな家を買ったぞ!いい車を乗り回したぞ!
あぁ~、いい人生だった!

となると思いますか?

いいえ、なりません。

自分の人生は虚しかったなと思うだけです。

自分のお葬式で大切な人にどのように言ってもらえたら
いい人生だったなと思うことができるでしょうか?

「あなたがいてくれたおかげで今の自分がある。」
「自分がどん底にいたときにこんなことを言ってくれた。その一言で自分の人生は変わったんだ。ありがとう。」
「私はあなたの子どもで幸せでした。」


こんなことを言われたら、もう嬉しくて仕方ないですよね。

最高の死に方というのは、

惜しまれながら死んでいく

これに尽きると思います。




では、どのような人が惜しまれながら死んでいくのか?

答えは明確です。

それは、


「世のため人のため」に生きた人


です。


家族のため
地域のため
会社のため
国家のため
なんでもいいです。

「世のため人のため」に生きた人

このような人は惜しまれながら死んでいくのです。

だから、
自分のために生きた人は幸せにはなることができません。

世のため人のために生きた人が幸せになることができるんです。

そして、
このことを私たちは子供のころから教わってきているのです。



3)「教育の力」で荒廃した日本を立て直す





アメリカのMicrosoftの創業者にビル・ゲイツという方がいます。

彼は、金持ちになりたいと思って会社を立ち上げました。

そして、
金があればあるほど幸せになることができると思った。

バリバリ頑張ってお金を得た。

でも、まだ幸せじゃない。

だからもっと頑張って小金持ちになった。

でも、まだ幸せではない。

それは、金がまだまだ足りないからだと思った。

だからもっともっと頑張って
世界一の大金持ちになりました。

そして、
フォーブスが世界一の金持ちにビル・ゲイツと出したその時、
彼は絶望します。

世界一の金持ちになったけど、
なんでこんなに不幸だと思ったんですって。

そこで彼は気づきました。

「そうか…。人生金じゃない…。」

遅すぎるだろっ!
と思わず突っ込みを入れたくなりますが、

そんなこと日本の子供たちはみんな知っているわけです。


その違いなのです。

だって、

アメリカでは「金がすべてだ!」と教育しているのですから。

「とにかく稼げ!」と。

でも仕方のないことです。

激しい競争社会なのですから。

アメリカで負け組になったら本当に大変です。

だからとにかく勝ち組に行け、と。

とにかく親は必死です。

「世のため人のため。そんなことを言っている場合じゃない。
それは自分が金持ちになってからの話だ。」と。

競争社会だとそのようになってしまうのです。

人は環境によって大きく変わるのです。





「強くて優しい大人になってほしい。」
「立派な大人になってほしい。」
「周りから慕われるような大人になってほしい。」
「世のため人のために役に立つ大人になってほしい。」



そのような期待をかけられながら子供が育っていく。

だからこそ、そのような大人になっていくのです。

お金には確かに価値がある。

力がある。

でも、
お金では決して手に入れることができないものは本当にたくさんあります。

本当に大切なものは決してお金では手に入れることはできません。

すべては教育なのです。

もしも、教育が荒廃したらどうなるか。

私利私欲にまみれた人ばかりになっていきます。

そのようななってしまったら
もはやその国は「日本」と呼んでよいものなのか。


「このままでは、日本が終わってしまう。」
と。


この現状を何とかしないといけない。

そう決意し、
先人たちは「教育」を通して、
我が国の未来を思い描いてきたのです。


だからこそ、

「教育の力」で日本国を一緒に立て直しませんか?



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