【映画評】「ライフ・イズ・ビューティフル」(1997) 「美しい人生」という醜い子供だまし
「ライフ・イズ・ビューティフル」(ロベルト・ベニーニ、1997)
評価:☆☆★★★
一言で言えば、子供を騙す映画である。
騙すのは父親である。なぜ騙すのかというと、ナチの収容所で、我が子が辛い現実に傷つくのを防ぐためである。収容所に移送される時は「お前の誕生日だから旅行に行くんだよ」と言い、収容所につくと「これからここでみんなでゲームをやるんだ」と嘘をつき、大人に課せられる強制労働も「楽しいゲームだなあ」と笑顔で強がり、子供を隠して生き延びさせるために「さあ、かくれんぼだ!」と駆り立て、「ゲームに勝ったら本物の戦車をあげよう」と嘘をつき……。
はっきり言うが、そういうシチュエーションで「子供を騙す」ことでどうにかする、という設定自体が子供だましである。
ナチスも舐められたものだ。はっきり言って、いい大人が観る映画とは思えない内容だが、これは大人向け映画である。つまり、良き父親が最期まで「優しい嘘」を貫く姿を観て、大人が感動するための映画である。
ある意味、大人が感動するために、「こうであってくれれば良い」子供像を押し付ける映画だとも言えるだろう。「子供」というのが、収容所の劣悪な環境でもあっさり大人の嘘に引っかかってくれるような存在であれば、大人が「優しさ」を貫いて自己満足するのに都合が良い。自己満足にとどまらず、本当にそういう方法で息子の命を救ったのであればご立派なことだ。が、1997年のイタリアや日本で、「大人」に都合の良い「子供」像を、過酷なシチュエーションの物語に放り込んで感動するとなると、話は全く別である。
「純真無垢な子供」というイメージを一方的に押し付けられるのは、子供にとって重荷なこともあるのではないか――という、真っ当な視点が入り込む余地のまったくない映画である。それではいけないのだ。
いや、この映画で、一方的なイメージを押し付けられているのは「子供」だけではない。主人公グイドもまた、嘘つき、すなわち優秀なストーリーテラーという「特別な人」のイメージを、多くの人々にとって都合の良いように与えられたキャラクターだと言える。
グイドは、口先がうまく、小器用に世を渡り、突拍子もない行動で周囲を驚かせる、頭の良い人物として描かれている。グイドのように小器用ではない大多数の人々から見て、いかにも「この社会」とは別の世界に通じていそうな、別の世界のことを教えてくれそうな、この社会の煩雑な規範をするりとすり抜けてくれそうな――つまり、一種のアウトサイダーの定型的な素質の持ち主だ。
「特別な人」でなければアクセスすることのできない別の世界――「もう一つの現実」が、「この現実」を生きる人々の前に姿を見せることで、観客は感動する。それは、虐げられてきた者の復権にも似たカタルシスであり、同時に、「特別な人」というものについてパターン化された物語の、パターン化された感動だとも言える。「ライフ・イズ・ビューティフル」の終盤でなぞられるのも、同じパターンである。
パターン化された感動をなぞること自体が悪いわけではない。が、「もう一つの現実」が「この現実」に姿を現すために着地する場所はどこか、ということには注意しなければならない。着地点で、アウトサイダー復権の感動を、インサイダーに都合よく利用しようと待ち構えているのは誰だろう?
「ライフ・イズ・ビューティフル」では、着地点はずばり、アメリカだ。
そして、もちろん、そういう場所に着地してはいけないのである。
「ライフ・イズ・ビューティフル」では、「この現実」は収容所の過酷な現実であり、「もう一つの現実」は、みんな自分の意志でゲームをしているだけだという、グイドが息子ジョズエに聞かせる嘘である。ゲームは、怖がったりせず我慢すれば得点がたまり、1000点で戦車がもらえるという設定。薄々不自然さを感じながらも、ジョズエは、戦車欲しさに、過酷な現実をゲームのつもりでサヴァイヴする(ナチス舐めんなよ!)。
物語の終盤で、グイドは殺され、ナチスは撤退し、他の囚人たちは逃げ出し、ただ一人、隠れていたジョズエは収容所に取り残される。やがて、呆然と立つジョズエの前に現れる、解放者アメリカ軍の戦車。ジョズエは、「やっぱりゲームは本当だったんだ! 僕は1000点取ったんだ!」とはしゃぐ。
「もう一つの現実」が、「この現実」を生きる健気な子供の前へとようやく姿を現し、観客は感動するわけである。
アメリカ軍の戦車は、物質化された「もう一つの現実」だ。自由で善良な国アメリカが、ファシストからユダヤ人を解放したのだという、個別には正しいかもしれないが大局的にはイデオロギッシュでしかない神話が、ここでは、「もう一つの現実」が姿を見せることの感動によって、真正面から肯定されている。「もう一つの現実」は、「特別な人」グイドが作った点で正当であり、「純真無垢な子供」ジョズエが信じようとした点でも正当であり、そして、ナチスの被害者が収容所ですがりついたというシチュエーションからいっても、歴史的に正当だ。3重の意味で正当な「もう一つの現実」を実現してみせたのだから、アメリカ軍が正当ではないはずはない――というわけである。
ジョズエ少年が、本物の戦車、つまり暴力を行使するための道具を欲しがって「ゲーム」を我慢し続けたことは象徴的である。「もう一つの現実」を実現しうるのは暴力だけであり、「もう一つの現実」を生きようとすることは、潜在的に、暴力を志向することだ。言うなれば「ライフ・イズ・ビューティフル」は、夢見ることの力、つまり夢見ることの暴力性を描いた作品である。
だが、それは結局、誰の「暴力」だろう。自分自身の暴力を奪われた者、「自分の暴力」から疎外された者は、他者の暴力を拠り所としなければ、自らの志向している暴力を発露させることができない。強者は弱者の暴力志向を自らの正当性の根拠とし、弱者は、強者の暴力を、部分的に自らのものとして実現するのだとも言える。それはいわば、搾取者と被搾取者の共犯関係でもあるだろう。
少年は、自分が望んだ暴力を得るために、ある意味、アメリカという強者を利用する。アメリカ軍の戦車は、収容所の中で弱者が渇望していた具体的な物質のイメージとして、物語の終着点にピッタリと配置されている。ユダヤ人少年とアメリカの関係は、あまりにもなめらかで、直接的で、相補的である。それはつまり、この作品が、プロパガンダ映画の文法を、あまりにもなめらかになぞっているということだ。
アウトサイダーのストーリーテリングを利用するインサイダー――「無垢な子供」という記号に一方的に満足する「大人」――自分たちが敵国の人民に「良いこと」をしたのだという正当性を強調するため、個別的エピソードを際限なく必要とする戦勝国。こうした関係をあえて「搾取」と呼ぶなら、それは、搾取者にとって都合の良いイメージを、「これはお前の利益にもなるのだ」と言い添えながら被搾取者に押し付ける、陰湿な搾取だと言えるだろう。
そして、「ライフ・イズ・ビューティフル」のベタな筋書きに感動する観客の眼差しは、明らかに、そんな陰湿な搾取者と相通じているのである。