『トカトントン』を読んで
太宰治の短編である、『トカトントン』を読んだ感想を書こうと思う。
タイトルの『トカトントン』は、見ての通りオノマトペである。
ものすごく簡単にあらすじを書く。
「トカトントン」という音を聞くと、心が萎えて何もかもどうでも良くなってしまう青年が、ある作家に相談の手紙を書く、という話である。
いわゆる書簡体小説であるが、太宰のエッセンスが詰まった名文であると、個人的には感じている。
手に入りやすい新潮文庫では『ヴィヨンの妻』に収録されている。他にもApple Booksや青空文庫でも読むことができる。
「死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました。
ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたように、きょろりとなり、なんとどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。」
上記のように、青年は自殺の念まで『トカトントン』で打ち消されてしまう。他にも仕事に精を出そうとし、『トカトントン』。好きな人ができたと思ったら『トカトントン』と自身の抱く感情すべてが打ち消されていく。
私もnoteを始めて3日目である。「文章で何か表現したい」という思いで始めたが、そろそろ『トカトントン』が聞こえてくるのではないかと、恐怖を感じている。
最後の作家からの返信は、聖書からの引用などがあり、「何言ってるかわからない」というのが正直な感想である。
「拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この「懼る」は、「畏敬」の意に近いようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。」
以下に私の考えを書こうと思うが、全くの検討外れかもしれない。
本当にやりたいことは何か?
自分の心に耳を傾けた時に、何を訴えているのか、何を望んでいるのか、聞こえてくるのは『トカトントン』ではないはずではないのか。と、作家は言いたいのではないかと思う。
つまり、「あなたは、まだ本気で人生に向き合っていない」と。
この作品は本当に奥が深い。私の感想は全く稚拙であると思う。だが、「文章で何か表現したい」という思いはより深まったように感じる。
これからも、読み返し考察していきたい作品である。