『ひとの気もちはわからなくてよい!?』第266言
ひとの気もちはわからなくていいんだって思いましたーーーなんて言ったら、どんだけ冷たい人間なんだと思われそうである。。汗
いえいえ、ひとの気もちは「わかろうとすることは大切」ですw
だけど、「わからない」ことも知った上で、というのが今日の話。
そりゃ共感できた経験はいっぱいあるし、想像して同情することはできるけど、わからないもんだよなって思ったのです。
「こんな思い、同じ目にあった人じゃなきゃわからない」
「味わったこともないのに、何がわかるの?」
「そんなに言うなら、全く同じことやってみればいいじゃん」
「やれるもんならやってみてよ、それで同じこと言えるなら言ってよ」
なーんて。
出来事、病気・・精神的であれ、肉体的であれ、やさグレたくもなるツライ経験をしたひとは、(そうそう)とわかるんじゃないでしょうか。
で、思ったんです。
当事者でなければわからないものは、やはりある。
ただ、
「さっきのやさグレたセリフを言いたくなるような気持ち なら」わかる。
ただそれだけなのです。
わかろうとすると、
わかったつもりになるし、
相手をわかってあげようとすると、
自分のこともわかってもらいたくなる。
相手の気もちをわかる努力訓練をしていたら、意外ではあるけれど、次は、相手の気持ちはわからないという事実を知ることも大切な気がしています。
思いやりは大事だけど、思いやりは「自分の思いを相手に遣る」ことであって、相手が本当にそうだとは限らない。
やっている行為がウェットなら、思考はドライなくらいがちょうどいいのかもしれない。
行為も思考もウェットだと、どうしてわからってくれないの?こんなに思っているのに。とか、どうせわたしの気もちなんてわかんないでしょう。とか、エゴやひずみも出てくる。
どうせ分かんないでしょ、という経験があるなら
どうせ分かんない、相手のことだってある。
どっちも「わからない」は同じなのである。
そんなもんだ。←最近これくらいがちょうどいいと思うことが結構ある。
おなじ分け御魂。
形は違えど、みなそれぞれ同じように違う経験をしている。
形は違えど、みなそれぞれ同じように痛みも経験している。
形は違えど、みなそれぞれ同じように喜びも経験している。
みんな違うのがみんな同じなのである。(なぞなぞみたいw)
あなたの痛みや苦しみがわからなくても、形は違えど、わかるものはあって、同じなのである。
だから、わかるんだ。形は違えど、ね。わからないけどw
なんだか取り留めもない話になってきましたが・・・汗
わかろうとするけど(or わかってもらいたいけど)、わからないかもしれない。そんなもんだ。と緩ませておくと、なんだか穏やかで心地いいんだよなと思ったのです。