〝終戦から6年後〟という写真で、母のあれやこれやの事を思い出す。
ニュース・サイトで目を惹かれパラパラと、、
物乞いの写真を観て、母と弟と連れ立って渋谷にはよくお出かけしていたその帰り、文化会館前(現在の渋谷ヒカリエ)のバス停の端に陣取った傷痍軍人の皆さんを思い出す。
小学校に上がるかどーかな頃の子供だから、バスの停車ボタンを押したい衝動と同じよーなレベルで、座った前に置かれたお金受けの皿に入れるべく母に小銭をねだる。最初のうちは何も言わずに小銭をもらっていたが、そのうちに嘘だとは言わないけれどあの人たちは恩給をもらっているから、、と言い、強くはないけど嫌悪だろう眼差しとその物言いが記憶にある。
*
なるほど、いまになって考えればこの記事の写真が撮られてから20年余りたった頃、、軍人をイメージさせる白装束に身を包み軍歌のような音楽も流れていたか、、子供にはおどろおどろしく見える筆書きのメッセージ、、演出としては効果的だ。
ここで書きたいのは、別にその時に見た傷痍軍人さんたちをあげつらったり批判するつもりではない。
ただ、その当時に生きていたわたしの母がそんなフゥに思っていた考えていた、、という記録。それだけだ。
* *
ついで思い至ったのは、写真が撮られたという終戦から6年後の〝1951年〟は母が15、6歳の戸板女子の高校生だった。
母から戦中は高輪で食堂を家業としていたと聞いた。その後に高輪がどうなったのか聞いたか聞いてないか覚えていないが(たぶん焼けちゃったんだと、、高松宮から50mとないシマケン家に不発の焼夷弾落ちてんだから)、、
終戦をむかえ学童疎開から戻り住む場所探して、焼け野原とガレキだらけの三田五丁目・国道1号沿いのT字路の角っこ、元の地権者さんに話をつけにいってバラックの掘っ立て小屋を祖父が作り、商売屋をするにあたって魚屋か八百屋のどっちがいい? と聞かれ、魚屋は臭いから嫌だといい八百屋を始めたんだと。
その八百屋も軌道に乗りはじめ、祖父は更に稼ぎを増やそうと郵便局の臨時配達員を今でいう副業のようにはじめてすぐ倒れて寝たきりになってしまったと。
15、6歳の高校生の母は家計を支えるため、登校前にヤッチャ場(八百屋市場・青果市場)まで売り物にする野菜他を仕入れにいく。
朝早く制服姿でリヤカーを引く、、白金から清正公までダラダラとした昇り、そこからちょっと谷になって高輪台までしっかりした昇り道が続き、そこから一気に五反田駅まで下り道。ヤッチャ場で仲買さんから仕入れた野菜を積んだリヤカーで来た道を戻らなくちゃならない。
子供の頃にも思ったが、空荷のリヤカーでさえも五反田駅前から高輪台の上り坂はキツイだろうに、、売り物の野菜他1日分の荷物を載せたリヤカーを引いてどうやって昇ったんだか不思議だ。
* * *
付け足し。
やっぱりガキの頃、独りであっちこっちふらつくよーになって新宿駅なんかで観た光景。
トイレで虚無僧や袈裟に着替えて、また帰りに衣装(?)はコインロッカーに預けるなんつー、、そういう怪しい輩も居たっけなぁ。w
そーでない、ちゃんと仏門に帰依して托鉢で廻られてる方も居らしたんだローけど。
*
傷痍軍人の方たちも、、同じ様な感じだったかもしれない。けれど、恩給をもらっていたにしても、それで満足な日々の生活費や将来の展望をもてるよーな金額ではなかったろーし、、
そんなフゥにしちまう戦争の悲惨だよね。
* * * *
ありがとうございます。励みになります。m(_ _)m