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美しき茶道の師範から学んだ、人生の真髄

「どうしてこの人のように生まれなかったのだろう?」

私は、そんなふうに他人の人生に強く憧れたことがある。三ヶ月間、茶道を習った先生に対してだった。

あれは30代になったころだから、20年以上前のことだ。

会社で営業を担当していた私は、多忙な日々を送っていた。といってもそう思っていたのは本人だけだろう。何事も一生懸命やれば上手くいくはずという視野の狭さが足をすくって、ミスが生じることが多かった。そのリカバリーで時間がどれほどあっても足りなかった。

そんなときに納品ミスがあり、京都へ出張しなければならなくなった。なんとか処理できて帰りの新幹線まで時間が奇跡的に空いた。せっかくだから私は地下鉄のポスターに載っていたお寺に行ってみようと思いたった。東山の「高台寺」である。豊臣秀吉の正室”ねね”が創建した寺だ。

ちょうどしだれ桜が満開だった。何かを鑑賞して心が動くような経験は久しぶりだった。境内には千利休がつくった時雨亭という名前の茶室があり、寺の格式をうかがわせた。ここでお茶をいただくことはできなかったが、少し離れた敷地にある茶室には「お抹茶席」という看板が立っていた。有料で抹茶とお菓子を提供しているようであった。

「桜の余韻を味わいながらお茶を飲んでみたいな。でも、作法がわからないし……」

私は入口でためらった。

いかにも茶道の心得がありそうな着物姿のご婦人のグループが「一服していきましょう」と気軽になかへ入っていく。

ますます入りにくくなり、私は茶室に入るのをあきらめ、高台寺をあとにしたのであった。

何も考えずに、がむしゃらに働く毎日が再来した。私の心のなかには高台寺の茶室がずっとひっかかっていた。

あの時、あそこでお茶を飲めたら、どれほど心が安らいだのだろう。どれほど美味しかっただろう。疲れている自分をねぎらいたかった。

それがきっかけで茶道を習おうと決心した。しかし、周囲に茶道に縁がある知人がいなかった。

インターネットが発達していない時代だった。近所の茶道教室のリストを手に入れるために公民館に問い合わせた。そこでもらったメモをもとに、かたっぱしから電話をかけてみることにした。

一軒目では、高齢のご婦人が出たが「身体を壊して教室をやってないのよ」ということであった。

留守電の応答が数軒続き、リストの5番目くらいにあった番号にかけた時、若い女性が出た。

「あの、公民館で番号を教えてもらったんです。初心者ですけど茶道に興味があって」

「初めて? 土曜の午後に見学に来られますか」

感じのよい応答だった。住所を聞いて、その週末に訪ねることになった。

会社用のグレーのひざ丈のスカートに白いカーディガンをあわせて、自分なりに茶道にふさわしいと思われるかっこうを選んだ。肌寒い早春の時期だったから、いつも通勤で着るコートをはおった。

場所は、いつも駅へ行く道すがら「すてきだな」と眺めていた低層の高級マンションであった。私は緊張して玄関のインターホンを押した。

重厚なつくりの黒っぽいドアが開いた。室内から流れ出たあたたかい空気とともに着物姿の美女が現れた。

「こんにちは。杉村さん?」

「あ、は、はい。そうです」

私と同じくらいの年齢のようだ。紺色の着物に茶髪の長い髪を上品なアップにまとめあげていた。声のトーンと笑顔が自然で、私は緊張が溶けていくのを感じた。

同時に「スカートを履いてきてよかった」と安心し、すぐに不安になって自分の足元を見て、ストッキングが伝線していないかすばやく確認した。私は根っからのおっちょこちょいで、履くそばからストッキングを伝線させてしまうような大雑把なタイプだからだ。

さらに外回りが多い仕事だったため、年中日焼けしているし、髪もあまり手がかからないショートカットだった。

対して彼女は、身体に溶け込むように着物を着こなしている。茶道教室に来なければ絶対に交差しなかった、完全なる別世界の住人。

室内で育てられた胡蝶蘭のような白い首筋を見て、この人はきっと誰からも大切にされるタイプに違いないと思った。私のように疲れて帰ってきて、自分がみじめになってこの世に身の置き場がなくなるような経験はしたことないんだろうな。

「さあさあ、入って」

女性はサバサバしていた。見た目とのギャップに好感が持てた。

案内されたのは、イタリア製と思われる大きなデザインソファが、ガラスのテーブルを囲むモダンなリビングであった。天井まである窓から入る日差しが白い壁に反射していた。

リビングから続く奥の空間は、高さが一段上がって障子で仕切られた六畳の畳敷きになっている。奥に床の間、空間の中央には炉があり、鉄の釜が湯気を上げているのが見えた。

その炉に対して着物姿の女性が2人、男性が1人、正座で一列にならんでいる。生徒さんらしかった。視線が私に集まった。レッスンが始まっていたようだ。

「うわー、本気の人ばっかりじゃない? 場違いなところに来てしまった!」

先生は、私を紹介してくれた。畳の隅に座ろうとすると「あなたのお菓子も用意したから」と言われた。動けずにいると「大丈夫。みんなのまねをすればいいから」と背中を押され、私は列の4人目に座った。

先生は、炉を挟んで私たちの対面に座り、こちらを向いて「今日は初めての人がいるので、復習の意味もあって茶道の基本についてお話ししますね」と切り出した。

「今の茶道を完成させたのは、千利休です」と言って、持っていた小さな扇子を広げた。表面に小さな筆文字がびっしりと書かれている。「利休百首」といって、利休が茶道の心得を100の短歌にまとめたものだ。

彼女は一首目にしたためられている句を読んだ。

「その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけれ」

何事も自ら進んで習うようでなければ上達しない。自発的に習ってみようという気持ちこそが、立派な師匠なのだ。利休は、茶道の心得をそう説いたという。残りの99首には、茶室での教えを事細かく記してあるそうだ。

「ルールを100の短歌にするとは、洒落た人だ」と私は心のなかで感心した。

「茶道の心構えでもう一つ大切なのは、こちらです」

今度は床の間の掛け軸を指した。

そこには『和敬清寂』と書かれていた。みんなが仲良く、清らかな気持ちで茶道をしようという意味の禅語だ。お茶会の亭主は季節や招待客の層を考えて軸を選ぶという。例えば『一期一会』も茶会で好まれる禅語だ。

単なる装飾だと思っていた軸に思いがこもっていたとは予想外だった。

「抹茶、見たことある?」

そう言って先生は棗(なつめ。抹茶を入れておく容器)のふたをとって私に見せた。なかには新緑に輝く小山のように抹茶が美しく盛られていた。

「抹茶はね、もともと薬だったのよ」

「ええ? そうなんですか?」

日本に初めて抹茶が持ち込まれたのは、鎌倉時代だった。中国の宋で修行していた栄西が、当時むこうの禅宗寺院で流行していた抹茶を持ち帰ったのがきっかけだった。栄西は禅宗の臨済宗を日本に伝えた僧であり、抹茶は禅宗寺院を中心に広がっていった。だから、茶道は禅との関係が深いのだ。

禅宗は座禅を中心とした厳しい修行を通して悟りを開くことを目的としている。睡眠欲を消し去り、さらに修行に集中するためにカフェインを含む抹茶を服用し、覚醒効果を求めたのだという。

知らないことばかりであった。

「難しい話はここまでにして、これから稽古をはじめます。今日は私が点てますね」

と言って先生は、和室の外へ出ていき障子を閉めた。何が始まるのかと思って見ていると、障子が静かに開いて一礼し、水指を持って入ってきた。すっと伸びた背筋を保って別の人のような緊張感がみなぎっている。また出て行って次に茶碗と棗、最後に柄杓と建水を持って入ってきた。

そのあと帯に差した帛紗(ふくさ)を広げ、別の形にたたんでいくつかの道具を拭いて清め、湯気をたてている釜から湯を柄杓で茶碗へ注いで温めて、そのお湯を建水へ捨てた。茶巾で茶碗に残ったしずくを拭き、その茶巾を釜の蓋の上に置いて……一杯のお茶を点てる行程は細かく複雑であった。しかし、先生の所作と手つきはまるでマジシャンのように優美で、ショートムービーのように引き込まれた。

「先にお菓子を食べていてくださいね」と言われ、草餅が載った四角い皿が隣から私のところへ回ってきた。黒い釉薬に緑が映えて美しい。餅の表面に何かのマークの焼き印が押してある。隣の人をまねて、黒文字の箸で自分の懐紙に載せることができた。

「今日のお菓子は『早蕨(さわらび)』といいます。早蕨は、源氏物語をはじめ数多くの和歌に詠まれた春の季語です。餅の表面に刻印されているのは、芽を出したばかりのわらびです」

粒あんをよもぎ入りの羽二重で包んだお菓子だったが、見た目といい味といい、私がふだん食べている和菓子とは別次元であった。茶筅が動く音が聞こえてきて、先生が点てたお茶が出てきた。

泡立ちはきめ細かく、中央で泡が盛り上がるように心なしかふくらんでいるように見える。

「うちは裏千家だから、泡をたてるんです。表千家は、泡をたてないんですよ」

千利休を祖とする茶道には、3つの流派がある。いずれも千利休の孫である千宗旦(せんのそうたん)の子どもたちが作ったものなのだ。次男が「武者小路千家」を、三男が「表千家」を、四男が「裏千家」を興し、それぞれ家元制度になっていって組織として大きくなっていったのだ。泡の立て方以外にも、使う茶道具や作法にも違いがあるのだという。

さらに彼女は続けた。

「今日の抹茶は、小山園のものです」

「いろいろと今日のために取り合わせてくださったんですね」

私は御礼の気持ちをこめて言った。

すると先生は、「それが茶道の楽しみ方なのよ。お菓子もそうだけど、道具にも作者の思いがこめられているの。例えば今杉村さんが使っている茶碗は『好日』と言って祖父が焼いたもの。この茶杓も祖父から譲り受けたもので『春風(しゅんぷう)』という銘なの。私は、そういったものをコーディネートしている感覚かな」

私は、彼女が若いにもかかわらず、博識であることにビックリし、さりげなく置かれた道具類が急に輝いて見えた。ここは、先生の感性が作り出したこの世にたった一つのワールドなのだ。

ついに別の自分に生まれ変われるときが来たのかもしれない。ここで学べば私も先生のように優雅で品よく生きられるかもしれないのだ。

利休百首の効果もあるだろうが、それで「次週から来ます」と申し込んで茶道を学ぶことになった。

翌週は、私が一番乗りであった。先生とリビングのソファに向かい合って座った。今日は上品な藤色の着物で先週に増して洗練されて見えた。

「いつも着物なんですか?」

私はずっと聞きたかったことを尋ねた。

「これ、気に入っていて。着物には格があって正式なお茶会には着ていけないけど、お稽古のときはこれで通しているの」

さらに話が広がって、御祖父様が茶道具のコレクターであり、陶芸家だったこと。お母様もお茶の先生だったから、子供のころから茶道の先生になることだけを考えてきたこと。高校を卒業して京都の茶道の専門学校に通い、師範の資格をとったあと、お母さまと暮らしながら茶道の先生をはじめたという経緯を教えてくれた。

さらに先生とは同い年で同じ月の生まれであることがわかった。それなのに、生まれた家の違いでこれほど人間は異なるものなのだろうか。

茶道の作法を覚えるのは、大変だったが休まずに続けた。数か月後のある日、鎌倉の別邸で開かれる茶事のアシスタントをしないかと声をかけられた。お弟子さんは年が離れた人ばかりだったので、年齢的に私がいちばん頼みやすかったのだろう。

茶事とは、正式な茶会のことだ。先生が、茶道の関係者を招いて亭主を務めるのだという。

正午にお客様が集まり、初炭(客が入り終えると亭主が行なう炭点前)、懐石、そのあと菓子が出る。それで中立となり、銅鑼の合図で再び席につき、濃茶(たっぷりの抹茶に少量の湯を注いだもの。茶事において最も大切なもてなし)、後炭(火を直すために行う炭手前)と続き、そのあと薄茶が出て終了。だいたい4時頃までかかるという。

別邸は、御祖父様が制作の拠点として使っていたそうで、茶室も備えていた。閑静な山並みに溶け込んだ日本家屋で、まるで雑誌の家庭画報に出てきそうだった。

私は、先生に別荘のなかを案内してもらい、教わりながら庭の水まきを行った。これはとても大切な作業で、お客様に瑞々しい緑やしっとりとした石畳みを見てもらうことが、最初のもてなしになるのだという。さらに、着物の裾が濡れないように、庭と玄関の水溜まりの水を雑巾で吸い取るように頼まれた。

先生は、その間も蹲(つくばい。手を清めるために露地に置かれた手水鉢)の準備、煙草盆(喫煙が嫌われる昨今でも、茶席には煙草盆を置くのが習わし。キセルや、灰型が美しく整えられた火入れがセットされた鑑賞品としての役割を果たす)を整え、床の間に飾る花を活けたり、あちらこちらと忙しく動き回っていた。

茶事が始まると、私はお手伝いさんが作った懐石やお菓子を持って廊下と台所を行ったり来たりした。無事にお客様の見送りを終え、私は茶碗を水屋に運んでいた。緊張がゆるんだせいか足元がふらついた。

「あっ!」

私は、茶碗を床に落としていた。お手伝いさんの驚いたような目が私と床に注がれた。

あわててしゃがんでみると、幸いにも茶碗は割れておらず無傷であった。先生の御祖父様が特に気に入っていた一品だと聞いていたので私は心底安心した。しかし、同時に不思議な感覚があった。最初に持ったとき、この無骨な茶碗が自分の手に反発したような感覚があったのだ。

声を聞いて先生がやってきて言った。

「ケガしなかった?」

「うかつですみませんでした! 茶碗が無事でほんとうによかった」

「いいのよ。茶道ではね、茶碗は消耗品なの。割れた時には、お勤めを果たした幸せな茶碗だと考えるのよ」

私は無言になった。この人は見えないところでどれほどの紆余曲折を経てきたのだろう。茶事を手伝うことで茶道の師範は想像以上に気を遣い、ストレスが多い仕事だと心底感じたからだ。

先生の人生をうらやむなんて浅はかだった。私は思った。

それと同時に、自分のなかで見えていなかったことに気づいた。それは、私は茶道に向いていないということだ。

茶道に関する本に、仙台藩主の伊達政宗の高価な茶碗についてのエピソードが載っていた。ある日、政宗は大切にしていた茶碗を落としそうになってしまったそうだ。なんとか落とさずにすんだが、その茶碗を自ら地面に叩き付け、割ってしまった。

驚いた家臣が理由をたずねると、政宗は、こう答えた。

「高価な茶碗を落としそうになって焦り驚いた、自分自身の心の小ささに腹が立ったから割ったのだ」

茶道では、道具に全神経を注がねばならない。この政宗のエピソードをきっかけに私は自分を振り返り、その神経を払う余裕があるのなら、やはりそれを仕事にまわしたいと思ったのだ。

その数日後、先生に教室をやめることを伝えた。先生は「近所なんだから、また遊びに来てね」と言ってくれた。私が憧れた彼女のことだ、きっと心からそう思ってくれたに違いない。

そのあと、道でばったりあって何度か近況報告をしたりしたが、私が引っ越しをしたことですれ違うこともなくなった。

たった三ヶ月であったが、茶道は作法を超えた大切な学びとして身につけることができた。それに気づいたのは、桜の季節になるたびに特設される公園の抹茶席にためらうことなく入ることができ、一服を満喫できているからだ。

そして、私はそのたびにあらためて思うのだ。自分は自分として人生を支える真髄を探し続けよう、と。

《終わり》

執筆者プロフィール杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
https://www.voiceofart.jp/


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