海を守るということ。
こんにちは。今日も沖縄のはなしです。
4年くらい前に、辺野古の座り込みに行ったときに感じたこと。
わたしが名護市の辺野古の座り込みいったときは564日目。こちらはキャンプシュワブのゲート前の座り込みなので、2014年からスタートしていると思います。辺野古の浜にあるテントの座り込みは2004年からスタートしています。
わたしが行ったときは1月で、1月の沖縄にしてはとても寒く、上着がないと過ごせないような日でした。横殴りの雨も降っていて、天候的には最低の日だったと記憶しています。
辺野古への基地移設の話が出始めたのは1997年ごろです。1995年に米兵による少女暴行事件が起きました。この事件は米兵3人が小学生の少女を誘拐し、車内で乱暴をしたという、なんとも痛ましい事件です。小学生の少女が被害者になったということもあり、地元住民による米軍基地反対や普天間基地返還を求める運動が大きくなり、1997年に移設先を名護市辺野古付近にする決定が出ました。そして、2009年の鳩山内閣で、県外への移設は不可能とし、現在抗議行動が毎日行われている辺野古のキャンプ・シュワブへの移設が決まりました。
そして現在、移設準備が始められています。コロナで世間が騒がしい中も、搬入は続いていたそうです。しかし、一昨日辺野古の軟弱基盤に関する工事の打ち切りの報道が出ました。
「無理だ」とさんざん言われていた工事を強行して、結果302憶円の損失をしている自民党政権にかける言葉もありませんが、今後の辺野古の行く先が不安です。米軍基地を作るために日本政府がお金を払っていることをどうかお忘れなく。それはわたしたちの税金だということも。
わたしが行ったときも、多くの人がキャンプ・シュワブのゲート前で座り込みしていました。そして多くの機動隊がやってきました。
座り込みをしていた人たちの2倍くらいの数の若くて健康な男性大勢が、年老いたおじいちゃんとおばあちゃんを囲んでいる状況は、弱いものいじめをするソレにしか見えなかったです。
「やめて」 叫ぶ女の人の声。
「沖縄の海をお前たちにはやらん」 怒鳴るおじいちゃんの声。
「どうしてこんなことができるの」 泣きわめくおばあちゃん。
「お前らの中にも沖縄出身のやつはいるだろう」 訴えるお兄さん。
表情を変えない機動隊の人たちは一体何を考えて排除していたのでしょうか。もしかしたら何も考えてないのかもしれないけど、もしかしたら機動隊の人たちも苦しんでいるかもしれません。それが沖縄出身であるならなおさら辛いと思う。
でも、彼らにとってそれが仕事だから。仕事しないと生きていけないから。キャンプ・シュワブの人たちとぶつかりたくて警官になったわけじゃないと思うんです。だいすきな沖縄のために警官になりたいって思った人もいるかもしれません。そうやって考えると、ここにいる人たちはみんな「悲しくて苦しんだ」だと思います。
でもそれを押し付けているのは、他でもない「内地」の人間である、わたしたちなんです。日本にあるほとんどの基地を、わたしたちは沖縄に押し付けています。わたしの住んでいる神奈川県は沖縄の次に基地の多い県だけど、それを日常生活で感じたことはほとんどありません。もちろん、基地の近くに住んでいないだけだけど、でも沖縄とはレベル感も緊張感も違います。
まるで、沖縄戦が繰り返されているみたい。本土決戦を遅らせるために、沖縄戦を伸ばし続けた内地の政府。それで多くの沖縄住民が亡くなりました。今度は、内地に基地をこれ以上作りたくないから、沖縄に押し付ける内地政府。本当に辺野古に基地が出来てしまったら、また多くの人が傷つきます。そして海で生きている多くの生物が死に絶えてしまいます。人間が勝手に生態系を脅かしてはいけないし、命を奪ってはいけない。
わたしはこの日見ていることしかでませんでした。雨の中、びしょびしょになりながら、シャッターを切ることしかできませんでした。辺野古に基地を移設するのは反対だけど、この場所に座り込みをして海を守っている人たちと比べて、想いが違いすぎる感じました。だからあの場所には立つ資格がないって自分で思ってしまったんです。
それから自分なりに勉強して、何度も沖縄を訪れて、住んで、辺野古に行きました。あれから座り込みに参加する機会はなかったけれど、でもそのときよりはるかに沖縄を想う気持ちは強くなっていると感じます。それは自己満かもしれないけど。だから今度は一緒に「いらない」と声を上げたい。もう押し付けたくない。沖縄を変えたいし、自分を変えたいから。
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