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【保険Lv.52】振り返っておきたい日本の変額保険・変額個人年金保険の歩み(前史)

人生100年時代」というキーワードがまだ耳に聞こえてくる遥か以前から、また現在では初心者の投資家が真っ先に学ぶ「ドルコスト平均法」における「長期・分散・積立投資」を日本で説き続けてきたのは生命保険業界だと私は思っています。

【前回の記事】


変額保険前史


外資系保険会社の国内参入

証券業界がバブルに置いて行かれまいと顧客に損失を補填する約束をしてまで株式投資をさせていた営業特金事件の裏で1986年に、ソニー・プルコ生命(現ソニー生命)は大きな節目を迎えていました。

1981年に「生命保険が変わる、ライフプランナーが変える」という広告を打ち出し、NYの摩天楼エンパイアステートビルのオーナーでもあった当時世界最大の生命保険会社、米国Prudential Financial Inc(PFI、プルデンシャル・フィナンシャル)との合弁で誕生したソニー・プルデンシャル生命。

日本の戦後、生命保険募集は戦争で夫を亡くした寡婦の働き口の一つでした。当時の生命保険は一家の大黒柱に万が一のことが起きたら、家を守る妻が亡き夫に代わって働きに出て家事も、子育ても、親の世話もしなければいけない…夫を亡くした身だからこそ、しわ寄せが妻に襲うことを切々と語り歩き日本の生命保険契約はセールスレディによって支えられてきました。

1996年11月、低迷する日本経済を再浮上させる政策として、
橋本内閣が英国に倣って打ち出した日本版金融ビックバンによって
金融自由化が掲げられた。

1990年代後半の金融ビックバン(橋本内閣)による保険料自由化以前の時代においては護送船団方式という防護壁もあり、何処の保険会社も同じ年齢・性別・職業や健康状態なら同じ保険料で加入ができました。

そんな中で1954年に在日米軍など在日米国人向けの保険販売認可を受けて損害保険会社AIG資本の生命保険会社としてアリコ・ジャパンが営業を開始。沖縄の返還(1972)に合わせてその販路は在日米国人だけでなく、日本人にも広がっていきました。

東京都内にも当時の面影がまだ微かに残っています。東京都練馬区光が丘…現在の都営大江戸線の終着駅がある光が丘駅周辺はかつて米軍が接収し、米国人が住んでいた地域でした。

1973年に日本にこの地域一帯が返還されると、都心のベッドタウンとして団地開発がされ元々の米軍基地という特性もあり日本国内で先駆けて光ファイバー網の配備や清掃工場の排熱を利用した暖房・給湯システムが整備され、「21世紀のモデル都市」として人気を博しました。

現在も大きな区画は当時の名残を残しており、沖縄まで行かずとも散策をしてみる楽しみがあるかもしれません。

またアメリカで1955年にエイモス3兄弟によって創業した保険業界のベンチャー企業だったアメリカンファミリー生命保険(通称アフラック)は小口の保険を扱う会社でした。

1965年に最愛の父をガンで亡くすと、ガン保険の普及を会社の使命として捉え販路を求めていました。

エイモス兄弟は大阪万博(1970)で来日をした際に、風邪予防のためにマスクをして、手洗いうがいをする日本人の衛生観念の高さに感銘を覚え、1974年に日米通商交渉の中でガン保険の独占販売を受けて外資系生命保険会社として進出していました。

これら外資系生命保険会社の大きな特徴だったのが死亡などを扱う「第一分野」、自動車や火災保険などモノの保険を扱う「第二分野」に加えて、その両方にまたがる医療などだけを保障(補償)する「第三分野」を単独で扱っている点でもありました。

今では意外に思われますが、当時は医療保険を主契約とした単独の保険契約ができず、死亡保障を主契約とする生命保険に特約で医療保険を付加する形が主流だったのです。

これら2社はこれをいち早く医療保険を主契約とする契約の実現をし、その他の保険会社が第三分野を単独で契約できるようになったのは1996年の自由化以降。尚、保険会社によって第一分野の契約がないと今もなお第三分野の契約を受け付けない内規を設けている会社も存在する。

何故なら保険は商品ごとに約款が定められ、約款ごとの独立採算制が原則だからです。
他の約款または他の事業での利益を補填するとそのリスクにおける確率が薄れてしまったり、加入者間の公平性が確保できなくなってしまうためです。

現在もそうですが、雨後のたけのこのように保険会社が乱立することを防ぐため、大蔵省から認可を得るにはそれぞれの保険会社が新規で参入することで市場がどのように活性化するのかという意義を掲げて説得する必要がありました。


ソニー創業者の一人、盛田昭夫には夢がありました。

ソニー創業者の二人
盛田昭夫と井深大

トリニトロンテレビ(1968)の発売に成功し、1970年にいよいよ米国での上場を控えた時期。

渡米してアメリカ国内を案内してもらっていた時に、白亜の巨大な高層ビルが目に留まりました。

「あのビルはどこの会社のビルだ?なんの事業をしている?」

ガイドは答えました。

「保険会社ですよ。プルデンシャルという世界最大の生命保険会社のオフィスです」

盛田は呟きました。
「いつかソニーもあんな大きなビルを持てる会社にできたら…」

いつかソニーグループに金融機関をーー。

それはおよそ10年後、ウォークマン発売によっていよいよ世界的な企業となった1970年代後半においても盛田の変わらぬ夢でした。

ウォークマン発売開始直前1979年、世界の人々にとって音楽を持ち歩くとは
ラジカセを担いで運ぶ事だった。SONYの知名度は一躍世界を駆け巡った


創業期に資金繰りで苦労した記憶、またそれを支えてくれたのは実家の酒蔵「盛田」*の融資であったことも忘れられません。

*愛知県の会社。系列会社に敷島製パン(PASCO)、日本初のコンビニエンスストアの一つ「ココストア」などがある。

そんな盛田の下に、米国から客人がやって来ました。
彼は米国の財界で活躍している人物で、生命保険会社プルデンシャル・フィナンシャルの役員をしていました。

大蔵省は外資単独での参入に首を縦には振ってくれず、それならば…日本の大手生命保険会社に次々にアポイントを取り、彼は声をかけて回っていました。

しかしどの保険会社の経営陣は皆「考えます」と口にして、いつまで経っても返事をしれくれないのだと彼は盛田に愚痴りました。

盛田は笑って、「ーーさん、日本人は直接的な表現を好みません。それは『NO』と言っているのですよ」と教えました。

彼は大変なショックを受け、そしてコーヒーを飲んで、しげしげとホテルへ戻って帰国の準備をすると告げました。

エレベーターホールまで見送るまでのほんの短い時間、盛田の脳裏に凡そ10年前に浮かんだ白亜のビルが蘇りました。

ソニーグループにいつか金融機関をーー

生命保険も金融機関の一つ…

エレベーターがやって来て、別れの挨拶をするプルデンシャル・フィナンシャルの役員に向かって盛田はエレベーターが閉まろうとする寸前、手を差し伸べました。

握手をして、そして盛田は一言だけ、日本語で告げました。
ドアが閉まり、役員は降下するエレベーターの中で傍にいた通訳に聞きました。

「盛田は最後になんて言ったんだ?」
通訳は戸惑いながら答えました。

"――私たちと一緒にやりましょう。"


こうして金融業界に初進出するソニーと生命保険のノウハウをも持ちながらも日本に進出するのが初めてのプルデンシャル・フィナンシャル。

しかし彼らには日本の大蔵省と折衝するノウハウもありませんでした。
財界に明るい盛田と言えど、大蔵省は門外漢でした。

そんな折、ハワイの独立系金融だったオクシデンタル生命の日本進出のため大蔵省から営業許可を取り付ける交渉をしていた日本人コンサルタントがいました。
しかし結果としてオクシデンタルは日本進出を断念し、彼もまた米国へ戻る準備をしていました。

彼は戦後間もなく渡米し、米国の大学を卒業。日本人初の米国アクチュアリー*を取得した人物で、米国生命保険業界で働いていた経験もありました。
しかも大蔵省と交渉ができ、英語と日本語の話せる日本人…彼の名は、坂口陽史きよふみ

そんな坂口に白羽の矢が立ち、ソニー・プルデンシャル生命の進出は急速に現実のものとなりました。

*保険の確率(数理)計算や商品設計を行う人たち。令和5年の賃金構造基本統計調査によると、アクチュアリーの平均年収は約947.6万円

プルデンシャル・フィナンシャルから雇われる形となり、設立されたばかりのソニー・プルデンシャル生命の副社長に就任した坂口陽史は、日本で女性(寡婦)の仕事として定着していた生命保険募集を「生命保険業界未経験の高等教育以上を卒業の男性*」の知的職業として採用基準を設け、ライフプランナーと名付けました。

*現在では女性ライフプランナーも数多く存在する。

まだファイナンシャル・プランナー(FP)という名前さえ日本では全く痕跡のなかった時代、単にセットの保険商品を提案するだけだったセールスレディが当たり前だった時代に颯爽と現れたライフプランナーモデルは、顧客の家族状況、ライフプランと家計・資産状況を分析し、適切に必要な保障を提供するというものでその後に続く多くの外資系生命保険会社、また日本の生命保険会社の男性募集人のロールモデルとなりました。


実は過去に大蔵省との交渉の中で、外資系資本が新たに参入する事に難色を示された坂口はソニー・プルデンシャル生命の参入にあたって趣意書の中に「富裕層・資産家」をメインターゲットとした資産性保険を、専門的に育成したコンサルタントであるライフプランナーによって家計の状況を分析して提案するというモデルを提唱していました。

当時の日本は「一億総中流社会」となり、中間層の拡大によって国債を長期保有してくれる資産性保険の活用と活性化は大蔵省にとっても利害が一致したと思われます。

このためソニー生命、プルデンシャル生命の提案は伝統的に分厚い資産性保険(終身保険など)が土台となっており、現在もそれが受け継がれています。

また同社はコンピュータを用いた家計のライフプランニングの試算、保険料計算もソニーの技術を用いてシステム化をいち早く取り入れていきます。


日米関係の変化

ソニー・プルデンシャル生命が異例の快進撃とも呼べる新契約高を積み上げ全てが順調と思われていた1985年、日米関係は緊張に包まれていました。

低燃費、しかも円安で安く輸出されてくる日本車は
米国最大の雇用を支える自動車産業を直撃。
日本車を破壊する抗議運動が行われた

1970年代に起きた二度のオイルショックとニクソン・ショック、米国では高インフレを鎮静化するためにポール・ボルガ―FRB議長が政策金利の急騰を指揮しており円安ドル高を背景とした日米貿易摩擦は激化。

1980年代前半は1㌦260~200円前後を推移していたドル円相場。

しかし遂にしびれを切らした米国は1985年9月、先進国首脳・財相を集めてプラザ合意*による円高・ドル安への協調介入を行いました。

1㌦235円台から翌年7月には150円台まで急激な円高となり、輸出産業によって稼いでいた日本経済は一気に「円高不況」へと突入しました。

*この時の米国通商代表がロバート・ライトハイザー。ドナルド・トランプ候補が2024年大統領選挙で再任された場合にドル高是正のブレーンとして起用されるとされている。

この直前、日米企業の合弁会社であるソニー・プルデンシャル生命も順調な契約高の積み上げとは対称的に経営におけるソニーとプルデンシャル・フィナンシャルによる意見の相違が表出していました。

米連邦議事堂前で破壊される東芝製のラジカセ
今度は円高によって日本人が米国製品を買わないと
抗議されるハメに…(1987)

坂口陽史はソニー・プルデンシャル生命を抜け、プルデンシャル・フィナンシャルの出資を受けてプルデンシャル単独での独立を選択。

1986年にNYの大手生命保険会社エクイタブル生命の再進出*を追う形で、1987年10月、坂口陽史は新設会社「プルデンシャル生命」の社長となり大蔵省からの認可を取得し営業開始。

*英国エクイタブル生命と同名だが資本関係のない米国系生命保険会社。
1901(明治34)年に日本初の米国系生命保険会社として免許を取得し進出。
太平洋戦争勃発により政府の管理下に資産を預かる敵産管理法が適用。外国保険会社の管理人に協栄生命が選ばれる。

ソニー・プルデンシャル生命は両社の合弁会社であるソニー・プルコ生命へ改称。1991年に資本の完全解消をして「ソニー生命」へと改め、現在に至ります。

そして当時世界最大の保険会社だったプルデンシャル・フィナンシャルの後方支援が失われつつあった当時のソニー生命の経営は危機的状況に陥っていました。

一つには生命保険会社としての長期経営のノウハウが5年という非常に短期で失われつつあること。また日本の円高不況から抜け出すために日銀が政策金利を急激に下げたことを引き金として、日本経済は一転してバブル経済(高インフレ)へと突入していました。

そして今度はバブルを抑えようと金利が急騰…保有している債券にとっては逆ザヤとなり大きな評価損を抱え始めることになってしまいました。

日本の長期国債利回りの推移

当時、個人では購入する事のできない長期債を集まって来る大勢の契約者の保険料をまとめることで、機関投資家として大量購入。

20年国債は1985(昭和61)年12月に初めて発行、1991(平成3)年8月に15年国債、1999(平成11)年30年国債、2004(平成16)年3月25年国債、2007(平成19)年11月に40年国債が初めて発行された。
また個人向け国債は2003年に10年債で販売解禁された。

https://www.mof.go.jp/jgbs/reference/interest_rate/index.htm

契約時の利回りを満期(満了)まで保証する生命保険の性質は、金利の上昇による債券価格の下落分を保険会社が負担する事になります。

更にバブル経済の日本で資産性保険の市場が株式市場に奪われるという状況も起こり始めていました。

株式に投資をすればお金が簡単に増える…多くの投資家はそれがバブルだと考えず、また気づかずにお金を株式、また不動産に投じて短期的に収益を上げる人が「勝ち組」と持て囃されました。

債券運用で長期の利回りを保証する資産性保険は、株式市場の挙げるこうした短期のリターンに勝つことはできません。
そもそもそこで勝負をしていないからです。
忘れてはならないのは、生命保険は長期の間接金融」だということです。

結果、ソニー生命やその他の生命保険会社は主力であった終身保険に変わって、証券市場の株価上昇に応える商品を導入する必要性に迫られていました。


変額保険、国内販売解禁

通常の生命保険は「定額保険」と呼ばれ、円建て債券の利回りを基準に契約時から満期・保険終了までの解約返戻金があらかじめ経過年数ごとに決まっている実質的に元本保証の商品が中心でした。

特に高い予定利率が満期*まで約束されている円建終身保険を大きな武器として日本の生命保険会社(日本社)の提供する定期付終身保険**から契約を切り替え契約高を拡大してきたソニー生命にとっては大きな痛手でした。

*終身保険は105歳、または115歳を満期とする超長期養老保険として設計されている。
**5年ごと、10年ごとなどの一定期間ごとの更新年齢で特約部分の定期保険の保険料がどんどん高くなっていく保険(通称ガックン保険)

そこで欧州で戦後復興期における株式バブルの時代(1950年代)に生命保険会社が取り入れた、契約者の指図によって保険会社の通常資産(一般勘定)とは分別管理された特別勘定の中から投資信託ファンドを選び、運用成果が変動するタイプの保険商品「変額保険」。

後に更にそこから死亡保障を除いた「変額個人年金」が発売されました。

この商品は一説にはドイツ・オランダ発祥とされており、ヨーロッパで金融機関(銀行など)を通じて販売されました。

やがてその仕組みは高インフレと株価低迷で企業年金の想定利回りを確保できずに苦しんでいた米国大手企業からの要望も上がり、1974年に従業員の企業年金や福利厚生制度としての確定拠出年金制度(401k/IRA)が成立。

それに関する法律で分散投資を世界で初めて義務付けたERISA法」とバンガード社によって生まれたばかりのインデックスファンドの普及とつながっていきます。

Employee Retirement Income Security Act(従業員退職所得保障法)

1986年、ソニー生命が先陣を切って国内初となる「変額保険バリアブル・ライフ(終身型)」の発売を開始。その後、日系・外資系生命保険会社が相次いで変額保険の販売を開始します。

バブル崩壊と訴訟

しかし当時の変額保険の販売手法には大きな問題もありました。

多くの保険会社が採用した変額保険は一時払でした。
つまり契約時に一括で保険料を納め、追加でお金を入れることができません。
これは言い換えると一括払いの投資方法ということになります。

更に保険料の原資は、こともあろうにバブルによる株価急騰を目にし「日経平均は上昇を続ける」と妄信した多くの契約者と、契約をすぐにでも欲しい保険募集人によって銀行を紹介され、地価高騰*などによって資産価値の上昇していた不動産を担保に融資を受けたお金を原資に投じられました。

*日本は住める土地が限られているので、地価はどんどん上がるという不動産神話を日本の多くの人達が信じた。また銀行も融資規制が緩く、不動産などの担保があれば簡単にお金を貸した。

「増えた運用益で融資されたお金は返済すればいい」というセールストークに多くの契約者がハンコ*を押しました。

*当時の契約は署名の他、押印が一般的だった。

バブル絶頂期の東京証券取引所の様子

結果、日本のバブルは1989年12月30日の大納会をピークに崩壊…
株価の影響を大きく受ける日本株式型のファンドが主流だった日本社の一時払変額保険はマイナス運用となり、担保となっている不動産価格(地価)も下がり、それでも返済は毎月やって来ます。

多くの契約者が返済のために一時払変額保険をマイナス運用のまま解約し、それでも借りたお金より目減りしていますので、更に担保に入れた不動産は差し押さえられ、借金だけが残る状態。

契約者は保険会社と保険募集人を訴えるという裁判が全国で頻発しました。

同時期、保険会社はこれだけでなく高度障害保険金の保険金不払いなど契約者や保険金受取人にとって分かりづらいことを理由に多くの裁判を抱え、保険募集の在り方を問われました。

現在では契約時に説明・交付が必ずされる重要事項説明書、または適合性確認の中で「保険料の原資となる資金は借入金やその他の保険・金融商品を解約して得た資金ではありませんか」などの一文が加わることになります。

また日本生命を始めとした多くの保険会社が後に高度障害保険金を取りやめ、障害年金や障害手帳などの社会保障と連動する支払い事由を採用するきっかけの一つとなりました。


変額保険のパイオニア「ソニー生命」

他方、ソニー生命は日本初の変額保険を販売するにあたって慎重でした。

平準払(月払・年払)の変額保険を販売し、契約者から預かった保険料をその収納した翌月1日に特別勘定(ファンド)に投じる方法を採用していたことでドルコスト平均法(積立投資)の「長期・分散・積立」が働き、元より長期資産形成を念頭に置いた商品設計がされていました。

これが意図してだったというよりは、保険における仕組みを考えた時に一時払は確かに一つの選択肢ではありますが、平準払の方が多くの契約者にとって馴染んでいたというのが実情でしょう。

この事がバブル崩壊における大きな下落局面、その後のドットコムバブル(2001)、リーマンショック(2008)、ギリシア危機(2015)、米中貿易摩擦(2018)、コロナショック(2020)などでも下落時にファンドの口数(ユニット数)を安い時に沢山積み立てることの強さをソニー生命のライフプランナー、またソニー生命代理店の保険募集人にとっての「積立投資の魅力」として自信(確信)をもって提案する習慣が定着していくことになったと考えています。


保険会社におまかせ「総合型」

現在、ソニー生命の変額保険は1986年の発売開始当初から間もなく11月で38年運用の続く「総合型」。いわゆるソニー生命におまかせコースです。

国内株式・債券によるバランスファンドですが設定来で騰落率313%(年率換算3.83%)と資産の安全性を確保しながら堅実な運用をしています。

預り資産総額は1171億円、投資信託と比較しても中規模な資金が集まっています。「総合型」にもっと高いパフォーマンスを求める人もいると思いますが、ソニー生命の変額保険の予定利率は3.5%ですから、これを維持できれば良いという考え方の契約者が組入比率100%で選ぶのが「総合型」なのです。


ソニー生命はその後、1996年の金融自由化の流れを捉えソニー損保(1998)、ソニー銀行(2001)、ソニーバンク証券(2007)*を相次いで設立。これらを統合してソニーフィナンシャルを持ち株会社としました。

*ソニー損保はソニー生命と東京海上とノウハウ交換によって設立、これを機に東京海上あんしん生命が誕生。ソニー銀行は三井住友銀行との合弁で設立。ソニーバンク証券は1999年のマネックス証券設立時に創業者:松本大をソニーが支援した縁で立ち上がったが、2012年にマネックス証券に譲渡。

そうした変遷の中でソニー生命から外資系証券であるモルガン・スタンレーへ転職した人が現れました。

そしてその縁(人材交流?)もあってソニー生命の特別勘定運用にも金融自由化の流れを受け、1999年5月にモルガン・スタンレーからの投資助言を受けて投資を行う「世界株式型」が設定されました。

最大のアクティブ運用「世界株式型」

当時の日本では証券市場における投資信託といえば国内株式100%で、外国株式100%の投資信託はリスクが大きすぎるとして国内株式や外国債券・国内債券と組み合わせたバランスファンドが主流でした。
(インデックスファンドは日本で販売が始まっていたが、まだブームになっていなかった)

しかしこの世界株式型は証券会社ではそういう規制されたバランスファンドが主流だった時代にもかかわらず100%外国株式へ投じることができ、しかも厳選したブランド力のある企業へ投じるという投資戦略(プレミアム企業投資)を掲げ、1999年に設定されました。

「世界株式型」は2024年7月末時点での預り資産2兆4297億円、設定来25年間の騰落率1813%年率換算12.40%(BMが7.72%)という驚異的なパフォーマンスを発揮しました。

戦略的運用「世界コア株式型」

また2002年8月には、インデックスファンドを主軸とするコア・サテライト戦略の「世界コア株式型」もいち早く設定。

現在合計8種類の特別勘定の中から運用先を1%単位で設定する事が出来ます。

近年、ソニー生命は社内における様々なトラブル度々発生し、その改善策としてモルガンスタンレー助言・ソニー生命による株式市場への直接投資だったこれら特別勘定も今日では金融庁の手前もあり機関投資家専用の投資信託化されて運用が継続しています。(運用方針等に変更はありません)

この顛末と詳細は下記記事の後半(有料記事)にて触れています。


死亡保障なしの変額個人年金保険

さて、ソニー生命は変額保険だけでなく死亡保障をつけていない「変額個人年金」も販売しています。

しかしこの「変額個人年金バリアブル・アニュイティ」は少々特殊な保険で、日本で最初に変額個人年金を発売開始したのもソニー生命ではありませんでした。

少々特殊な保険という点については次回また書きたいと思います。

1985年、ソニー・プルデンシャル生命がプルデンシャル生命との分離に揺れていたその時代にヨーロッパ系資本として戦後初の進出となったのがオランダのナショナーレ・ネーデルランデン生命(現エヌエヌ生命)でした。

中小企業向け生命保険販売の急先鋒として保険事業の免許を取得して翌年に日本支店を開設。

日本では出光興産と昭和シェルが2015年に経営統合を発表。
2023年末までにSSの看板のapollostationに一本化を完了

同じくオランダ資本*のロイヤルダッチ・シェルの石油・ガソリンの販売先である昭和シェルのガソリンスタンド(サービス・ステーション/SS)の事業主を代理店として事業展開を開始。

*英蘭の合弁多国籍企業

1991年には逓増定期保険を武器に中小企業の経営者のいわゆる節税プランを提案し始めました。
(1995年に日本法人設立、社名は1997年にアイエヌジー生命に変更)

ライオンのマークが格好良かった…
かつて赤坂見附の交差点などにも掲げられていた(日本支社が赤坂見附にあった)

INGは1995年に英国の投資銀行ベアリングス銀行を1ポンドで買収して改称。Internationaleインターナショナーレ Nederlandenネーデルランデン Groepグループの頭文字に由来。

1999年に日本初の「変額個人年金保険」を発売開始しています。

(銀行部門と保険・資産運用部門が2013年に別会社となったため、エヌエヌ生命に改称)

その他、一時払変額保険を多数販売していました(現在は販売終了、運用のみ)

1999年4月から運用開始の段階で同商品には「世界株式型」が設けられており、ゴールドマン・サックスが運用を担っています。

米国金融業界のエリート、ゴールドマン・サックスが手掛ける運用ですからさぞかしその社名にふさわしく輝かしい実績を上げたのでしょうか。

ちなみに、この世界株式とはいわゆる新興国を含む全世界株式ではなく、先進国という意味です。またエンハンスト*型運用のため、時代を反映してというか…まぁ「なんちゃってインデックス運用」ですよね。

*Enhanced…強化するの意。インデックス構成銘柄の内、FMが伸びそうだと思う企業の比率を大きく、伸びなそうと思う企業の比率を下げる運用。ベースはインデックスだがコストはアクティブ運用に近い。

設定来25年の騰落率242.84%…悪くはないパフォーマンスですが、ほぼ同時期に運用の始まったソニー生命の「世界株式型」と比べるとかなり劣後する結果となっています。

(ESGやサスティナブルなど比較的新しい用語が入っているので途中で運用方針が変わったと思われるが…)

2023年11月7日に入れ替えと運用関係費の引き下げが行われていました。

そして1990年代から2000年代にかけて外資系生命保険会社が相次いで日本の生命保険業界に参入をし、そして気が付くと撤退をしていました。

消えた保険会社たち

スカンディア生命(1996-2004)

1996年8月、スウェーデンに本社を置く北欧最大の保険会社スカンディア・インシュアランスが日本法人を設立して「スカンディア生命」が誕生。

同社は米国にもアメリカン・スカンディアとして進出し、独立系FP(IFP)による提案から変額年金で急成長を遂げ、それを日本でも展開しようとしていました。

2002年には主力の変額個人年金保険の特別勘定には米国の五大資産運用会社の一角である米国フィデリティ証券のファンドを採用するなど世界標準の積極的な運用を提案。

今では信じられませんが、フィデリティ証券のWeb上で変額個人年金保険のダイレクト販売までしていたほどです。

同年、東京海上火災保険(損害保険)の代理店向けにスカンディア生命の変額個人年金の販売代行を締結。

更にメリルリンチ*の日本法人でも払込保険料を最低保証、運用が好調で一度上がった死亡保障額は下がらないとする新変額年金を販売するなど意欲的な商品で市場を開拓しようとしていました。

*JPモルガン(&モルガン・スタンレー)、ゴールド・マンサックスと並ぶ米国三大投資銀行の一つと言われたがリーマンショックで事実上破綻し、バンク・オブ・アメリカの完全子会社となる。

しかし2001年のドットコムバブルによる不調を受け、スカンディアの北米事業は最終的にゴールドマン・サックスを介してプルデンシャル・フィナンシャルへ売却。

それでも世界第二位の経済大国であり、世界最大の生命保険大国である日本での市場を何とか開拓をしようと2003年10月には日本初となる「変額ユニバーサル型保険*」を発売するなど意欲的な商品を投入します。

*保険料、保障額を加入後に組み変えることができる保険。米国では当時主流だった。日本ではこの変化形のアカウント型保険が定着した。

しかし東京海上と日動火災の合弁会社であるミレアHDに買収され、2004年1月には社名を「東京海上日動フィナンシャル生命」へ。

特別勘定のファンドには発売当初の2003年から「世界株式CA」(キャピタル・インターナショナル)、「日本株式FA」(フィデリティ証券)、「日本株式BA」(ステートストリート)、「アセット・アロケーションSA」(さわかみファンド)、「世界債券ヘッジMA」(ブラックロック)と気合の入った資産運用会社の名前が並びますが買収と同時に新規契約の販売を終了。

現在、東京海上日動あんしん生命による保全(運用)のみとなっています。(2014年に東京海上日動あんしん生命に統合された)

ハートフォード生命(2000-2014)

「保険の首都*」の異名を誇る米国コネチカット州で元々は損害保険会社だったハートフォードが2000年に日本に生命保険事業として参入。

*国際都市であるNYとボストンの地理的中間地点にあり、地価の高い都市部から本社を移転して来ることが多く、法人税も周辺大都市よりも安かったために国際的な保険会社の北米拠点が集まった背景がある。

同社は日本で解禁されたばかりの銀行窓販を中心に、変額年金保険(変額個人年金)を主力として展開しました。

2001(H13)年の住宅関連信用生命保険(団体信用生命保険)を皮切りに
銀行窓口での生損保商品の取り扱いが解禁された。

しかしリーマンショックで受けたダメージが回復しきらず、2014年にオリックス生命に日本事業を売却。

現在オリックス生命にて保全(運用)のみを行っており、新契約は受付していません。


マスミューチュアル生命(2000-2019)

米国のエトナ・インターナショナル*が日本の平和生命と1999年に提携し、日本に「エトナヘイワ生命」として参入。

*エトナの本社は米国コネチカット州ハートフォード。

米国は日本と異なり国民皆保険ではないため、高齢者向け医療制度(メディケア)と低所得者向け医療制度メディケイドしか公的医療保険はなく*、中間層~富裕層は会社の健康保険組合に加入するか、それでも自己負担が大きいために自ら任意で民間の医療保険に加入します。

*この中間にあたる無保険者向けの公的医療保険を提唱者の米国大統領バラク・オバマに因んで「オバマ・ケア」と呼ぶ。全体の16%(4400万人)が無保険者にあたり、盲腸で800万円かかるアメリカでは大きな関心事に。

エトナは米国で医療保険業界第3位の業界大手。近年はデジタル化に伴い、スマホアプリによるヘルスケアデータを活用した健康増進を促すアドバイスをするなどに取り組んでおり、アップルウォッチを契約者に配布するなどの計画も近年はあるほど。

しかし日本参入の翌年、米国エトナがオランダのINGによって買収され、日本市場においてアイエヌジー生命(当時はナショナーレ・ネーデルランデン生命)と奇しくもバッティングする事に。

更に2004年にはINGが投資運用部門を分離して富裕層向け資産運用会社ノーザン・トラストに、残った生命保険事業を米国マサチューセッツ州発祥のマスミューチュアル・フィナンシャルグループに売却するなどの切り売りによって日本での社名を「マスミューチュアル生命」に改称。

マサチューセッツ州のミーチュアル(合同会社)なのでマスミューチュアル

既に多くの保険会社が変額年金(変額個人年金)に参入していますので、商品の基本的な特徴としては他社のいい所取りをした後発ジェネリック商品が多く、銀行窓販や証券会社で販売を主軸としていました。

例えば2010年に登場した「グローイングロード」。

これはリーマンショック(2008)を経験した人が下落に強い商品を求めるだろうと考えて生み出された商品かもしれません。

特別勘定の運用が、「収益期待資産」と「安全資産」という二つのポートフォリオ先物を使ってレバレッジをかけ、実際に持っている資産より大きなお金を運用できるそうです。

人の感情、判断が入ると客観的、冷静な判断ができなくなり狼狽売りなどをしてしまうから自動化…なるほど、一見すると理にかなっているような気がしなくもありません。


しかも毎週市場動向を見ながら自動的に見直す「可変ポートフォリオ」を採用するなど見る人が見ると「あ…」という、かなりアグレッシブな保険商品を投入しました。

うーん、このどこかで見たことがあるような…()

ちなみに直近の2024年7月末時点の運用成果は…

運用開始から14年経ってマイナス運用…うーん…(苦笑)

下落に強い、下落しにくいというのは、投資においてはリターンよりもダウンサイズを重視する戦略ですので、お金を増やしたいと思ってこれをやってはお金は増えないという話ですよね。

しかも株価が上がりそうとか下がりそうなどの予想がハマれば強いけど、ハズすと目も当てられないこの感じ…そもそも投資は株価が上がるか下がるかを予想するゲームではない訳で、それがしかも毎週って…週5は放置しているわけで、収益がプラスだったのは14年間で2度だけ

それも瞬間的に一瞬の出来事。うーん…微妙(笑)

と、なかなか成果の出せない中で2018年にニッセイに買収され、2019年には社名を「ニッセイウエルス生命」に改称されます。

現在も一部の銀行窓販などで細々と一時払保険を中心に特色ある保険を提案していますが、ニッセイグループ傘下の大樹生命(旧三井生命)と商品のバッティングもありなかなか大きな成果は聞えてきていません。

最近では大樹生命の乗合代理店への商品提供も取りやめるなど縮小傾向が続いています。


さて、次回はこうした激動の変額保険・変額個人年金市場でしぶとく生き残り、そして出産祝や入学祝い、児童手当など折に触れて子供名義で集まってくる資金の受け皿としてジュニアNISAなき今、新風がこれから起きるかもしれないアクサ生命『ユニット・リンク年金』(一時金付・保険料払込免除特則)。

また変額保険のパイオニアであるソニー生命が2022年10月にリニューアルした変額個人年金『SOVANI』について触れていきたいと思います。


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