クリストフ・プレガルディエンさんのこと
この2022年10月第1週の東京は、ドイツリート好きの方にとって、静かな熱気を帯びた日々だったかもしれない。トッパンホールにて三夜に渡り、テノール クリストフ・プレガルディエンとピアニスト ミヒャエル・ゲースのデュオによるシューベルト三大歌曲集のリサイタルが行われたからだ。もともと2020年の来日予定が中止を余儀なくされ、ようやくかなった待望の公演。私はその最終日10月5日に《冬の旅》を聴きに出かけた。そして…おそらく個人的にこの作品では最も心に残る、すばらしい体験をした。
私がドイツリートというものを初めて生で聴いたのは、たぶん記憶に間違いなければ高校生のとき、(のちに私の師匠となる)テノールの方のサロンコンサートで聴いたシューベルト《美しき水車小屋の娘》だった。それから大学時代にはシューマン《詩人の恋》の伴奏を弾く機会を与えられ、それを機に様々な作曲家のリート作品を聴き始め、声楽も習い始めた。その頃だっただろうか、正確な時期は覚えていないのだが、私の母が大森の小さなコンサートサロン「山王オーディアム」に時々手伝いに行っていた。ある時、「ドイツ人が歌いに来るみたい、席余っているから…」と母に言われて、私は何の気なしにその公演に出かけてみた。当時、フォルテピアノ奏者の渡邊順生さんが山王オーディアムを気に入っておられて、頻繁にフォルテピアノのコンサートをされていたのだが、そこにテノール歌手を連れてきて、シューベルトの水車小屋の娘をやるというのだ。その歌手が、まさにクリストフ・プレガルディエンさんだった。(当時、彼はたぶん30代前半だったと思う。)すらりとした長身で、小さな山王オーディアムのホールでは存在感が抜群に大きかった!が、軽やかな美しい声がフォルテピアノとよく合って、実に溌剌としたさわやかな印象だった。素朴でいたって普通の、飾らないドイツ青年という風情だったことを覚えている。(学校教師だという穏やかなご夫人を連れていらしていた。)この公演は、今から思えばなんと貴重なものだったろう!当時は今のようなフォルテピアノの知名度はなかった。渡邊順生さんがすばらしい演奏をされていたのにもかかわらず、私を含む多くの方々は、フォルテピアノに対して何か博物館的な物珍しさ…でもって受け止めていたのではないか。
以来、私はシューベルトといえばこの《美しき水車小屋の娘》を最も愛聴していた。リリックな美しい旋律に富み、ピアノも表情豊かで、リズミカル。物語と音楽が、心に自然にとけこむ。そして遺作の《白鳥の歌》は、作曲者自身がまとめた曲集ではないものの、有名な〈セレナーデ〉をはじめ個性的な曲が揃っていて刺激的。それらに比べると《冬の旅》は、私には長年どこか正直なじめなかった。実は、生の実演で聴いた回数は、《冬の旅》が一番多いのである。いつも、今度こそ…の想いで聴きに出かけたが、どこか中途半端な気持ちで帰宅する。そんなことが続いた。
今年のトッパンホールでの来日公演も、そんな今度こそ…の気持ちで《冬の旅》を聴きに行くことに選んだ。あの若き日の水車小屋を再び…という気もうずいたが、プレガルディエンさんの66歳という年齢でこそ《冬の旅》を聴いてみたかった。CDで彼の2種類の《冬の旅》録音を聴いて印象が良かったこともある。そして実際、プレガルディエンさんは私の期待を裏切らなかったどころか、この《冬の旅》という作品のかたちを、くっきりと私の心に刻み込んでくれた。私が気づいていなかったものに、気づかせてくれた。
プレガルディエンさんの歌唱の特徴は、まず声の輪郭がくっきりとしていることだと思う。60代後半という年齢においても、声がヴィブラート少なめのクリアーな質を持ち、テノールながら低音も魅力的。音程は驚くほど正確で、言葉の発音が細部にわたり明瞭。今、最も美しいドイツ語が聴ける歌手の筆頭ではないか。今回の公演で、私はトッパンホールのかなり後方の席にいたが、それでも歌詞カードを見なくとも言葉がよく聞き取れた。それはエヴァンゲリスト歌いとしても名高い彼だからこその実力の結果だろうが、同時にリート解釈にもその方向は現れていたように思う。フィッシャー・ディースカウ を初めとする往年のリート歌手に比べると、プレガルディエンさんの歌唱はあっさりと聴こえるかもしれない。ただ、その淡々とした語り口は、つまりは自分のことなのに、自分を自己から切り離し、他人のこととして語っている…かのような、そして時折、そんな語り手でも他人の運命に感情移入してしまう瞬間が来る…ような、そんな歌唱だった。それが、《冬の旅》という作品の主人公に、どこか合っていたのかもしれない。内面の自分との対話を繰り返す彼の心は、時にどこに行ってしまうのかわからない。さまよっている。その、主人公がいるような、いないような感じが…とてもよかったのだ。こういう書き方をすると感情がないようにも受け止められかねないが、決してそうではない。内なるものがバランスの中で見え隠れするのである。
今回のステージでは、特に全24曲のうちの、後半の12曲が、ゲースさんのピアノとともに、すばらしかった!(特に、第21曲の〈Das Wirtshaus 宿屋〉で、私の涙腺は爆発してしまった…)この《冬の旅》という作品は、もともと詩を書いたミュラー自身、はじめ12の詩で完結させていたから、シューベルトも12曲でいったん仕上げ、後からミュラーが続編を書いた12の詩に、シューベルトも追うように作曲して完結した。だから本来2部構成になっているのであって、実演の際には第12曲の後に休憩を入れても差し支えない。しかし、プレガルディエンさんは休憩も給水も取らずに全24曲を歌いきった。それで、あれだけ密度高く後半12曲を歌いきったのは、強靭な精神の賜物だろう。近年の映像では、彼がリート演奏で譜面台を立てる姿もよく見かけたが、今回《冬の旅》は暗譜だった。
デュオという意味で、このお二人のパートナーシップはまた非常に面白い。私が期せずして昔聴いたように、リートの伴奏楽器についてはプレガルディエンさんは早くからフォルテピアノへの指向も見せていて(ギター演奏でも歌っている)、アンドレアス・シュタイアーさんとの共演でも見事な演奏を聴かせてくれる。ミヒャエル・ゲースさんのピアノ奏法は、どちらかというとそうしたピリオド楽器的なスタイルとは対極にあるように私は感じる。フォルテピアノだとくっきり聴こえてしまうような音の粒が、彼のピアノでは聴こえない。ドビュッシーを弾いているのか…と思わせるような、やわらかな絵筆のようなタッチだ。それで音のたちもどちらかというと曖昧なので、クリアーな発声・発語のプレガルディエンさんとも対照的だ。もしかしたら本来は異質とも言えそうな二人なのだが、それでも聴き進めていくうちに、この二人だからこそ私たちはシューベルトの世界に安心して浸っていられるのだ…というような、不思議な安堵感を抱いた。もしかしたら、プレガルディエンさんも、このピアノの懐に抱かれて安心して旅を続けているのかもしれない…そんな「優しい友人」のようなピアノだった。
私が今回の公演で《冬の旅》という作品に感じたのは、一筋の希望だった。それはすなわち「生きる」ということかもしれない。陰鬱、暗い…というイメージがつきがちなこの作品だが、この作品の主人公は《美しき水車小屋の娘》の主人公とは違って、生き続ける。私が感涙してしまった第21曲〈Das Wirtshaus 宿屋〉がポイントなのだが、主人公は死を免れ、旅を続けるのである。プレガルディエンさんの落ち着いたテノールの歌唱が、この作品を必要以上に重く聴かせることを防いでくれている。それから、彼はさりげないが、アンコールも見事にオーガナイズしていた。アンコールの1曲目に〈夜曲 Nachtstück〉D672 を持ってきたのは、私には嬉しい驚きだった!(私はこの作品に運命的な出会いをしていたので。これについても、いつか書きたい。)この曲はマイアホーファーの詩によるが、ある老人の最期の言葉を歌っている。これは私には、《冬の旅》終曲で現れる辻音楽師、つまり主人公の青年が旅を一緒に続けていこうとする不思議なライアー回しの老人が、その後亡くなるシーンであるかのようにも感じられた。もちろん元々ミュラーの詩とは無関係で成立した歌曲だが、このような配置はなんという演出だろう!その後もアンコールさらなる2曲(D884、D224)で、やはり「さすらい」をテーマとする歌曲が歌われた。つまり《冬の旅》の主人公は、同伴者を亡くしても、まだひとり旅を続けている…ということが暗示されているようだった。それでも拍手が鳴りやまないので、最後にプレガルディエンさんの十八番〈夜と夢〉が歌われて、この夜の幕は下りた。
プレガルディエンさんの《冬の旅》の録音については「とりのうた通信」シリーズの「ドイツ語の美しさを聴く」「ドイツリートとフォルテピアノ」の回で紹介しているので、ご興味のある方は、併せてどうぞ!
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