正チャンと多様なマーチャンダイズ
執筆:中野晴行(記事協力:マンバ)
正チャン帽はキャラクター商品第1号
現在の私達の生活は、マンガやアニメのキャラクターたちに囲まれて回っている。ファッションや文具、食器類は言うに及ばず、家具や電気製品にいたるまで、さまざまなキャラクター商品が存在するのだ。自動車にゲームやアニメのキャラクターを描いた「痛車」も珍しいものではなくなった。
日本のキャラクター・ブームに先鞭をつけたマンガが『正チャンの冒険』ということはあまり知られていない。
主人公・正チャンのかぶるてっぺんに房がついた毛糸帽が「正チャン帽」の名で親しまれ、子どもたちの人気を集めたののである。
仕事場が大阪にあった1980年代の後半、筆者は正チャン帽の原点を探したことがあった。大正時代には大阪が帽子産業の中心だったから、なにか記録が残っているのではないかと考えて、1917(大正6)年創業の老舗帽子メーカー・大一や、船場の日本帽子協会を訪ねて取材を試みたが、残念ながらこれという証言を得ることはできなかった。
当時の庶民の懐具合を考えると、商品として流通した正チャン帽よりも、お手製のものが多かったのかもしれない。婦人雑誌に編み方の記事も載ったというから、親は我が子のためせっせと編んだに違いない。
ひとつだけわかったのは、昭和のはじめには、「正チャン帽」は、マンガを離れて普通名詞のように人々の中に浸透していた、ということだった。
1928(昭和3)年刊行の編み物指導書『実用と趣味の毛糸あみ物』(荻田編物研究所編・荻田商店)のには特に出自を語ることもなく「鈎編(かぎあみ)正チャン帽子」の編み方が解説されている。また、1929(昭和4)年ころ、明治製菓はミルクキャラメルのパッケージに正チャン帽をかぶった少年の絵を使っているのだが、セーターに半ズボン姿で正チャンとは別の、どこにでもいる男の子だ。連れているのはリスではなく白い子犬。つまり、ごく当たり前の冬の子どもファッションになっていたわけだ。
あやかり商品が続々登場
帽子以外にも、さまざまな「あやかり商品」が登場した。
ディズニーのミッキーマウスの偽物が大手を振って歩いていたくらいに、著作権や版権にはうるさくない時代だ。正チャンも著者に断りなく次々に商品化されていった。
駄菓子屋の定番であるメンコには、早い時期から正チャンの絵が入ったものが登場している。当時、人気が高かったいろはカルタにも正チャンは使われているが、絵は明らかに別人のものだ。中には、『冒険カルタ 正チャントブル』という珍品もある。ボーイスカウトスタイルの正チャンと相棒のブルが日の丸の小旗に送られ「イサンデデカケル」が「い」の札。千葉省三・作/河目悌二・画と明記されているので偽物ではなく、あくまでもあやかり商品だ。
セルロイドの人形もつくられているし、観光地のお土産にもなっていて、奈良のお土産には正チャンが描かれたタイル製コースターがあった。
もちろんお菓子にも正チャンは登場する。当時、ドウブツキャラメルで人気のあった三共製菓はキャラメルのチラシに正チャンとリスのマンガを使っている。4コマではなく、短いがストーリーマンガになっているのが特徴だ。
お菓子の自動販売機もあった。つくったのは大阪の発明家・遊具職人で、のちに全日本遊園協会(JAA)の会長になる遠藤嘉一。遊園地に設置してキャラメルの販売をするもので、5銭硬貨(現在の80円くらいの価値)を投入すると硬貨の重みでクランクが動いて、バネに押し出された箱が取り出し口に落ちてくる仕組み。1924(大正13)年に5台がつくられた、という。
1990年代の半ばころ、当時の関西児童文化史研究会例会で、コレクターの方から実物を見せてもらったが、小学3年生くらいの背丈で、サイドに正チャンが描かれていた。70年前のものとは思えないほど動作はスムーズだった。
廉価本から子どもたちに浸透した
ゾッキ本、赤本と呼ばれる廉価本にもなっている。1926(大正15)年には榎本法令館(榎本書店)が、B7判のポケットマンガシリーズで「正チャン文庫」をスタートさせた。ポケットマンガは書店売りではなく、8種各10冊をパックにして地方のおもちゃ屋や荒物屋などに直接卸していた。定価は一応ついているが、安く売っても店に利益が出る値つけで、販売に応じた奨励金もあったから、定価の3割くらいが実際の売値だった。朝日新聞社が出した正規単行本の10分の1くらいで手に入るわけだから、正規本よりもゾッキ本、赤本で正チャンに出会った子どものほうが多かったのではないか。
面白いのはそのタイトルで、『岩窟仙人』『白刃の光』『心配無用』などオリジナルからは遠くかけ離れたものがほとんど。絵や内容も明らかに別人のものである。榎本法令館はほかに、B6判単行本でも正チャンのシリーズを出していた。
東京では、春江堂が『名探偵正チャンオテガラ』などを出版している。おそらく、他社からもいろいろな正チャンが出ていたはずだ。
宝塚少女歌劇の舞台にもなった
映像化、舞台化もあった。
1926(大正15)年1月28日には東亜キネマ甲陽撮影所製作で『正ちゃんの冒険』が封切られている。東亜キネマは西宮の甲陽園にあった甲陽キネマ撮影所と京都のマキノ映画製作所を八千代生命が買収して設立した映画会社だ。1923年9月の関東大震災後に、東京から避難したスタッフや俳優が多く流れ込んで関西の撮影所はどこも活況を呈していた時期に当たる。
アニメではなく実写の白黒無声映画で上映時間は50分。監督は竹内俊一、正ちゃんを子役の小川英麿が演じた。
ほかに、駄菓子屋などで売られた「玩具フィルム」と呼ばれるものにも正チャンものが多数ある。数分のアニメや、幻灯機用の35ミリスライドフィルムもあった。ライオン幻灯機用のおもちゃフィルム『正チャンの太平洋横断』などが知られている。
舞台化は1924(大正13)年10月に宝塚少女歌劇団が月組・雪組合同公演として「お伽歌劇 正ちゃんの冒険』を宝塚新温泉パラダイス大劇場にて上演。正チャン役は天津乙女、リスは佳江岸子だった。
宝塚版に関しては、2020年10月からNHKで放送された、昭和の名女優・浪花千栄子をモデルにした朝の連続テレビ小説『おちょやん』(2020年10月〜21年3月)の中で、主人公の「おちょやん」こと竹井千代が世話役に採用された山村千鳥一座が『正チャンの冒険』の舞台化を検討するシーンが、にわかに話題になったことがあった。座員の薮内清子が「ついこないだ、これを宝塚歌劇団が上演して大盛況やったそうです」と座長に進言したのだ。残念ながら実際の浪花千栄子が正チャンを演じたかどうかはわからない。大衆演劇が話題になったものを演目に加えることは多いので、あったのかもしれない。
結局、朝日新聞が一番オトク
あやかり商法や多メディア展開が進む中、一番あやかることができたのは、当の朝日新聞だったろう。
1923(大正12年)に朝日新聞社が創刊した子ども向け月刊絵本雑誌『コドモアサヒ』は、1924(大正13)年に大阪中之島公会堂で「こどもデー」を開催。作者の織田信恒と樺島勝一がゲストとして出演。樺島は満場の子どもたちの前で正チャンを描いて喝采を浴びた。
続いて1925(大正14)年1月には大阪市近辺の「正チャン」と呼ばれる少年たちを無料で招待。朝日新聞の大阪本社の朝日会館で、大規模な集会を開催した。そこでは食べ物が振舞われ、催し物が開かれ、帽子屋の連合から正ちゃん帽が贈られた、と『朝日新聞』と『アサヒグラフ』で紹介されている。この正チャン帽が商品化されたものだったのか、景品だったのかは要調査だ。
朝日新聞社が新規事業として始めた航空運輸業務のPRにも正チャンは一役買っている。
単行本『お伽正チャンの冒険』参の巻(1924年10月25日発行)収録の「ホウライサン」には、「アサヒシンブンシャノヒコウキヲヒキダシテ」正チャンとリスが夢で見た蓬莱山に向かう場面が描かれている。
(編集部注:画像は朝日新聞掲載時のものです)
1922(大正11)年に航空部門を担当する計画部を新設した朝日新聞社は、陸軍から複葉単発複座の中島式五型練習機の払い下げを受けて、1923年1月に東京〜大阪間に定期航空会を開設し、航空運輸業務をスタートしているのだ。同年8月に西宮市鳴尾球場で開催された全国中等学校野球大会の開会式では、機上から始球式のボールを投下するという演出もされた。
1925(大正14)年には、フランス・ブレゲー社の19A型偵察機を改良した初風、東風の2機が、東京代々木練兵場からシベリアを越えて、モスクワ、ベルリン、パリ、ローマに着陸する欧州大飛行を実現するなど、社をあげて航空部門に力を入れていた。正チャンがわざわざ「アサヒシンブンシャノヒコウキ」を使ったのは、航空機の魅力を子どもたちに伝えるのに絶大な効果があったはずだ。
実際にマンガのキャラクターが商品化されてビジネスにつながるのは、昭和の『のらくろ』や『フクちゃん』からになるが、すでに多様な広がりを見せていたことは注目に値すると思う。
中野晴行
1954年生まれ。フリーライター。マンガ・アンソロジスト。単行本に『謎のマンガ家 酒井七馬伝』(筑摩書房)ほか。手がけたアンソロジーに『マンガ家誕生。』(ちくま文庫)など多数。