猫の話
私の住んでいたマンションには、入り口付近を縄張りにしている猫がいた。
シャム猫のような模様をした雑種で、老いてはいないが立派な成猫である。
帰り際に目が合い挨拶をしようと近づくと、掠れた声で、みぃ、みゃ、くぁ、と返事をしてくれる。私もそれを真似て声を出す。適当な場所に腰を下ろしてその子と団欒するのが日々の楽しみだった。
天気のこと、普段の生活のことなど他愛もない話ばかりであったが、心身の疲れを癒すには十分だった。いつも何を食べているのか、雨の時はどうしているか、友達はいるのかなどの質問を投げかける。返答こそないものの、話はちゃんと聞いているということは感じられる。どうでもいいからさっさと撫でろという顔にも見えるが。そんな顔されてもあんた気にいるポジションが見つかるまでコロコロ姿勢とか場所変えるから撫でにくいんやて
おそらくその子は風邪か皮膚病を患っていた。めやにや顔の炎症が目立ち、いつも呼吸がしづらそうだった。特に顔が痒そうで、しきりにブロックや手などに顔を擦り付けていたし、落ち着きのない行動が多かったのはそういう理由もあるのだろう。病院に連れて行ってやりたいが、学生の身分でもちろんそんな金銭的余裕はない。いや、飼いもできないのに中途半端な世話を焼くべきではない、という考えが大きかったように思う。心苦しく思いながらも、少し掻いてあげたり、こまめに毛や汚れをとってやることしかできなかった。同理由から食べ物も与えていない。
その子は喉や頭を撫でられることを好んだ。挨拶をしてからしばらく私の周りをくるくると移動し、納得する場所を見つけると横ばいになったり伏せたりしてその場に落ち着く。ちいさなおでこを手のひらで包むようにしたり親指でちょこちょこする。顎下を人差し指と中指でうにうにする。すると心地よさそうな声で喉を鳴らし、とろけた表情でまどろんだ。そんな顔をされたら私は一生ここから動けないではないか。飽きないように体も撫でたり、昔本で読んだマッサージをしてやる。いや、して差し上げる。やはり猫はこの世の生物ではない。造形美や女神のようなほほえみからして、天界から遣わされた天使の類に違いないだろう。この子になら奴隷契約を結んでも構わない。むしろ喜んでそうしたい。常々思う、帰する所、人類は皆、一切合切の思考を捨て、猫に傾倒すべきなのである。平和のため異論は認めよう。
、、少々熱が入ってしまったが、ある一晩の事を回想させて欲しい。その日、私はひどく荒み、家に帰ることすら嫌気が差していた。他に選択肢もないので風に吹かれる襤褸布のように体を押して帰路につく。すると、オレンジ色の電灯が照らす暗がりの中に、その子が待っていた。いつものように植込へ共に移動し、腰掛け撫でようとした。すると、私の手がギリギリ届かないところにちょんとその子は座る。だいたいいつも遠めの場所に陣取るのだが、やけにそれが早い。まるで、今日は別に撫でなくていい、というように。彼女なりに私の胸の内を察したのだろうか。勝手な推測、更に言えば単なる妄想だ。けれども、「撫でる」という対価が無くても、会話をせずとも、ただ無条件にそばにいる、という姿勢を確かに受け取った。私はその毅然とした態度に甘え、一時間ほどその場で休ませてもらった。夜は彼女の仕事時間で、縄張りの警備に集中している。薄明りに浮かぶその背中は、凛々しく、雄弁で、何者からも護ってくれるあたたかさがあった。目頭の熱はいつの間にか引いていた。
よく、この子は私で遊んでいるのではないかと思う時がある。どうやら他の住民に対しても懐いているらしく、私だけに甘えてくれている訳ではないらしい。そればかりか、私と遊んでいる時にお気に入りの人が通ると、私を捨て置きその人のところへ行ってしまう。え?私とはただの遊び??
そのくせ、そろそろ帰ろうかと見切りをつけて立ち上がると、行くなまだ撫でろと言わんばかりに横になって腹を見せてくる。そのタイミングはずるいだろう。もう行かなきゃって私言ったはずですよ。無論抗える筈もなく、何度足止めを食らったことだろうか。
数ヶ月姿を見せなかったときはひどく心配した。ふと顔を見せたかと思えばお腹が大きくなっているではないか。友人の懐妊と祝おうとしたが、さくらねこ(去勢や不妊治療が施され、耳が桜の花びらのようにカットされている)であることに気付き、でぶちんになって帰ってきただけであることが判明した。心配して損した気分である。
思えば、あの子には助けられてばっかりだ。苦しいときは決まって不安を溶かしてくれた。適当にあしらわれているかと思いきや、しっかり愛も信頼も返してくれる。それに比べ私は何もしてやれなかった。食べ物も水も与えてやれない、つらい病気も治してあげることができなかった。まだまだ返せていないものがたくさんある。
一年ほど街を離れることになり、しばしの別れが来た。家を引き払う最終日、何度か会うことができた。最後に会話こそできなかったが、幸せそうに寝息を立てる姿を遠目に見ることができただけでも、私は十分幸せだった。
撫でるしか能がない私を許してほしい。それが私にできる唯一の恩返しであり、愛情表現なんだよ。また必ず同じマンションに部屋を借りて、撫でに行くから。一年後にまた会おうね。
そう胸の内で約束し、思い出溢れる町を後にした。
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