『退行を扱うということ』を読んだ
この本は破格です。この本の内容のいくつかは2024年に出版されたものとは思えないほど社会倫理的な合意に対して挑戦的であり、また別の見方をすれば驚くほど古式ゆかしい本です。
わたしはセラピストとして退行を扱うよりは、もう少し離れたところで退行を目撃するといった立ち位置の人間ですけれども、そういう人間が読んでも為になる本だと思います。
※本記事において母親は役割を指しており、器質的に母親であることを意味しません。父親も同様です。
そもそもわたし自身が退行というものをきちんと理解していないのが問題なんですけれど、退行って精神分析の主流派であまり扱われてないんですね。知りませんでした。わたしは、現在の質を歪めている過去の体験に遡って、すなわち任意の心理発達段階まで遡行して、その体験を現在の自分で理解再構成する事で現在を回復させるものとして精神分析を理解していて、その意味で退行を精神分析の作用機序の中核的な構成要素だと思ってきたので、その扱いの悪さはちょっとした驚きでした。ああでも、退行とはきっと、任意ではなく乳幼児期まで遡ることで、それが面接構造の外側の実生活に漏れ出してしまうことが取り分け悪し様に扱われる要因なのですね。このあたり、バリントの新規蒔き直しの概念と合わせて考えると、わたしが手本にとってきた高橋和巳のカウンセリング理論における崩壊期概念とぴったり一致するなあと思いました。
本書の理論的な整理に則れば退行概念がトラウマやアタッチメントと親和的なのは必然というか、むしろ原初的トラウマやアタッチメントを扱うためには退行が起きていなければならないくらいの重要性でしょう。トラウマもアタッチメントも原初的というコアコンセプトをだんだん尊重しなくなってきていますけれど、元々は早期体験を説明する概念ですからね。ボウルビィやウィニコットを退行というコンセプトで参照するのもわかるような気がします。
さて、本書の白眉とも言えるのは、とても2024年に書かれたとは思えない(誉めてます)母子関係の記述と、それを例証する臨床記録です。著者は本当に淡々と書いていますが、父親の性的搾取の背景に母親のネグレクトがあるなんて話、現代では最大級のタブーです。怖いものなしかよと思いました。
現代に生きるわたし達は、自然には社会の中で合意された意味を参照しながら生きているので、父親の性的虐待という事実を前にして母親の養育に言及するのは倫理的に困難を極めます。わたしがたびたび言及している倫理の密輸入というやつです。平たく言うと「虐待加害者の父親ではなく無辜の母親の方を責めるのはダメ!」という感じです。当の被害者もそういう倫理的合意にコミットしていれば、虐待状況を扱う中で母親の立ち居振る舞いに言及することは俄かには受け入れがたいことでしょう。そしてそれは、倫理的社会的には正しいに違いないのです。
ですが、本書も指摘するように、この三者関係には一定の真実性が含まれているとわたしも考えます。母親がこのニーズに応えられないことによる不安や葛藤を女の子のエディプス葛藤の起源に位置づけるのも非常に明晰だと思いました。
上述したように、通常の社会生活の中で倫理的社会的規範に適応している状態のままでは、母親との関係や葛藤を取り上げることには大きな制約がつきまといます。その点、退行が心理発達段階を遡ることであり、心理発達の過程で取り入れてきた倫理的社会的規範を一時的に解除する機能を有していることを踏まえると、退行を扱うことで初めて、虐待した第三者ではなく第二者たる母親との関係や葛藤を検討することが出来るのではないかと思いました。逆説的に、退行を扱わない限り、虐待はあくまでする者/される者だけの二者関係的な理解に留まるでしょう。その一方当事者が〈母親〉であれば図式にズレは生じませんが。
虐待という事実行為よりも養育者の心理的ネグレクトにウェイトを置く考えは今日の社会的合意とは整合しませんが、わたし達人間は社会的に望ましく設計されているわけではないのですよね。倫理はむしろ人間社会が構成してきた事象を事後的に(時間的に遅行して)補完する役割を負うというものとして考えるべきです。
トラウマ的な出来事は体験それ自体がなくなることはありません。その意味で、出来事があった以上、トラウマの成立は避けられません。ただし、それが〈母親〉によってどのように意味付けられ、ケアされてきた(されてこなかった)かがトラウマとしての質を決定するとわたしは考えます。極言すれば、ハーマンの図式にいう単純性と複雑性を分けるのは主たる養育者である〈母親〉如何です。子どもに反応できない〈母親〉の養育下にあってトラウマは最大化されることでしょう。このとき、第三者の明示的な虐待はスクリーンメモリとして作動するのです。あるいは二重外傷とでも言えますかね。
〈母親〉に特別の地位を与える言論はもはや現代の論客から得ることはできず、古典に潜るしかないのだと思っていたわたしにとって、著者の明示的な態度は非常に心強く感じられました。提示された症例も著者の論を支持するものとして受け取ることが可能です。とは言え、ここまで踏み込んでおいて、現実ではなく対象関係上の〈母親〉しか扱わないあたりが精神分析の限界地点かなぁとは思いました。
反対に、倫理的社会的規範を無自覚に密輸入し続けているアタッチメント理論とはますます距離ができそうです(悪口を書き始めると止まらなくなるので割愛します笑)。
本書には症例が3つ提示されていて、そのどれもが非常に詳細なんですけど、わたしが見落としていない限り本書のどこにも架空症例とか本人の協力を得て、とかその手のexcuseがなくて、これはひょっとして未加工の生症例なのでは…?というね。生っぽいリアリティと具体性がありますし。これはどう理解したらいいのやら…。注釈も何もないからどう理解するにしても仮定でしかないんですけど、許諾の明示されていない症例提示には負の外部性が大きいので、その辺はしっかりしてほしいなあと思いました。
おしまい