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『アタッチメントと心理療法』を読んだ

 出版されてすぐ買ったもののかなり序盤で投げ出していた本書を、ちょっとしたきっかけで再び手に取り、なんとか最後まで目を通しました。本書のうち、特に理論編たる第一部の内容について何かを述べるには、わたしのアタッチメント理論や精神分析理論・実践に対する理解が不足しているものの、訳者の細澤先生も対話を望むとお書きになっていますので、浅学なりに本書の感想などを書き連ねていこうと思います。

 そもそも一度目に本書を投げ出したのは、アタッチメント理論が母子という関係を軽視あるいは無視していることへの反感が大いに刺激されたからでした。今回読んでその印象が覆ったわけではないのですが、わからない人にはわかりませんからね。今回最後まで読めたのは、わからせに対する執着を手放すことができたゆえかもしれません。




 精神分析という営みは自分が構築してきた理解の体系を分解再構築するような性質を持っていて、しかも理論的にはかなり原初の体験まで遡るようなものと理解しています。例えば、職場でハラスメントを受けてブレイクダウンしたと一面では理解しているクライエントが、ハラスメント状況に対してSOSを出せなかった、自分を守るような適切なアクションを起こせなかったのはなぜだろうという気づきから自分の対人関係や理解のパターンに及び、その形成過程を遡流して乳幼児期の原体験に至る、というようなプロセスを通ります(よね?)。そう理解すると、精神分析は少なからずクライエントのアタッチメントに接触する実践だと言うことが出来そうです。このとき、アタッチメントは安全に扱われて平和裡に再構成される例ばかりではなく、社会的なリスクを伴う退行のような危険な橋を渡ることもあります。実際に、わたし達クライエントは治療の過程でしばしば傷つきながら何かを学び取ります。そう考えると、アタッチメント理論が口を酸っぱくして主張する安心感→探索という図式は精神分析的な営みにも広く適用されるべきではないかと思います。古典的な?精神分析というのは、自由連想という探索を通じてクライエントのアタッチメントに手を突っ込むのに、その土台となる安心感を少なくとも意図的には提供しない、かなりリスキーな営みなんじゃないかな?と感じました。だからダメというわけではありませんが、やはり精神分析はかなり人を選ぶ営みであると言わざるを得ませんね(的ななんとかとかではなく精神分析。為念)。逆に、安心感の提供から始めることによって、精神分析的な理解や実践はより多くの人に利益をもたらす可能性を獲得するのでしょう。

 ホームズという人もなんとなく好ましいというか、治療者が不完全な人間であることを避けられない感じを認める過程は個人的には好きですね。感情が自由というか。クライエントがどう感じるかは別ですが。今日日投影された完全性を引き受けるような実践をしている、しかもそれを是としている臨床家もあまりいないとは思いますが、かといって不完全を旨とするのも開き直っているような、不誠実な感じがするものです。その点でメンタライゼーションにはあまり関心が持てなのそうですが、それはそれとして13章に書かれていた転移の解消は面白かったですね。かつてわたしは自分に向けられた理想化を愚かにも無理やり退けようとしていましたが、こういう解消もあり得るのだなぁと思いました(やや事大的な印象は受けましたけど…)。

 死に関する論考は本書で一番面白かったところで、ワーカーにも言及がありましたが、これはなんとか頑張って独立の記事を起こそうと思います。


 

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