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自分史を書いておこうかと(主に上海編)

年齢も50間近になってきて、にもかかわらず新しいことを覚えようとしている反動か、人の名前さえ忘れていく老いを感じてきたので、自分が日本にいなかった頃を中心に書いておこうと思った次第。

できるだけ時系列にしたいが、その時系列もよく覚えてないので、懐かしい写真順にとりあえず書いていこうと思う。

ピアス開けまくりたいの願望のまま勢いで舌を含め10数カ所開けた時

この時は、毎朝顔を洗うと必ず流血、そして一旦外れると付ける時に、皮と肉の間でウニョウニョして、微妙な痛さを味わった。人の皮膚は意外にも分厚く、鼻の軟骨は小さなパキッて音がする。舌にもピアスを開けたせいで常に舌足らずな喋り方に。モテると思っていたが、全く持てなかった。ただ痛かっただけ。

中国、上海で、visual系のバンドを組んでいたとき

メイクですんごい変わるから人って。この時は、ピアス時代よりモテた。


上海にあるYYTというインディーズライブハウス感満載のかっこいいライブハウスでイベントしてた時のフライヤー。

この時は、TokyoCloudというイベント名で月1、中国の子達のバンドと一緒に3、4バンドぐらいでイベントやってた。毎月赤字。集客はざっくり100〜200ぐらい。箱代、イベント専用のプロモーションスタッフ、バンドのリハ代、などが経費、チケットは確かペアチケットで100元。黒が出たこともあった気もする。とりあえず楽しかった。イベント終わったあとは、近くのよくいく小さい定食屋さんを貸切にして打ち上げ。からの終わったあとは、スタッフを労うために、マッサージ屋さん。からの身内だけ残って3次会みたいな流れだった。後半は、イベントを毎月やれる体力がなくなり年1に。コロナがあって、一旦中止。また再開させたい。

初めてのフランス旅行で、インパクトのあったのをとっただけ

フランスで行われてるジャパンエキスポに行きたかったから行ってきた時の写真、他にもあった気がするが、まぁ、後でつけたそう。確かこの時は、シャワーが共有のめっちゃ安いところに泊まった。サマータイムだから23時ぐらいまでめっちゃ明るかった気がする。ずっと上海にいて、からの初めての海外だったから、フランス語が話せないので、英語で会話するはずが、最初に出た言葉が中国語だったw。海外=中国語で会話が、脳内で確立されていたのが面白いかった。

フランス租界のめっちゃ立地が良いところに部屋を借りた時。鏡は自分で購入

この頃からクラブ三昧。ダンススクールに通って、可愛い先生を見つけて、一瞬付き合って、振られて、の勢いでめっちゃダンス練習して、クラブ行って、でまさかの才能が開花した40過ぎ。クラブは最初若い友達と一緒に行って、朝まで踊って、帰りは、コンビニでアイスを食べる、という高校生のような青春を送ってた。そこで、ナンパの反省会みたいなw。その友達が日本に帰ってしまい、勇気を出して一人でクラブに行けるようになってからもう何も気にしない鉄のハートができていった。どうせ誰も知らないし、踊りまくった。その成果、クラブでの友達が少しづつ増えた。逆ナンもされた。踊り続けて盛り上がると店長がビールを奢ってくれた。いつもクラブで踊っている男友達もできて、一緒にご飯に行くようにもなった。イタリア人のNicoは、60過ぎなのに、めちゃイケメンで彼女も可愛い、まさに自分の理想とする人生を謳歌している友人だった。また彼と再開して踊りまくりたい。

雅のライブを香港に見にいった時にかった服をきてる時

踊りまくってのもあるし、体系的には今思うと良いバランスな気がする。


北の方、赤羽的なちょっとはずれにあるリハスタジオ

安いのと広いのでよくここのリハスタジオで練習してた。機材は、まぁ、どんまい。日本のようにマーシャル、ジャズコーが基本ある訳ではないのを知った。


タイガービールのバンド大会の予選

タイガービールという青島ビールとは違った銘柄があり、タイガービールが協賛するイベントに出てみた時の頃。まぁ、どうせ受かるはずもないと思い、インパクトだけ残すように、ギター持ったまま、このカメラの位置辺りまでダッシュして、ギターを弾きまくってた。中国のおじちゃん、おばちゃんには受けたw

クラブ帰り、超寒かった

この頃は、めっちゃ寒かったけど、踊りまくって、クラブの外に出ると汗でオーラのように湯気が立ってた。ひたすら踊りまくってた。そして寂しさを紛らわしてた。海外に住むと、孤独の時に寂しさ感が強く刺さる。だからこそ毎日誰かに会おうとするし、そうでもないと、コンビニのおばちゃんに話しかけたりしてた。日本にいる海外の方にも優しくしようと思った。

友達の彼女が撮ってくれた奇跡の1枚

クリスマスイベントで、適当に集まったバンドマンでセッションした時の。曲は忘れた。楽しかった。日本ではこういうのは味わえない。音楽を通じて、友達になれる。

奇跡の写真二枚目

自分で企画してたイベントでの一枚、この頃は、まぁ、結構盛り上がってたし、イベントがそこそこ有名になってた。上海のTV局の人の取材もあったり。同じイベンターの人と繋がったり。仕事だけをしに行った日本人に比べて、かなり違った人脈が持てたのは大きかった。ギターは、今でも気にって使ってる大久保で買った中古のギター、ヨーロッパのどこかの会社のギターらしい。かなり珍しく、確かに同じギターを持っている人を見たことがない。


iPhoneを首からぶら下げる

iPhoneをよく無くしまくったシーズン。大概が空港で乗ったタクシーで降りるときに、疲れが限界で注意散漫なまま、iPhoneをタクシーに忘れる。これを1年に2回やって、絶対忘れないようにと、首からぶら下げるのをつけてた。

青島音楽イベント

上海で撮影が行われた青島の音楽イベント。最初は出る予定じゃなかったんだけど、日本人がいないということで、出てみた。自分の曲をオケで流し、ひたすら走りまくって、ギターを弾くという。確かこの頃は、まだ踊りに目覚めてなかった。ディレクターの人にもっと激しく動け、と確か3回ぐらい撮り直し。お客さんはサクラのはずなんだけど、3回目が終わって汗だくだくになってたら、可愛い中国の女子がティッシュくれた。感動。何かが伝わったんだなと。

楽屋での写真
写真撮影

良い感じに調子こいてるw

投票用のQRと実際の映像
一番仲良かったスタッフくん

田舎男子をかっこよくすべく男子は全員無理やり金髪にしてた。めっちゃ嫌がってたけど、金髪にした瞬間イベントでチヤホヤされまくれ、結果喜んでた。何事も一回やることが重要なんだなと。

Tokyo Cloudのサイト

イベント用のサイト。参加してくれたバンドの情報もまとめてた。意外にもこういうのが当時なく、そこそこに良かった。海外に行くと、日本では普通にあってもないものがあり、そこにこそチャンスがあるなと気付かされた。日本は優秀な人が多いから、そこで戦いぬくはしんどい。海外でクラブ三昧しながら仕事でして死んでいきたい。

TokyoCloudの冊子版

自分のイベントの冊子を自分で作って、リハスタや、ライブハウスに置いてもらい、メディアっぽいことをして、あ、これがメディアなんだと。自分で作るのでどうにでも作れることを知った。そして、メディアをただ信じてはいけないことを学んだ。


自分のバンドの第3期

バンドのメンバーがまぁ、色々あって代わりに変わって確か3期目。左のイケメンがヤンくん、日本語も喋れるし、ギターが超絶うまい。そして、持ててた。真ん中がボーカルの子、コスプレヤーとしても有名だった。右が僕。


コスプレイベント会場

ボーカルの子の関連で、コスプレイベントに出た時。すんごい寒かった。時間もすんごい押したけど、会場はすごかった。中国の資源の豊富さを強く感じた時だった。メイクには、メイクの専門学校の生徒さん達がやってくれた。中国では、コスプレ市場が想像以上に価値が高く、そういう協力してくれる人達が、音楽市場より多いなと感じた。バンドのメイクさんは普通にお金を支払ってた。


爆睡
第二期の頃

自宅近くで歩いているところ。第二期は、ドラマーが中学生だった。アニメにめっちゃ詳しく、アニソンしか聴かないと。おすすめなアニメをよく聞いてたw 楽しかったなぁ。

友達とフットサル

上海一大きい音楽イベントの会社の人と友達になり、そのフットサルにおよばれ。ちょうどレーシックした後で、めっちゃみえるから調子こいてキーパーやったら、目にあたり、視界が半分見えなくなり、軽くパニクったが、あきらめながら帰宅。寝てたら治った。感覚的にはレーシックで開けた瞳の薄い皮みたいのがズレてしまった感じだったが、奇跡的にうまい感じに戻った気がする。

マイクロダーマル

人体改造に憧れ、どうやったらラズパイを腕にくっつけられるかの実験でマイクロダーマルをしてみた。これを2、3個くっつけて磁石をくっ付ければいけそうだなと。しかし、異物を排除しようとする力が強いのか、1ヶ月待たずに痒くなり、自分で引っこ抜いた。

これは乗っけただけ

こんな感じをイメージしてたけど、電源はどうすんの?に気づいた。


日本でやってたお笑いバンド時代

当時一緒にやってたメンバーを首にして、一人で活動してた時期。若かった。

第3期でPVとったとき

ボーカルの子の会社の屋上で、PVをとった時。ギターのイケメン君は、こういう慣れてなく、カメラマンにかっこいいねを連発されて、キレてた。

ギター、正確にはベースだが、ギターにラズパイを乗せている

ギターを、音を映像に変換するプロジェクトの一番最初ぐらい。ミノでベースにザクってた。


フランスの南にあるNantesという町

友達がいて、パリから新幹線に乗り、初Nantes。新幹線の切符を買うのがまず最初の壁。そして、席に着くのも壁。全くわからんが、まぁ、どうにかなった。5時間ぐらいで無事到着。友達と初めて会う。インスタで繋がった人で、その人の家に泊めてもらった。庭が広く、隣の家はほぼ見えない。とても自然に溢れた良い環境だった。ああいう田舎に住んで最後を遂げたい。


ラズパイ、モバイルバッテリー

ラズパイの電源は、モバイルバッテリーでも行けることに気づく。モバイルバッテリーの皮をとったら、基盤が見えて、っぽくなりかっこいい。とりあえず、Ledで文字を表示させるところからスタート。

完成版

音とは連動してないが、初期バージョンの雰囲気を感じるには十分な出来だった。各パーツを抑えるために、プラ版を合わせて、ねじ止め。こういう工作は、ギターのヤン君が得意だった。


ダンススクールにて

ダンスにちょう目覚めたとき。もうこの頃は失恋してて、心がぐちゃぐちゃだったけど、踊ってる時は、少し忘れてたと思う。家からの電車の乗り換えのときすれ違うんじゃないかとか、期待してた、が、全く会わなかった。おっさんになって久々に恋してたと思う。なのか、顔が自分的にはいけてるw

盟友達との貴重なイベントポスター

ここから始まった。加速する人生になったきっかけの大きなイベント。若かった。この頃にyoutubeがあれば良かったのにって、すんごい思う。

24歳、西荻のマンション

アダルトの映像会社で働きつつ、バンドしてた頃。Aftereffectでモザイクづけしてた。A3のプリンターが20万とかしてた時代。この頃は、お金ないから毎日納豆食べてた。リハ代と参加するイベントのノルマ、家賃にほぼお金が消えていった。アニマスで3D作ってた。当時はファンとのコミュニティはみんな掲示板で、Perlで書かれた掲示板を少しづつ改造して、プログラムを覚えるきっかけになった。当時は、今の仕事ができるほどになるなんて全く思ってなかった。プログラマーはまさに別次元の人だと思ってた。

ギターiPhone埋め込み
バージョン

ラズパイもあるけど、音との連動、バッテリー問題を考えると、iPhone埋め込んだ方が早いと気づいた時。ものづくりをガチでやると、電源の問題にぶち当たる、既製品を分解して、再配置した方がいいのでは?と考えるように。iPhone自体がかっこいいから、なんかっぽくなる。勢いをつけるために当時メインギターだったギターをざっくり彫った。後悔はしてるが、前に進む原動力になった。

ファズの基盤

音との連動をガチで考え始め、ファズの基盤を作り、色がださくならないよう2色で構成。100回ぐらい失敗した。ので、ハンダスキルがすごい上がった。可変抵抗のスイッチの2段のやつを使うと、下の段と上の段で、別々の電圧をかけつつ(回路は別にしつつ)可変させることができ、その信号をラズパイでも取得できたので、音の歪みを可変しつつ、映像の方でもパラメターとして利用できることができた。

ギターにはめた

ほぼほぼ完成版。デザイン上、配線を同じ色にしたので、まぁよく間違えたw わかりやすさと、デザインの戦いを身をもって体感。


3号機

3号機の着手に入ったあたり。中古でギターを買ってきて、容赦なく彫る。

ファズの配線を入れてるところ

なかなかうまく収まらない。そういう風に作られているわけではないので当然そうなる。リアルな物作りは、バーチャルと違って、多くの課題がつきまとうことを痛感。こういうのには向いていないことを自覚し始めた。

ラズパイとモニター

ギターに埋め込むやつのテスト。

埋め込んだ

ギターの下側が、かなりギリギリになってしまった。意外にもモニターより、LEDの方が、デジタル感があっていけてた。

自宅スタジオ化初期

ほとんど触ってないけど、そういう機材が好きだから配置してみて、鼻ふんふんしてる絵。この時はまだモニターも1個


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