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息吹のルージュ(ルージュは魔法使いⅡ)
波乱の2024年がやっと終わりを告げた。
振り返れば丁度一年前、昨年の年初めの事である。
一抹の不安が心を過った。
と言うのは、私の運気が2024年から3年間の大殺界に突入すると知っていたからである。
大殺界とは、かつて「地獄に落ちるわよ」と言う決め台詞で人気者になった占い師、細木数子さんが世に広めた厄年のような年廻りの事である。
細木占星術によると、人間の運気のサイクルには12年に一度3年間の停滞期があり、その期間は活動を控えゆっくり休み、次の春に向けて力を備えをする時期とされている。
休むだけなら何の問題もないが、厄介な事にこの時期は、何かと自分の力ではコントロール出来ない困難に見舞われるらしいのだ。
大方の人は気に留めないのだろうが、私の場合は過去の大殺界で何度もアクシデントに見舞われ、翻弄された苦い経験がある為に心配になったのである。
そうは言っても、
「まさかね、占いだもの」
と、たかを括っていたのだが。
四月までは殺界を忘れる程、穏やかな日常が過ぎて行った。
その不意をつくように、「まさか」が始まったのは、5月に入ってからだ。
皮切りは、老人ホームに入居している傘寿を過ぎた父と、米寿の母が引き起こしたホーム内での対人トラブルだった。
身元保証人の私は先方との交渉に神経を使い果たし、くたくたになった。
それがひと段落したと思いきや、今度は両親の老いが2人一挙に加速して行った。
親のフォローするのは1人っ子である私の役目だが、2人がまるで足並みを揃えるように弱るとは思っても見なかった。
在宅介護の大変さとは比べものにならないが、老人ホームに入っていても日々の変化の報告は常にあるし、その都度細かい対応をせねばならない。
又、通院の付き添いは家族の役割りである。
その負担が一遍に2人分、私の肩にのしかかって来たのだ。
母は元々身体が弱く通院が多かったのだが、8月の上旬に頭を打って入院したのが引き金となり、9月は心不全、10月はパーキンソン病と追い討ちをかけるように病気が重なって行った。
度重なる通院で母も可哀想だが、体力の無い私にはアップアップ状態の日々が続いた。
更に運の悪い事に、母の病気と並行して父の痴呆が進み、夏から秋にかけてのほんの3か月の間に、介護度が進み要介護1から3になってしまった。
父は自尊心が強く自分の老いを受け入れられない。
痴呆が進み理解力が落ちているのにマイルールで何事も押し通し、事ある毎にごねるので人の数倍も手がかかり、職員さん達の手を煩わせる。
私はホームに面会に行く度に職員さん達にお詫びをし、父を叱ったり宥めたり…
そんな半年を過ごし、私の心はすり減っていった。
そして、2度目の「まさか」が起きた。
すり減っていたのは心だけでは無かったのである。
私自身が体調を崩し、一泊の検査入院をせざるを得なくなったのだ。
幸いにも大事に至らずに済んだのだが、病気が一つ見つかり、今後は不安を抱えたまま暮らさねばならなくなった。
老いた親の介護と自分の病気が重なり、現代社会が抱える問題を自分が体験する事になろうとは…
どうしようも無い苛立ちと、
悲しさ。
本当は自分の事だけで精一杯である。
いつまでこの状態が続くのだろう。
滅入るばかりである。
でも私の変わりはいないのだから、挫けそうになる心を奮い立たせるしか方法がないのだ。
お化粧しようと鏡の前に座っても、鏡に映る顔はどんより曇り今にも鬱になりそうだった。
「ルージュと魔法」で口紅の力を書いたものの、暮らしが落ち着かなくなるとお化粧をスルーしがちになっていた。
これでは気持ちが沈んでいくばかりである。
「そうだ!
また口紅の力を借りよう」
と思い立ち、夏には活力をくれたお気に入りのオレンジの口紅を塗ってみるが、秋冬には爽やか過ぎ、も少しほっこりする色が欲しい。
善は急げと、早速ショッピングモールの中のドラッグストアに口紅を探しに行った。
ズラリと並んだ口紅の数々に圧倒されながらも、レブロンで可愛い赤を見つけた。
なぜだろう?
赤い口紅に吸い寄せられるのだ。
手に取るのは赤ばかり。
手の甲に試し塗りを重ねて、少しピンクが混じった赤を選んだ。きっとこの色なら活力をくれるだろう。
そういえばコロナ禍前までは、私の口紅の定番カラーは赤だった。
人前に出る事も多く、派手な赤を躊躇せずにつけていた。
しかしこの五年は赤に拒まれていたように感じる。
コロナ禍で生活スタイルが大きく変わり引きこもり生活が長く続く中、マスクの中で弛んでしまった緊張感の無い頬と口元に赤い口紅は余りにもアンマッチだった。
何度かトライするものの、唇だけが悪目立ちしてしまう。
私にはもう赤は似合わないのだと諦めざるをえなかった。
そんな私が再び赤を選びたくなるなんて…
赤が私に寄り添ってくれかどうかもわからないのに…
まるで別れた恋人との再会のようである。
レジを終えると急ぎ足で化粧室に駆け込み、待ちかねたように口紅を引いた。
大きな鏡に映る見慣れた自分の顔に、目を剥くような鮮烈な赤。
選んだ色は塗ってみると余りにも赤く、私は及び腰になった。
「ヒェ〜赤い。赤過ぎる」
顔映りが良いのは確かだが、似合うかどうかがわからないのである。
ひとまずティシュオフしてみるが、ぴくりとも落ちない。
落ちない口紅だと謳って売っている筈だ。
流石に真っ赤な唇で歩くのは気恥ずかしくて、マスクで隠さざるを得なくなった。
折角買ったのに…
再会は失敗だわ。
振られた。
期待が大きすぎてがっかり気分だったが、気分転換に時々洋服を買うお店を覗いてみた。
商品を見ていると、同世代の顔馴染みの店員さん達が声を掛けてくれた。
「マスク取って着てみたら?」
「あのね私さあ、今日、口紅がやけに赤いので、マスク取るのが恥ずかしいのよ」
「マスク取って」
と、彼女達。
私は恐る恐るマスクを取った。
「きゃー可愛いじゃん。
よく似合うわ。
それどこの口紅?」
2人の顔が輝いた。
「これよ」
口紅を差し出すと1人の店員さんが早速、品番の写メをする。
「あらっ!ほんと!似合ってたのね。嬉しい!」
彼女達の反応に安堵した私。
久々の赤に自分の方が怖気づいたようだ。
再会は成功。
私達は又、結ばれたのだ。
きっとコロナ禍で落ちていた気力が蘇り、赤に負けない私に戻れたんだ。
それがとても嬉しかった。
近頃は少々赤くても気にならなくなり、病院の付き添いにも赤を付けて行くようになった。
赤ならではの効果は絶大である。
元気の無い時は気力を下さいとばかりに赤い口紅を挽くと、急に顔全体を照らすような明るいエネルギーが溢れだす。
年末に向かうに連れ、薬の効果で父の状態が落ち着き始めた。
又、母の病状も治療の甲斐あり通院が少なくなって来た。
やっとひと息つける日が訪れ、私の心にも余裕が出て来た日の事だ。
その日も私は、お気に入りの赤の口紅をつけて母に付き添っていたのだが、診察待ちをしていた時にふと閃いた。
口紅の力を88才の母にもお裾分けしてみよう。
母は昔からお洒落が大好きだ。
体が弱った今でもお洒落が生きがいで、通院の際はめかし込んで出掛けて来る。
しかしお化粧は眉を描くだけで、口紅をつけた姿を長らく見た事が無い。
私は買ったものの、シックすぎたリップモンスターを化粧ポーチにいれていた事に気づいた。
「おかあちゃん、これ塗ってみる?口紅挿すと元気になるよ」
口紅をバックから取り出し、
待合室の廊下の椅子に座る母の唇に、そっと紅を挿した。
深いローズの口紅で、生気のない母の顔がぱっと華やいだ。
「別嬪さんやわ」
私が手鏡を差し出すと、母は鏡に映る自分の顔を見て、
「若い頃からこんな色好きなんよ」
とにっこり。
母の笑顔を見たのは久々だった。
夏からの闘病続きで、心が安らぐ日は一日たりとてなかっただろう。
それをわかりつつ、私も自分の役目をこなすのに精一杯で、母の気持ちに寄り添い優しい言葉の一つもかけてやれなかった。
そんな自分を責め葛藤が続く日々であったから、母娘の心を口紅が紬いでくれたように感じ心がほっこりと温かくなった。
その日の通院が終わり母を施設に送って行くと、玄関ホールで職員さん達が迎えてくれた。
靴を脱ぎ、一服しようと椅子に座った母がマスクを取ると、
「まぁ!S子さん口紅塗ってるの!皇室の人みたいに上品だわ」
女性職員さんの声が上がった。
又、男性職員さんからは、
「綺麗だね。
声を掛けたくなるよ」
楽しい言葉が飛び出した。
母は恥ずかしそうに微笑んでいる。
そこで、
「私も最近口紅つけてるんですよ」
少しマスクをずらしてみたら、
「まぁ!口紅って良いわね!
私達もつけよう」
ナースさんも、女性職員さん達も賛同し、女性達は女子会の如くに盛り上った。
口紅一つで皆が明るく弾み、場が和んだ。
「口紅ってほんとに魔法だわ」
昨年の6月「ルージュは魔法」に、年を重ねる事は、老化、病気、死別など厳しい現実との戦いであるからこそ、自分自身を明るく保つ為に口紅の力が必要だろうと書いた。
その戦いに直面し格闘している今、その威力を更に大きく感じるようになった私である。
身体や心が辛い時は何事も億劫になり、お化粧などもっての他だと思う人もいるだろう。
全て放り出したくなっている時に、美容に力を注ぐのはとても努力がいるが、辛い時こそ綺麗でいる努力が必要なのだ。
何故なら綺麗でいる事は、何よりも自分に力を与えてくれるからだ。
どんな時でも紅を挿すと、しかめっつらが消えてにっこり笑顔が生まれる。
その紅が生み出した笑顔が活力となり、生きる力を与えてくれるように思えてならない。
私の今年の運気は大殺界の2年目。
残すところ2年もあり油断出来ないが、前回の大殺界の時も、この時期を踏ん張り乗り越えたら新たなステージが広がっていたではないか…
前を向こう。
この小さな紅の大きな力を
借りながら。