「モーリス」の公式BL二次創作続編「Alec」がおもしろ過ぎる件!!
*結末に関するネタバレはありませんが、この作品の良さを説明するためにネタバレになっている部分が含まれている箇所があります。読む前に前情報を入れたくない方はお控え頂くことをお薦めします。
*面白さを伝えるつもりで書き始めたのですが、だんだんマニアックな話になっていってしまっている箇所が多々あります😅。適当に読み飛ばしてくださいませ。←調べ始めると奥が深いんです。でも自分が色々調べた記録として記事にしています。
はじめに
この記事は、前記事の最後に触れたE.M.フォースターの小説「モーリス」の続編「Alec」についての記事です。なので「モーリス」の小説、もしくは最低限映画「モーリス」を見ていないとピンと来ないこともありますので、どうぞご了承の上お読みください。
(*記事内で「 」に囲まれている「モーリス」と「Alec」は、小説「モーリス」と小説「Alec」のことですのでそのつもりでお読みください)
前記事はコチラ↓
小説「モーリス」は、映画とは違ってクライブのSad Endを描いた作品ではなく、フォースターの真のメッセージはゲイのハッピーエンドを描きたいというものでした。
文庫本の巻末にある松本朗氏による解説にも、この小説が出版された時代背景においても(1970年頃)、基本的にその部分(ハッピーエンド)が称賛されたようだという記述がありました。
”主人公がアレックとの関係を恥じることなく、二人で生きていく決心を表明するエンディングは、ファンタジー的な世界への逃走にも見えるとはいえ、性的マイノリティである同性愛者の存在を誇りをもって描くことで、ゲイ解放運動に繋がる革新的な未来を指し示すと解釈できるからである”
と書かれていました。
なるほど~、いまでこそ再評価されるべき作品だなぁ~と思いつつ、そんなこんなでモーリスとアレックの未来を夢想していた時に、海外掲示板の「モーリス」スレッドで、「Alec」と言う作品があることを知ったのでした。
この「Alec」と言う作品、なんでも小説「モーリス」をアレック・スカダー視点で再び描き直し、さらに二人が結ばれてから後の話も加えられている作品だという。
え~ちょっと興味ある~!!と思った私はさっそく読んでみたのでした。
2021年出版なので思った以上に最近の本。
作者はWilliam di Canzio。彼はアメリカの劇作家のようで、NY、LA、サンデイエゴなどの各都市や、イエール大などの大学等で彼の書いた舞台が上演されている。そしてスミス・カレッジというところで文学、作文、舞台研究などを教えたりもしているんだそう。
そして小説としての処女作が「Alec」のようです。
劇作家といえど著名な人気作家と言う程ではないようですし、これは…ファンによるBL二次創作小説ってことですよね~…と最初は思ったのです。80年代に「モーリス」がブームになった頃に同人誌が出てたり、既に日本のコミケで同じようなものが出回ってる可能性高そうだし、どれだけのものなの!?って最初はどちらかと言うと懐疑的。原作を台無しにしてたら嫌だなぁ…。本のカバーのアレックの絵もちょっと暗い表情してるし…。
しかしアレックの視点で描かれつつも、モーリスとの手紙の文面やセリフなどはちゃんと原作から引用していて、それに関してはフォースターが教鞭をとっていたキングスカレッジやケンブリッジの学長や教授達、そしてE・M・Foster Estate(フォースターの権利管理団体かな?)からの許可も取っていると書かれています。なので一応公式のお墨付きを与えられた作品であるといっていい気がします。←作者はもういないのでね。
で、読んでみると、これが想像以上によくできている。何より原作のフォースターへのリスペクトに溢れていると感じました。それに「モーリス」では殆ど描かれなかったアレックの心情が詳しく、時に繊細に描かれていて、あ~、こんなにもアレックはモーリスのことを想っていたんだぁ~と、読んでいてキュンキュンしてしまった🥰!映画ではモーリスの部屋を外の暗闇から見てるストーカーみたいなアレックがちょっと不気味でしたが(超不穏なBGMも流れてたし)、もう二人のことを応援したい気持ちになること間違いなし。クライブ?誰それ?推しカプはアレック&モーリス一択!読み終わった後にはおそらくそうなること必至です。
ということで、私的おススメポイントを独断と偏見で紹介していきたいと思います。
…といっても、まだ「モーリス」と重複する箇所は割とじっくり読みましたが、そこから先のパートはプロットを理解する程度にしか読み込んでいないので、勘違いもあるかもですが…。そこのところはどうかご容赦くださいm(__)m。
*もう一度、ここから先は前情報を知りたくない方はお控えください。
エモい
この作品、アレックの視点で描かれているわけです。彼はモーリスやクライブみたいに自分が同性愛者であることに罪悪感とかはほぼ持っていない設定になっています。
フォースターによる”著者によるはしがき”に、
”モーリスが到着するまえの彼の生活は、どのようなものだったのだろう。(略)アレックのそれは、呼び出そうとしても概説のようになって捨てざるをえなかった。アレックが何事にも反対しないのは確かだーーーそれしかわからない。”
という風に書かれていrます。
この”何事にも反対しない”の部分を、従順=自分のセクシュアリティを素直に認めた人物、自分の欲望にも素直に従う人物として、作者であるdi Canzio氏は解釈してアレックのキャラを発展させたのだと思います。
なので、モーリスやクライブのように自分との葛藤(自己の同性愛嫌悪を乗り越えるような)で悶々とするようなことにページが割かれることはあまりなく、もっとストレートに好きな対象であるモーリスへの想いで溢れている感じになっています。
悶々と一人で哲学的なことを考えているより、ストレートな感情を表したり、そこから行動に移したり、それを相手にぶつけたりする方が、必然的にエモーショナルな要素は高くなりますよね。
そしてそのエモさにも何種類かありまして、
➀表現が詩的でエモい
②ドラマチックさ増し増し
③少女漫画orBL?描写がエモい
一応➀②③で分けるつもりで書いたのですが、書いているうちにあやふやになってきたり、論点ズレたりしてますけど、まあなんか…察しながらお読みください。コイツ書きながら迷子になっとるな、と。(^^ゞ。
ということで、まずはコチラから。
➀表現が詩的でエモい
まず➀”表現が詩的でエモい”の、私が最も惚れた箇所を紹介させてください。ここは➀だけじゃなく②と③も含む場面でもあります。
「モーリス」でのほぼ終盤。モーリスがサウサンプトンの港にアレックを見送りに行くがアレックはやって来ない。ではその間、彼はいったい何をしていたのか?この作品はアレック視点だから勿論そこを語ってくれます。
何をしていたかは、アルゼンチン移住を諦めてモーリスと生きようと決心する…ということなのは、原作を読んだ方には明白。
では、その空白時間のアレックの一場面をざっと書いてみると、
ボートハウスの鍵を返すのを忘れたアレックは1人ペンジに戻り、ボートハウスで感傷に浸る。その時、ふと一匹のカワセミが枝に留まり、アレックと目が合う。そして体を突き抜けるセンセーションを感じたアレックはそのカワセミを追いかけ、服を脱ぎ、桟橋から池に飛び込む。初めて水の中で目を開けるとカワセミも一緒に潜っていた。一緒に水面に出ると、カワセミは巣へと飛んでいった。
原作と違って、この作品は数章毎にまとめてサブタイトルがついているのですが、この第二部のタイトルが”Kingfisherカワセミ”。第二部初めの出逢いからず~っとモーリスのことを見つめてきて、溜めに溜めたこのクライマックス直前の場面でやっとカワセミが出てきます。
アレックがカワセミを追って水に飛び込んだ。つまりアレック=カワセミになった瞬間。あの瞬間にアレックはエイヤ!と何かに飛び込む決心をしたという比喩表現なわけです。それはモーリスの愛に、不確かな未来に…ということでしょう。←比喩表現なので説明はありません。あくまで私の解釈です。
カワセミと目が合った=モーリスと初めて目が合った時の記憶が重なり、碧の羽のカワセミと緑の瞳のモーリスも重なり、自然とその鳥を追いかけた。
そしてカワセミを追いかけながら、その追いかけるという体の記憶は、モーリスを追って車を追いかけた記憶と重なる。「First love 初恋」で語られたプルースト効果です。あの追いかけた時の情熱、言葉に出来ない想いがとめどなく溢れた、それがこの一瞬の追体験を通して、アレックのなかで鮮やかに蘇った。いろんなことがこの飛び込む瞬間にギュッと詰められているんだと感じました。
そして一緒に飛び込んだカワセミを水の中で見とめ、一緒に水面に浮上する。ここもカワセミがモーリスの比喩だとすると、二人で困難が待ち受ける未来(=水の中)に飛び込み、一時は苦しいこともあるだろうけど、やがて一緒に飛翔する=自由な空が広がる未来が待ち受けることを暗示しているように捉えられなくもない。←あくまで私の解釈ですからね(^^ゞ。本文はアレックの行動を淡々と描写してるだけです。
最初読んだ時、ニブチンの私はなぜ池に飛び込んだのか全く響いていなかったのです。いちいち上記したような説明はありませんから。でも飛び込み=決心だという構図がわかった時点で二人の過去がザァ~と脳裏に流れて、アッ、これはムチャクチャ素晴らしい比喩表現だったのでは?と感心しまくったのでした。
そしてこのエモさまだ続きます。
池から出てモーリスに電報を送ったアレック。ボートハウスで待ちながら、夕方まで輝き揺れる水面を見つめ続ける。これでよかったのだろうか?…やはりまだ揺れる想いも残り逡巡する。
そして、乗るはずだった船が出る時間、ボートハウスから見る空は青からオレンジ色に染まっていく。それはまるでカワセミの羽の色のようだと思う。水面を照らし煌めく光は金色に輝く。先ほど見たカワセミの艶を帯びた羽の色も碧い背中にオレンジのお腹、そしてシルバーに輝く喉元。今、自分が決めた選択に完全にエイヤと飛び込んだことが確定した瞬間。もう後戻りはできない。それをもう一度カワセミ色の夕空が教えてくれた。もう迷いも不安もなくなったアレックは疲れのせいでまどろんでいく…。
私は映画でも詩的で美しい映像表現なんかは大好物なのですが、この部分の文章表現、それも色彩表現が本当に素晴らしいなと思いました。まさかカワセミの羽の色を夕方の空の色と重ねてくるなんて、素敵過ぎません?今までカワセミを見たことはありますが、空の色と結び付けたことなんて一ミリもなかった!😅 そして池に飛び込んだ前半部分がちゃんとここの布石になっているところもスゴイ。色んな意味で、いとをかし!
読んだ直後に、脳内で一気にこの美しい空のイメージがビジュアライズされていきました。夕日と、水面から反射する光がアレックの顔を照らしているところをカメラが横から撮る。下から上に動いて顔に近づいていくと、ツツ~っと一筋の涙が頬を伝ってもいいかもしれないw。そしてひとしきり横顔を写した後、パンッと切り替わって、ボートハウスの中からの構図に変わる。室内は薄暗くなり額縁に、外に開いている部分が絵画のようになる。係留したボートに乗るアレックはシルエットになり、背景には青空の部分は無くなり、一面燃えるようなオレンジに包まれた夕景。その絵画のような場面をカメラはズームアウトしていく…みたいな?←撮影イメージできてるからいつでも監督できそうw。
ひさびさに読書の醍醐味を実感したような気がしました。映像作品でキレイな空を見せられても、ワァ~キレイ!で終わることが多い。それは監督が調理したものを食べさせられている受動的なものだから。しかし読書だと、著者が提供した”言葉”という素材を、自分の経験と想像力で脳内でビジュアライズ=調理しないといけない。結構能動的な作業。その時に自分が今まで見てきた空の色を使って比較参照しているわけで、長く生きていれば生きているほどノスタルジックな感傷も付随してきたりする。だからエモさもグッと高くなるんだなと。
それとペースも。映像作品だと監督が設定したペースについて行かざるをえない。読書だと自分のペースでじっくり消化しながら進んでいける。飛び込む意味をじっくり考えたり、行間に潜む感情を読み解いたり、何度も読み返したり、遡ったり。
あと、この池、原作や映画では、アレックが何度もしつこくモーリス達が明日池で泳ぐのかを知りたがる。最初はスルーしてましたが、何度か読んでいるうちに、なぜにこれほど固執するのか…とちょっと引っ掛かっていました。
その理由を作者のdi Canzioはちゃんと埋めてくれていました。
モーリスのことは気になるけど、彼が男に興味あるかはまだよくわからない。そこで紳士たちが池で水遊びするドサクサに紛れて、自分も裸になって池に飛び込もうと思いつく。一応女子たちからもモテる容姿の良さを自覚しているアレック。自分の裸を見たモーリスの反応を見れば、彼がゲイかどうかがわかるのでは?と考えるわけです。なるほど~、だからあんなに池、池と言ってたんだ~と。下心ありあり(笑)。
結局モーリス達は池に入らない。このカワセミの時点でモーリスの反応はもう見る必要もないけど(寝た後だからね)、一応アレックが池に入りたがったあの想いだけは昇華させてあげる感じになってるのも面白いな~と。
②ドラマチックさ増し増しでエモい
ドラマチックさというか、ドラマっぽいイメージが浮かびやすい場面が多いなと思うことが多くありました。
「モーリス」が書かれたのは1910年代。まだ映画が漸く大衆に広がり始めたような時期(チャップリンの登場が1920年代)です。それから100年以上経って、人類は様々な映像表現を見てきたわけで、脳も映像の影響を大きく受けているように思います。だからいざ文章化するとなると、私が上述したボートハウスでの映像を文章化したみたいに、自分が過去に見た映画やドラマの手法を思い出して、それを使って脳内でビジュアライズし、そしてそれをまた文章にしていくという再構築を行っていることが多いのではないでしょうか?(とんでもなく新しい映像表現する人はまた違う脳の動きをするのでしょうけど)。
つまり何が言いたいかというと、フォースターは自分の作品が映像化されることなんか一切考えて執筆していないだろうけど、di Canzioは(映像化狙って書いてるわけではないだろうけど)映像化も容易にイメージできる形で書かれているということです。なんというかフォースターの場合は固定カメラで淡々と状況を撮っているだけだけど、di Canzioの場合は複数のカメラでいろんな角度のショットを切り替え、登場人物を追いかけたりしながら躍動感のある映像を撮っている感じ。
モーリスの視点とアレックの視点ということで違いはあるのですが、二作品の同じ場面を読み比べてみたいと思います。
モーリスがペンジにやって来て、初めてアレックと出逢う場面と、その滞在を終えて帰っていく場面。
まず「モーリス」のほう。
一方の「Alec」のほう。
”見る”ということに注目しても、モーリスは嫉妬を覚えたり、女中は醜いが男は美しいとか、しっかり観察してる割にその見つめ合ってる感はあまり伝わってこないですよね?
でもアレックの方はバチーッと目が合って、ほんの数秒が何分にも感じられるくらい二人が視線を外せないでいる感じが伝わってきます。
「Alec」でのこの場面は、ペンジでの生活を延々と描いた章の一番最後にやってくるので、まさに運命の人がキターッ!!みたいな、構成の面でも凄くドラマチックになっていました。だから私の脳内では目が合った瞬間ぐらいから「ラブ・ストーリーは突然に」のチャララン♪ってイントロが流れ始めて、映像はスローモーションになり、「あの日 あの時 あの場所で君に逢えなかったら~♪」がBGMで流れ、画面に少し紗がかかり、カメラは目が離せない二人を交互に映し、お互いの瞳に相手の顔が写ってる…そして最後はモーリスの乗った車を目で追ったまま動けないアレックのバックショットが映っているところで、「~見知らぬ二人の~ままッ♪」でBGMが終わり、画面下に”to be continued…”みたいな?w ←トレンディドラマ世代の方にはわかって貰えるかな😅
モーリスが滞在を切り上げて、ロンドンに帰る時の描写も比べてみます。
まずは「モーリス」のほう。
「Alec」のほう。
モーリスは嫌味を言った相手が追いかけてきたので、ここはちょっと気味悪がっていてドラマチックさが無いのは仕方ないのですが、それでも車に当たるノイバラの描写とか、キレイに咲けない花とまともな男(=ストレート)として生きれない自分を重ねて苛立ったりとか、映像的にも心理的にも割と丁寧に書かれている箇所ではあるのです。
一方のアレックの方は、彼の息遣いが聴こえてきそうなくらい木々が茂る森を駆け抜けている絵が浮かびます。そしてこの次の文章で、ノイバラの横を走ってきたので引っ搔いた傷から血が流れていた…とまで書かれています。霧雨の白く霞んだ画面、黒く沈んだ森の緑、そこに鮮やかな血の色が出てきて、一気に色彩的にハッとさせるインパクトを与えてくる。さらにそれによってこの別れが痛みを伴っているのだとスッと伝わってきて、まるで見ているこちらもズキズキする痛みを感じているような錯覚を覚えるわけです。
「モーリス」の方は車とアレックの距離感とかもよくわからないですが、「Alec」の方は少しずつ車とアレックの距離が近づいていく疾走感や、アレックの息遣い、体に当たって揺れる木々、躍動感が伝わってくる感じがします。
これまた映像でイメージすると(←シツコイw)、モーリスの車が動き出した辺りで「チャラララン♪」と「ラブ・ストーリーは突然に」が流れ始め、必死に森を抜け走るアレックの腕をノイバラのトゲが引っ掻き、そこから血がにじむショットがアップで映った後、最後にモーリスが乗った車を見送って立ち尽くすアレックのバックショットでズームアウト(←ズームアウトしておけばイイと思ってるw)で曲が終わる…っていう感じでしょうか?
一応聴きたくなった方の為に動画貼っておきますね。イントロ「チャララン」が入っている本人歌唱のものがこれぐらいしかなかったので、途中からミスチルが歌い始めるのはご勘弁。
他にも、アレックが大英博物館の前でモーリスと待ち合わせをする場面。
「俺をこんな扱いしやがって!!」と激オコ😠でやってきたアレックですが、いざタクシーから降りてくるモーリスを見た瞬間、「ハァ~なんてハンサム😍!!愛しき人、マイ・プレシャ~ス!」みたいにメロメロになっちゃうw。しかし「いや、いかんいかん」とすぐ我に戻る。しかしまた博物館を一緒に回りながら何度か目が合うたびに「素敵~😍」みたいになるんです。ホント笑っちゃう🤣。
これも往年のドラマで例えるなら、モーリスがタクシーから出てくるところで「SAY YES」のイントロが流れ出して、映像もスローモーションになってモーリスから後光が差す…けど我に返ってキュルルン(←DJがレコード止めた時みたいな音ね)とすぐ止まる。アレックが「素敵~😍」となる度にイントロ流れ~の、でも止まるの繰り返し。往年のドラマというより往年のコントと言うべきですねw。
「SAY YES」も貼っておきますね😉。
「君に逢いたくて逢えなくて寂しい夜 星の屋根に守られて 恋人の切なさ知った~♪」って歌詞なんて、ボートハウスでモーリスを待ち続けたアレックにピッタリ!!
もうひとつ、ホテルで一晩過ごした翌朝。一緒に生きようと説得するモーリスにそんなことは無理だとアレックは言う。最後には、出会ったのが間違いだったとまで言ってしまう。(一生記憶に残る恋であり、決してそんなことはないとわかっていて後ですぐ後悔するんですけどね)
そして、引きずられる想いがありながらも振り切るようにホテルの部屋を後にし、人ごみをかき分け駅に向かい、そこから実家のあるオスミントンに列車で向かう。
ここでの私の脳内BGMは、ユーミンの「リフレインが叫んでる」でしたw。
列車に乗るアレックは外の景色を眺めながら、その脳裏にはモーリスとの思い出のシーンが走馬灯のように流れる。その後ろで流れるユーミン、みたいな?
どうしてどうして僕たちは出逢ってしまったぁ~のだろぉ~♪こわれるほど抱きしめたぁ~♪
どうしてどうして私達、離れてしまぁ~ったのだろぉ~♪あんなに愛して~たのにぃ~♪
どうしてどうしてでき~るだけぇ~やさしくしなぁ~かあったのだろぉ~♪二度と会えなくなるならぁ~♪ ←アレックもあんな出逢いを否定するような傷つける言葉で別れなければよかったと後悔するんです。
なんだか話が逸れてきた感じですが😅、映画やドラマでよく見てきたエモいシーンが浮かぶことが、「モーリス」に比べて多いな~という印象を持った、というお話でした。
③少女漫画?BL漫画?でエモい
ここまで読んでもらっただけでも、いかにアレックがモーリスに対してラブラブで、そういう様子で溢れている作品であるか、少しは伝わったのではないでしょうか?
「モーリス」において、彼が隣人バリー医師の甥ディッキーを見た時に、”私の神、花とともに登場したかのよう”…と表現され、まるで少女漫画のような絵が浮かぶ場面がありましたが、「Alec」でもその辺はちゃんと踏襲されていました。
先述したアレックが車を追いかけた日の夕方、もう会えないと思っていたモーリスにイブニング・プリムローズ(待宵草)が咲く庭で思いがけなく再会する。前記事で”新しい恋の始まり”のメタファーだと考察したイブニング・プリムローズ。モーリスが初めて目を見てちゃんと会話をしてくれ、アレックは舞い上がる。
この後、何度かこのイブニング・プリムローズが咲く庭でモーリスと出逢うのですが、暗闇でぶつかって倒れそうになるモーリスを支える場面がある。その時の様子を拙訳してみますと、
美しい文芸的表現というか、BL小説風というか、少女漫画でキャラの後ろにイブニング・プリムローズが咲き乱れてる絵が浮かぶというか、好きな相手を”神”に見立てているところまで、この二人は似た者同士で笑っちゃいます。
原作ではアレックが寝込みを襲うまで、モーリスはそれ程アレックのことを意識したり崇めてるわけでもなかったですが、「Alec」のほうは二人が出会った瞬間からアレックは意識しまくりで、さらに同性愛への罪悪感もないから大して苦悩するでもなく、健気に近づこうと何度もする。真っすぐにモーリスを想い続ける少女漫画の主人公みたいでキュンキュンすることが多いんですね。特にこの二人が結ばれるまでの期間の箇所で。そこを是非堪能して頂きたいなと。
そしてキュンキュンするというより、ムラムラ?エロ度も「モーリス」に比べると随分高くなっておりますw。これは少女漫画というより完全に濡れ場を描いてるBL風。「モーリス」ではSEXの最中の表現は全く出てきませんでしたが(2度あるSEXシーンも、両方朝チュン状態。フォースターは「モーリス」を執筆時点では性体験がなかったと言われているので、その辺りが作品に反映されているんでしょうか?)、「Alec」では恋人同士のセンシュアルなSEXが描かれておりますのでお楽しみに!!😆とはいっても全然フワッとしてるほうですけどね。
例えばこれは相手が違う人となんだけど…(エッ?誰やねん?って話ですが、そこは読んでもらえたら😅)
こんな感じ。素股!!😳 ネッ、エロ度マシマシでしょ?(ノ▽\*) イヤン
ということでエモいと思う部分を紹介してきました。こんなことを言いつつ、おまえが妄想力逞しく思い込んでるだけじゃないの?と思わなくもないので(;^_^A、是非ご自身でお確かめ頂ければと。
現実をオーバーラップ
前章はエモくて心が動かされたところを紹介しましたが、次はこの作品で一番驚いたところ、気付いた時にオオッ!!と驚嘆の声が漏れた部分です。
それが何かというと、「現実の世界を取り込んでいる」ということなんです。
この小説では新たな登場人物、そして「モーリス」で出てきた人物も再登場します。ここでアレックに関わってくる重要人物をいくつか紹介しておきますね。
まずOctavian Risley。そう「モーリス」で出てきたリズリーです。
そしてMrs.Wentworth。ウェントワース夫人。後に再婚してThe Baronne du Thoronetトロネ男爵夫人。
アレックは学校を卒業した後、クライブのペンジで働く前に別のところで働きます。そこは大富豪のウェントワース夫妻が所有するマイケルマウントという領地。そしてこのウェントワース夫人にはクィアの友人が多くいて、ある時リズリーも客人としてやってくるのです。そこでアレックとひと悶着あります。
そしてもう一人、アレックはペンジ時代に、ボランティアによる労働者向けに開かれる出張講座(The Working Men’s College)を受けることにします。その時に知り合った講師であるモーガンと言う人物と親しくなります。モーガンもゲイだと薄々勘づくのですが、性的に惹かれないのでそういう関係にはならない。しかしお互い人間として好意を持ち合い、心の師であり心の友のような存在になる。
モーガンはケンブリッジ出身の30代半ばほどの人物。彼も上流階級出身。後にモーリスとも面識があったことが判明します。
そして時は流れて、アレックがモーリスと結ばれた後、モーガンに誘われて行ったコンサートでウェントワース夫人とリズリーに再会します。彼らはモーガンとも顔見知り。結局いろいろあって、そこからこの3人はアレックとモーリスを応援するアライ(支援者)になっていくんですね。
で、ず~っと話を読んでいくと、このモーガンが第一次世界大戦の間に何をしていたかということが最後のほうで語られます。
(「モーリス」が書かれたのが1913~1914年。そしてこの物語世界の年代も、最後に二人が結ばれた年が1913年。よって続編でこの世界の続きを書くとなると、翌年勃発する第一次世界大戦を書かないわけにはいかないのです)
その話を読んでいた時に、あれ?この話、どこかで読んだことある…と既視感があって、そこで漸く、アアッ!!😲と気が付いたのです。
それは、ほぼ原作者のE.M.フォースターの当時の足取りと同じだったということ。
原作「モーリス」の単行本の巻末にある解説にも、フォースターの経歴等を紹介していますが、1915~1919年にエジプトのアレクサンドリアに、赤十字の事務局員として勤務したと書かれています。フォースターはそこでギリシャの詩人にあって影響を受け、さらに階級や国籍の違う様々な人と接することで、イギリス上流階級の堅苦しい規範、呪縛から解放され、漸く同性愛を受け入れ、欲望を否定せずに性体験を経験し、さらには短い間ながら恋人を持つことができるようになります。
これと同じことがモーガンの口から語られるのです。
で、よくよく調べてみると、E.M.フォースターはエドワード・モーガン・フォースター。そう彼がモーガンそのものだったというわけでした。
つまり「Alec」の著者のdi Canzioは、1913年に実際に生きていたフォースターを作品世界に召喚し、アレックのメンターであり、アライであり、いつも優しく見守る人物として蘇らせたというわけです。
これを知った時になんだかちょっと感動しちゃいました😭。
アレックとモーリスを創造したフォースターが、自らの作品世界の続編にあたる世界線で、彼らを見守り、一緒に生き、さらには作品として永遠に彼らとともに生きられるようにして貰った。これほどの原作者オマージュってあるでしょうか?
文庫本巻末の松本氏の解説に、フォースターはワーキング・メンズ・カレッジ(勤労者を対象にしたカレッジ)やケンブリッジでラテン語やイタリアの芸術や歴史について教える機会をもちつつ、小説の執筆に勤しんだとある。そう、「Alec」のモーガンもその労働者に向けた講座でアレックに教えていたし、彼が教えていたのはイタリア都市国家についてで、各都市で花開いた芸術、ダヴィンチやボッティチェリ(どちらもゲイw)について教えていたんです。ピッタリ符合してました。
そして”著者によるはしがき”によると、リズリーはフォースターの友人であるLytton Stracheyリットン・ストレイチーがモデルであると書かれています。
批評家、伝記作家だった彼は、「モーリス」を読んだ時に「二人の関係は好奇心と肉欲に支えられているので、せいぜい六週間しかもたないだろう」と手紙に書いてきたと、そのはしがきには書かれています。
このエピソードが「Alec」を読み直していると挿入されていることにも気付きました。
学友だったモーリスがアレックと付き合っていることを知ったリズリーは、これまた知人であるモーガンに嫉妬で文句タラタラになります。
「あの二人みたいな男同士が出会うなんてありえないわーーー不公平よ。いや、気にしちゃだめよ。…でも、あのお互い視線を送り合ってる様子!(キーッ!!)許せないわ。悲惨な状況の人間への侮辱よ!でもマジで、使用人とヤルなんて…」←ちょっとオネエ言葉でホゲ訳してみましたw。*ホゲる:オネエ言葉や女っぽい仕草になること。
”リズリーは目を細めてキーキー言いながら「私の言葉を覚えておいてちょうだいね。あの二人、続いても6週間がいいところだわ!」”
モーガンはフォースターなわけで、ストレイチーの分身であるリズリーがモーガンに同じことを言ってるという、なかなか面白いことになっている。原作者フォースターのことを知っていれば知っているほど、ニヤニヤしながら読めるようになっている。
BLOOMSBURY CIRCLE
フォースターとストレイチーはケンブリッジ時代からの友人でした。
海野弘氏著「ホモセクシャルの世界史」を見ると、彼らは当時イギリスにあったThe Bloomsbury Group ブルームズベリー・グループという作家、知識人、芸術家などによる芸術サークルのようなものに所属していたことが書かれています。
同時代の作家であるヴァージニア・ウルフは四兄弟で(兄、姉、弟)、彼女の兄トビーや、夫であるレナード・ウルフ、義兄のクライブ・ベルなどが、フォースターやストレイチーとケンブリッジで「使徒会」というグループに所属していて仲が良かった。それで、この四兄弟の家があったロンドンのブルームズベリー地区を中心にこれらの知識人が集まり、議論をしたり、影響し合ったり、同性愛やオープン・リーレーション的な恋愛もしていたわけです。
そう、このグループ、かなりヒッピー的というか、ゲイは勿論レズやバイ、性別に囚われないクィアな人々の集まりだったんですね。フォースターはゲイだし、ストレイチーもゲイ。ヴァージニア・ウルフは結婚しているけど姉ヴァネッサや別の画家にレズ的愛情を持っていた。それにフリーセックスかどうかわからないけど既存の婚姻関係なんかには囚われないゲイやバイを含んだ三角関係で生活したり、「ホモセクシャルの世界史」を読んでいるとその関係が複雑に入り混じっていて頭がこんがらがってくるほど。(フォースターは奥手なのでこのグループの人達とは関係持ってません)
ヴァージニア・ウルフがレズだったのは、ニコールキッドマンがオスカーを獲った映画「The Hours めぐりあう時間たち」の中でも出てきました。姉のヴァネッサにキスしたりしてましたね。
なんでも、ウルフと姉ヴァネッサの関係について読んでいると、異母兄だかに二人とも性的虐待を受けていたらしい。それでお互いを守り慰め合うことから強い絆が結ばれ、そういう関係に発展したみたいなことが書かれていました。結局その性虐待のトラウマがずっと付き纏ったのか?ウルフは自殺してしまうという結末。
自分の理解を整理するために、「ホモセクシャルの世界史」を読みながらブルームズベリー・グループ主要人物の関係図を作ってみました。
ヴァージニアの義兄クライブ・ベルは義妹のヴァージニアにも興味あったり、ヴァージニアは姉の気を引くために義兄のクライブに接近したり、かなり愛想入り乱れてそうな関係。さらにはヴァージニアの夫のレナードも最初は姉のヴァネッサが好きだったけどクライブに先を越されたので妹ヴァージニアに乗り換えたとか…この四角関係も複雑😅。
このブルームズベリー・グループという知識人サークルとしては、ヴァージニアの兄弟たちが中心なのですが、ことゲイになるとストレイチーが中心だったようです。ケンブリッジの使徒会の中でもゲイグループとストレートグループがいて、権力を持っていたのはストレイチー率いるゲイグループだったとか。
そしてストレイチ―は、気の迷いからヴァージニアに求婚したりもするし(同情して承諾したが結局解消したんだとか)、自分のことを好きになった女性キャリントンと暮らしたりもするけど、一貫してゲイを貫いている。
面白いのはストレイチーがゲイであると知ってる、ゲイだからこそ好きなおコゲ?腐女子?のキャリントン、そのキャリントンのことを好きな男パートリッジが現れ、ストレイチーはその男パートリッジをかわいがりと、見事な一方通行の三角関係で暮らしていたんだそう。キャリントンとパートリッジがキャリントンの浮気で仲が悪くなると、ストレイチーが仲を取り持ったりもしたとか。二人が別れたらパートリッジも出ていっちゃうもんねw。
一方ストレイチーの従兄弟で、彼が恋したけど逃げられた画家であるダンカン・グラントは、男とも付き合うし、ヴァージニアの姉ヴァネッサ(彼女も画家)の間に子供も作る。でも晩年は男の恋人に見守られて亡くなる。ゲイ寄りのバイ。
一方ストレイチーのライバルで、彼が好きになった男を横取りばかりしていた男、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは若い頃はダンカンと付き合ったりしていたバリバリのゲイだったが、ある時から完全にストレートに転向。バレエダンサーと結婚もする。まるで「モーリス」のクライブみたいな人物。
イメージしやすいように4人の顔を並べてみました。同時代に撮られた写真ではないですが。
この複雑な人間模様をストレイチー、もしくはダンカン・グラントを主人公にして映画かドラマで観てみたいと思ってしまった。アメリカのドラマとか、よく仲間内でとっかえひっかえ引っ付いたりするじゃないですか?ビバリーヒルズ高校白書とか(古っ!笑)。あれのクィア版みたいに、性別関係なく引っ付きまくるの、絶対面白くなりそう。
それに当時の有名人がこのブルームズベリー・グループに関わってくるから歴史的にも面白い。「そこにエベレストがあるから」と言ったことで有名な登山家のジョージ・マロニーもこのメンバーで、グラントと付き合っていたと書かれていたし、先月「100分de名著」で特集していた、源氏物語を英訳して世界に広めたアーサー・ウェイリーもこのグループのメンバーだったそうです。
ウェイリーもケンブリッジのキングスカレッジ出身。セクシュアリティはどうなんだろう?女性のバレエダンサーと結婚はしなかったけど長い関係にあったと書かれているし、死の直前には別の女性と結婚したと書かれている(←これは遺産を渡す為っぽいかな?)。
う~ん、ちょっとゲイっぽいバイブは感じますけどねぇ…。
で、ブルームズベリーという場所、小説「Alec」の中でも登場します。
モーリスとアレックがとりあえずロンドンで暮らし始める場所がブルームズベリーなんです。
まずロンドンの、赤線で囲んだこの辺りがブルームズベリー地区です。
拡大地図。
この右中央の青線の辺りにあるバーナード・ストリートというところに二人は部屋を借ります。二人がロンドンで愛を確認し合った大英博物館、そしてその後一緒に泊まったホテルに近い思い出の場所だということで。
地図のゴードン・スクエア辺りにヴァージニアの姉ヴァネッサ夫婦、そしてフィッツロイ・スクエア周辺にヴァージニアと弟のエイドリアンが住んでいました。この辺りがブルームズベリー・グループの中心地。
そしてもうひとつ、ベッドフォード・スクウェアも赤で囲っていますが、この辺りにオットリン・モレル夫人の芸術サロンがあったらしい。
オットリン・モレル夫人はポーランド公爵の妹で芸術に憧れ、自由な女性だったそう。彼女はブルームズベリー・グループのパトロン的存在で、彼女のサロンにグループのメンバーもよく出入りしていたのだそう。ストレイチーやフォースターも。(ただ知的な議論を交わせる知識人ではないのでグループには入れて貰えず、あくまでもパトロン、支援者的立場。だからブルームズベリー・サークルという題にしました)
私はこのモレル夫人が、「Alec」におけるウェントワース夫人(トロネ男爵夫人)のモデルだと思うわけです。そうとしか考えられない。
TED&GEORGE
作中、アライであるモーガンによってモーリスとアレックは森に住む先輩ゲイ・カップルを紹介される。二人はそこを訪れて、森での生活、木こりの練習みたいなことを教えて貰って過ごしたりします。←なぜそんなことをするかは私の前記事内に書いてますので見てください。
その先輩カップルがTedテッドとGeorgeジョージという人物。彼らはイギリス中央部にあるMillthorpeミルソープという場所に住んでいます。
この二人もフォースターに影響を与えた人物がモデルとなっています。
フォースターはミルソープに住むEdward Carpenterエドワード・カーペンターとその恋人であるGeorge Merrillジョージ・メリルをしばしば訪れていました。カーペンターの思想に影響を受けて、彼をメンターのように慕っていた。そこで労働者階級でスラム出身、粗野で逞しいジョージに腰のあたりを触られたことで衝撃を受ける。その感触が昔抜けた歯の位置を憶えているかのように記憶に刻まれた。そのビビビっと来た心理的な衝撃が「モーリス」を書くインスピレーションになったのだとか。
EDエドがTEDテッドに、ジョージはそのまま。
「モーリス」の序盤、第二章で子供のモーリスは使用人の庭番ジョージはどこ?としきりに母親に訊く場面がありました。少年モーリスお気に入りのいつも一緒に遊んでくれるお兄さん。多分このジョージはジョージ・メリルをモデルにしていた可能性もありそうです。
このエドワード・カーペンターという人は、当時のイギリスにおいてかなり進歩的な人物だったようで、理想社会主義者、詩人、哲学者、LGBTQ活動家、ベジタリアン、そして性の解放などを提唱していた人物。まさにリベラルの大物論客っていう感じでしょうか?アメリカの詩人でゲイだったとも言われるウォルト・ウィットマンとも交流があったそうで、彼の作品をイギリスで紹介したりもしていた。ウィットマンはゲイに関することで本当によく出てきますね。それだけ影響を与えた重要人物。
カーペンターとメリルは20歳差ほどもある歳の差カップル。「Alec」に出てくるテッドとジョージも、もうすぐ70歳になるテッドと48歳のジョージという設定。二人とも見かけより若々しいと。カーペンターは1866年生まれで「Alec」の舞台である1913年にはちょうど69歳。年齢も史実通り。
実際のカーペンター&メリルの写真はこんな感じ。
テッドは裕福な家庭出身の元牧師という設定。しかし自分がゲイだから嘘を説くことはできないと牧師を辞める。カーペンターも同様のバックグラウンドを持っている。
面白いのは、テッドとジョージは裸族で、周りに人がいない時はできるだけ裸で過ごしているという設定なんですw。それが健康にいいからと。それを豪放磊落、サバサバ系のジョージがモーリスとアレックにも勧め、二人の腰に手を回してきて三人ハグをしてきたりする(股間当たりまくりじゃんw)。この辺りがメリルがフォースターの腰を触ったエピソードを基にして創作されたのかな?と思いました。フォースターもミルソープを訪れた時は裸だったのかなぁ?それなら腰に触られただけでもドキドキするのは理解できます。
このカーペンターとジョージの階級差カップルはモーリスとアレックの階級差カップルのモデルでもあり、D.H.ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」のモデルにもなっているのだそう(貴族の夫人と庭師の恋)。先述した「ホモセクシャルの世界史」ではロレンスも同性愛者だった可能性が記述されている。
カーペンターもインドに行っている。フォースターがインドを訪れたのも彼から影響を受けたせいかもしれない。そしてカーペンターはインドの知り合いに皮で作るサンダルを教えて貰い、それをミルソープでも作っていたというエピソードがある。「Alec」でもジョージが作ったサンダルをモーリス達が履くというくだりがあり、なんでわざわざサンダル情報入れるんだろう?と思っていたので、あ~このエピソードを入れた訳ね。と納得でした。
***
こうやってフォースター周りの人間関係を深掘りしていくと、フォースターを「モーリス」の世界線に蘇らせたというよりも、モーリスとアレックを”フォースターの世界線”に登場させた…と言った方が正しいかもしれませんね。それほど現実世界と創造世界を絶妙にオーバーラップさせて書かれているのが「Alec」という続編なのです。
史実にある事件と事実
登場人物たちが実際にフォースターと関りのあった人達をモデルとしているのとともに、作品の中に歴史的事実、歴史的事件も盛り込んでいることもわかってきました。
第一次世界大戦が絡んでくることは前述しましたが、その布石として、興味深い事件を挿入していることに気が付いたのです。
➀連隊長レドル
モーリスがペンジを去り、アレックが脅迫めいた手紙を送ってしまった頃、使用人用キッチンで新聞を読んでいる執事のシムコックスを中心にして、皆が会話しているというシーンが「Alec」に出てきます。
そのなかで二つの事件が話題になります。
ひとつは、ホテルのベルボーイが客との同性愛情事を餌に強請をして捕まったという事件。これを聞いて自分も同じようなことをしてしまっているアレックはドキドキする。
もう一つはオーストリアの軍人がゲイバレしたために拳銃自殺をしたという事件。私はこれだけ現実世界を参考にしているのなら、もしかしてこの事件も実際にあった事件なのでは?と思いググってみると出てきました。「連隊長レドル」の事件というものが。
「モーリス」の舞台である1913年に本当にあった事件で、1985年には映画にもなっていました。
プロットをざっと読んでみたところによると、
貧しい家庭出身のレドルは士官学校で貴族出身のクリストフと友人になる。そして段々彼に惹かれていることに気付くレドル。二人の関係がどこまでになるのかは映画を観てないのでわかりませんが(おそらくプラトニック)、彼の実家を訪れたり、妹と結婚することを考えたりもする。しかし、真面目なレドルは熱血軍人になり、クリストフとの間にも壁が出来始めて孤立し始める。そんな中オーストリア皇太子の謀略に巻き込まれ、罪を被ることになってしまう。その転落の先でイタリア男のハニートラップに引っ掛かり、まんまと乗ってしまったレドルは同性愛の罪で拳銃を渡され自殺するように迫られる…という話だそうです。
映画では雪の降る中で自殺してますが、実際は五月のようです。「Alec」で新聞に載るのはアレックが移住する数日前の八月なので少し時間は経ってますが、当時ならそこそこタイムリーな事件だったと思われます。
ここでも庶民のレドルから貴族のクリストフへの愛が出てきて、アレックからモーリスへの階級違いの愛と重なっている。
この事件、原作「モーリス」では一切出てきませんが、この後アレックがモーリスと大英博物館で向き合った時に、モーリスがこんなことを言います。
「お前を恐喝罪で訴えて刑務所にぶち込んだ後、自分の頭を拳銃で吹き飛ばしていただろう。そしてその時にお前を愛していたと気付くんだろうな」と。
小説「モーリス」をフォースターは1913~1914年に書いている訳で、当時彼も新聞を読んでいたらこの事件のことを知っていたはず。それも同性愛に関する事件なら尚更。だからモーリスのこのセリフにはこの事件からのインスピレーションがあったのではないかと推測できるわけです。
そしてその歴史的事件を「Alec」の著者であるdi Canzioは自分の著書に反映させてきたわけです。おそらくフォースターはこの事件からインスピレーション受けたのでは?と遠回しに指摘してきている。
これって、この小説が書かれた歴史的背景をしっかり調査したからこそできる技であり、そこまでしているところに真の「モーリス」愛を感じます。
そして当たり前と言えば当たり前なのですが、このレドルを陥れた人物がオーストリアの皇太子であるならば、彼の暗殺が原因で勃発するのが第一次世界大戦です。この「Alec」の主人公たちも、この後、翌年から始まる世界大戦に巻き込まれて行くことは避けられないわけで、この事件を通してうっすらと当時の世界情勢と、二人の未来に関わってくる暗い影を物語に前もって潜ませているという、掘り下げてみて初めて分かる奥深さに感心しました。だってそんなに都合よくゲイと第一次世界大戦が結びつく事件が起こるなんて…ねぇ。
そしてこの事件を前もって聞いていたからこそ、モーリスが拳銃自殺を口走った時にアレックは動揺しまくるという布石にもちゃんとなっている。
最初のホテルのベルボーイの事件の方も本当にあった事件なのかもしれませんね。🤔
②The Cave of the Golden Calf
これは事件というより当時実際にあったある場所について。
アレック達がモーガンやトロネ男爵夫人、リズリーたちとある場所を訪れる。
それがThe Cave of the Golden Calfという名のアングラナイトクラブ。
”金の仔牛”と言うのは聖書に出てくる。モーゼがシナイ山に登って十戒を授けて貰っている間、いつまでたっても帰って来ないので、麓で待っていたユダヤ人たちは自分たちの金を集めて金の仔牛像を作って崇めていた。それを知ったモーゼは偶像崇拝した者たち3000人を殺させたという話。
(偶像崇拝を禁止してる宗教は多いけど、確かに神=不変の心理以外のものを崇拝すると、結局その裏にある人間の欲望によって堕落していくのはなんとなくわかる気がする。アイドル文化とか度の過ぎた推し活とか、保守vsリベラルの闘いとか時々地獄絵図みたいになってますもんね(-_-;))
凄く深い意味があるのかもしれませんが、とりあえずは金の仔牛=”堕落の象徴”なんだろうと思います。よってThe Cave of the Golden Calfは、金の仔牛の洞窟=堕落、背徳の巣窟、といった意味合いを持たせたナイトクラブだったという感じでしょうか。
このThe Cave of the Golden Calf、調べてみると、当時のロンドンに実在したクラブでした。それもたった2年間ほどしか営業してなかった。よくそんなレアなクラブ、それもちょうど「モーリス」&「Alec」の作品世界である1914年に存在していたことを調べ上げて登場させたなぁ…と感心したのでした。
このクラブ、「Alec」の中でも描写されますが、繊維工場の地下にあって、会員制。作家や画家、文化人、社交界の人々、異邦人など、そしてクィアの人々が主な顧客。アレックだけなら入れないけど、モーガン、リズリー、男爵夫人が常連なので、彼らに連れて行かれる風に描かれる。
ステージではダンスや詩の朗読などが繰り広げられたりしている。
私が勝手にイメージした感じは、当時だとムーランルージュのような退廃的デカダンスな大人の遊び場、そこにクィアな要素が加わると、70年代NYのスタジオ54の先駆けっぽい感じ?日本でいえば新宿二丁目でドラァグクイーンショーが繰り広げられるクラブのようなイメージですかね?
"a place given up to gaiety"というマニフェスト、信条みたいなものが掲げられていたそう。”gaiety”というのは”gay”の本来の意味である”陽気な、楽しい”と同じような意味らしい。gay feeling、 gay spiritsとも書かれている。ということは「この場所は陽気なこと、陽気な人々に捧げる」と言いつつ、「この場所をゲイの人々に捧げる」というダブルミーニングだということだったんでしょう。ここの開業の10年以上前に亡くなっているオスカー・ワイルドの信奉者たちが集り、この場所に彼のデカダンスは生き残っていたとも。
気になるのはa phallic Golden Calfが店のシンボルとして飾られていたみたいな記述。
男根型の金の仔牛?金の仔牛の男根じゃなくて?ヘビとかイルカとか、せめてダチョウの首とか(それはコント衣装w)とかならわかるけど、牛が男根型って…想像できないから見てみたいw。
面白いのは、アレックは刺激的な場所をそれなりに楽しんでいる一方、モーリスはあんまりこういう雰囲気を好んでいないと描かれる。しかし楽しんでいる恋人を見て彼が幸せなら自分も幸せ的に納得する。この辺も上手いな~と思いました。なぜなら、モーリス自身こういう背徳的で淫靡な世界に惹かれる人物なら、グダグダ悩まないでサッサと惹き付けられてリズリーみたいにゲイナイトライフをとっくに楽しんでいてもおかしくなかったわけです。そういうのは堕落だと思っていたし、オスカー・ワイルド?おぞましい!とシャットダウンして距離を取っていた過去があるから、そう簡単にこういう世界には馴染めないという風にしているんだなぁ~ということ。今で言ったら二丁目に入り浸ってゲイ仲間とお酒飲んだり、相手見つかったらやりまくりのゲイライフを楽しんでいる享楽至上主義ゲイと、超健康志向で夜遊びなんかあまりしない、都会の喧騒から離れて、自然の中で愛する人と一緒にいるだけで幸せという意識高い系自然派ゲイ(←そんな括りあるのかシランケド😅)で、モーリスは後者って感じでしょうかね?とにかくなかなか保守的な考えからは抜け出せないキャラ造形になっていました。
「Alec」の中では、このThe Cave of the Golden Calfの女主人がテーブルを回って来てアレック達のいるテーブルにもやってくる。
この女性、Frida Uhl フリーダ・ウール 、作中ではMrs. Strindbergストリンドベリ夫人として登場する。Strindbergというのはスウェーデンの劇作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリで、彼女は元妻。その後ドイツの著名な劇作家フランク・ヴェーデキント(「パンドラの箱」の著者)との間に娘をもうけてもいる。当時の色んな文化人を結び付ける人物でもあった感じでしょうか?ドイツで最初のキャバレーを始めたとも書かれている(彼女はオーストリア人)。映画「キャバレー」の舞台はナチス台頭の1930年頃らしいので、それよりはもう少し前。そういうキャバレー文化の草創期。当時のロンドンではかなりヒップでイケてる最先端な場所だったのでしょう。
しかしかなりヤバイ人物でもあったようで、Werner von Oesterenという作家を二度銃で脅したとか、オーストリアの貴族(プリンスと書いているけど諸侯の王子?サラエボで暗殺されたハプスブルグ家皇太子とは別)との間に不倫関係にあったのかな?新年のパーティーで彼に向かって発砲する大スキャンダルを起こす。遺書を何通も書いていたので自殺、心中、その辺りは謎らしい。それでロンドンに逃げてきて、このナイトクラブを営んでいた…という状況だったそう。
連隊長レドル同様、この人もオーストリア人で、脅迫や拳銃自殺に関連していて、この時代、そんなのばっかりだったの?と思ってしまいます😅。
このアレック達が訪れた日が、サラエボで皇太子が暗殺された日という設定。それでこれだけ銃を使った騒動を起こしていた人物であるストリンドベリ夫人がそれを話題にして、「暴力は酷いことだし奥さんは可哀想だけど、あの皇太子はハウンド(=猟犬=嫌な奴という意味もある)だったからねぇ…(仕方ない)」的なこと言わせてる(苦笑)。王子を殺しそこなった人物にそれを言わすなんてね。なかなかのブラックジョーク!😜
The Cave of the Golden Calfは2年で倒産。フリーダ・ウールは、おそらく大戦がはじまったので、アメリカに移住する。そして映画会社のFOX Filmでの職に就く。なかなかに波乱万丈な人生。
あと、この店でEzra Poundエズラ・パウンドという人物が詩の朗読をしている描写がある。この人物も実在の人物でアメリカ人の詩人。フリーダ・ウールの洞察力を賞賛していたらしい。日本の「能」についての研究もしていた(アーサー・ウェイリーも同時代だし、ちょっとした日本ブームがあったのかな?)。ちょうどこの時期ぐらいにイギリスに滞在していて、ノーベル文学賞も受賞している詩人イェイツを師事し、共同生活をしていたりする。パウンドもイェイツもゲイではないようですが、イェイツはオスカー・ワイルドと交流があったり、アイルランド人ということで虐げられる側の視点から、女性やゲイの声を代弁していると、マイノリティの支援者的なことがググったら出てきましたけど…よくわかりません。名前と詩人と言うことぐらいしか知らないもんで(^^ゞ。
***
ということで「Alec」は、こういう歴史的事実、そして当時のゲイの風俗などの描写から、ある種のゲイ・クロニクル(年代記)にもなっていて、この時代のゲイ事情を殆ど知らなかった私にとってはかなり興味深い世界、そしてそれが現代に繋がっているんだというのがわかって面白いです。
追加の考察など雑談的なもの
「Alec」を読むながら、「モーリス」に出てきた場面で、ここはこういう意味があるのかな?と思い至ったところをいくつか、自分への覚書き的に書いておきます。特別「Alec」とは関係ないのもありますが…。
「君の名前で僕を呼んで」の原点!?
大英博物館で少年時代の恩師デューシー先生に再会し、モーリスは自分のことを「スカダーです」と偽わって名乗る場面があります。
これって、もしかして「君の名前で僕を呼んで」のインスピレーションはここから来ているのでは?とふと思いました。
自分の名前を好きな相手の名前で呼ぶ。自分はその人物のもの。その人物と同化している。そういう気持ちの表れでモーリスは言ったのではないか?と。表面上は二人が対決してる場面ですが、一度は体を重ねていて、無意識的に「I belong to you.」的な感覚があったのではないかと。
「君の名前で僕を呼んで」著者のアンドレ・アシマンが、どこでインスピレーションを受けたのか書かれている記事がないかと探しましたけど、ちょっとわかりませんでした。検討違いの可能性も高いですが、似たような発想があることが興味深いです。
そう言えば、アシマンが「君の名前で僕を呼んで」の続編「Find Me」も上梓していたはず。こちらも読んでみたいと思いつつ、読めてないなぁ…。
大英博物館という場所にも意味があるんだろうなと思っていましたが、今までピンと来なかった。ここにきてようやくわかって来た気がします。
デューシー先生が言ったように、そこは刺激的な場所。よって緊迫する二人の状況に刺激を与えて変化させるという意味合いがあった。
もう一つは遺物ばかりが展示されている場所。クライブが訪れたギリシャ遺跡と同じで「(同性)愛の終わり」を意味してるのと一緒じゃないのかと当初は考えたのですが筋が通らない。しかし、これらの遺物はその廃墟になる所から救い出された物たち。モーリスとアレックの愛も失われそうになるところを救い出された…ということで、大英博物館という場所を二人の愛が危機を乗り越える舞台として選ばれたのかな?と思いました。
博物館内でアレックが驚くアッシリアの石像も意味ありそう…五本足の人面獣でしたっけ?足に見えてそれはペ〇スで、それが対で二つ並んでるというのはゲイカップルを表してるってことなんじゃないか?と思ったのですがどうでしょう?😆←画像ググってみたら前脚が三本でした(/ω\)。ハイ、ペ〇ス説は没~!!でも顔が髭面なので男性ではある。だからやはりゲイカップルを、永遠に並んでいる二人を象徴したかったとかでしょうか?
なぜ私が「モーリス」のシンボリズムやメタファーにこだわるかと言うと、wikiに”Forster is noted for his use of symbolism as a technique in his novels”(フォースターは小説の中にテクニックとしてシンボリズムを使用することで知られている)と書かれていたからです。
モーリスの父と兵役問題
「Alec」において意外な人物に脚光が当たります。それはモーリスの父親。
モーリスの父親なんて、「モーリス」でもすでに亡き人であり、家族の話題にも殆ど上ることがなかった。私もエッ?なんでいきなり?と不思議に感じていたのです。
で、「Alec」を読んだ後に「モーリス」を再び読み返しているとき、以下のような記述があるのに気が付きました。
父親の幽霊が職場のデスクに坐って、モーリスを羨望の想いで見つめているという描写です。私は単にそういうイメージを使って、モーリスが肉欲と闘っている様を表現しているに過ぎないと思いこみ、読み流していました。
そして加賀山版では「許されない愛から許される愛」、片岡版では「不義の愛と合法の愛」と訳された部分は、モーリスの父親はモーリスのように肉欲に抗って苦しむことなど放棄し、過去に”女性と”不倫でもしていたんだろうな…と勝手に想像していました。
原文はこうなっています。
”he had supported society and moved without a crisis from illicit to licit love.”
illicitは「違法な」という意味です。Illegalイリーガルと同じですがもう少し社会常識、社会通念に反する的な意味合いなんだそう。だから不義の愛、不倫という感じでも正しい。
でもここでボーっと読み流していて気付いてなかった部分。from illicit to licit love. つまり違法な愛から合法の愛。ウン?不倫の愛から結婚しての合法な愛ってこと?順序が逆じゃない?結婚してからじゃないと不倫とはいえないんじゃないの?モーリスの父と母が不倫関係から始まって、略奪婚したという記述はなかったはず。
そしてイギリスの姦通罪の歴史もザッと調べましたが、当時は妻が夫の所有物という認識で、妻が姦通することは夫の所有物が奪われる行為だから罰せられるし、夫が姦通した妻と離婚することはできるけど、妻からは夫に同様のことはできない不公平なものだったらしい。
”The Matrimonial Causes Act of 1923 removed the double standard in divorce laws, allowing a wife to divorce her husband for adultery alone”
と書かれていたので、1923年に漸く妻も浮気夫に離婚を突き付けられるようになったと。ということは夫の浮気を違法という表現も少し疑問に残る。
ということは?結婚前にしている違法な愛とは?…となりますよね。
「Alec」の著者di Canzioはその辺りをうまく拾い上げている。よくまあこんな限られた描写からそういう方向に話を持っていったなと。細かいところまでよく読み込んでいるし、その父親が結婚前にしていた非合法の愛とは何ぞや?というところまで考察している。
この” illicit love”が何かを知りたい方(もう答え言ってるも同じだけど😅)は、是非「Alec」を読んでみてくださいね~!!
あとついでに兵役問題も。
第一次世界大戦において、ブルームズベリー・グループの人物達、リットン・ストレイチーなどは”良心的兵役拒否”を主張して兵役拒否をした。宗教上の理由なり、平和主義的主張なりで。
一方のフォースターはブルームズベリー・グループにいて、兵役強制に不満と不安を感じつつも、”良心的兵役拒否”を主張して兵役を逃れようとはしなかった。ただそれでも独自の理論を構築して避けようとはしたらしいが考え過ぎてぶっ倒れ、健康上の理由で不採用になる。
良心的兵役拒否はある意味で国賊的というか、卑怯者的なイメージだったという感じなのでしょうね。
それで兵士にはなれない代わりに、赤十字で労働を提供することになる。
フォースターは戦争において兵役逃れして逃げるのは違うと考えていた人物だというのがわかります。
そしてその思想が幾らか作品に反映されたのか、「モーリス」において、モーリスは19歳の時、年間学業優秀賞を受賞する。その作文の内容は戦争の必要性を説くもので、その発想ゆえに受賞したと書かれている。つまりモーリスも戦争推進派というわけではないが、戦う時は戦うべきだと考える人物として描かれてた。この辺り、なぜ青年モーリスがそういう考えを持つようになったか?それは同性愛が盛んだったギリシャの戦士たちに対して、少年の頃からの憧れが源流にあったのだと思う。
さらに、クライブと別れた後、”モーリスは国防義勇軍に加わった”とも書かれている。
クライブと別れて混乱して自暴自棄で入ったようにもとれるが、一方学生セツルメントでラグビーやボクシング、数学を教えたりもしているので、世の為になることをしたいという意志の表れとも取れる。
これらから、モーリスは(おそらくフォースター自身も)とにかく立派な人物、つまり当時の社会的価値観において”立派な男”として認められたい想いが強い人物だったという気がします。ホモソーシャルの呪縛を強く受けていたということでしょうか?
この「モーリス」での設定が、「Alec」での第一次世界大戦勃発時におけるモーリスの選択に関わってきます。この辺りも原作をしっかり読み込んでいるが故のストーリー展開だなと感心しました。
モデルとなったリットン・ストレイチー同様、リズリーは良心的兵役拒否を主張するところまでちゃんとしていましたw。
奇妙な符合
フォースターの足取りを読んでいて、不思議な縁というか、つながり…いや、つながっている訳でもないけども…。こういうのは何というのだろう?
フォースターはインド人学生サイイッド・ロース・マスードの家庭教師をしていて恋に落ちる。彼が応えてくれることはなかったが(プラトニック的な交流はあったみたい)、かなりの想いだったようで、帰国した彼に会うためにインドまで旅行に行ったりしている。その経験を元に「インドへの道」を書き上げたりもする。
映画「モーリス」を監督したジェームズ・アイボリーの長年のパートナーだた人物がイスマイル・マーチャント。ムンバイ(当時はボンベイ)生まれのインド人だった。22歳で渡米。まるでフォースターがなし得なかった関係を代わりに体現したようなカップルであり、そんな彼らが映画「モーリス」を作るというのは何か不思議な縁を感じる。イギリス人とインド人なら植民地だった関係で「マイ・ビューティフル・ランドレット」のようにありえなくもない。しかしカルフォルニア生まれのアイボリーとのカップルは非常にレアな気がします。
そしてそのジェームズ・アイボリーが脚本を書いた「君の名前で僕を呼んで」。その原作本の著者であるアンドレ・アシマンはエジプト、アレキサンドリア出身。フォースターが赤十字で赴任したのがアレキサンドリア。そこで兵士の一人と(推測されている)初の性体験をし、そしてエジプト人のトロリードライバーの青年と恋人関係になる。この青年は当時の流行り病で早死にする。なんだかこのドライバーがアシマンとして転生し、「君の名前で僕を呼んで」を書いたりしてない?なんていう妄想が暴走しております(^^ゞ。
そしてその妄想は広がっていき…
「Alec」の結末はまだ続きを書こうと思えば書ける内容で終わります。
私としては20世紀のゲイの歴史的事件の色々な側面で彼が関わっていくという感じで話を続けてもらって(トム・ハンクスの「フォレスト・ガンプ」みたいな感じで)、アレックがその人生のどこかで(モーガンのように講師か何かをやっているとかで)若きジェームズ・アイボリーと出逢い、彼のメンターになる。そしてアイボリーが映画「モーリス」を作った1987年、1893年生まれのアレックは94歳になっている。その映画を観て亡き恋人モーリスのことを想いながら満足して永眠する…。なんていうゲイ・クロニクル一代記にして貰いたいなぁ~。フォースターも91歳で死去、アイボリーは96歳で健在。ゲイであることを隠さず、パートナーもちゃんといて、抑圧の少ないゲイライフを生きた人は割と長生きしているんですよね(たまたまかもだけど)。アレックもモーリスと幸せな人生を歩んだろうから長寿設定はピッタリな気がするんですw。
フォースターの晩年
これは考察話ではないですが…
フォースターの足取りも追っていくと、晩年に関する記述が、アレ?これどこかで聞いたような?…となる。
それは友人の紹介で知り合った警察官ロバート・ボブ・バッキンガムと恋人関係になり(ボブってロバートの愛称でしたよね?どゆ事?この名前?ボブボブバッキンガムw)、彼が結婚後も二人の関係は続き、彼の子供も孫のようにかわいがった(とはいえ妻は二人がそう言う関係だと知ったのは夫の死後だそう)。最後は心臓発作で倒れたフォースターの希望でバッキンガムが自宅に連れ帰り、そこで世話をして亡くなった。愛した人の側で亡くなり、ある意味幸せな最期だったんでしょうね。
そう、この話、数年前にアマプラで、One Directionハリー・スタイルズ主演でドラマになった「My Policeman 僕の巡査」とそっくり。それもそのはず、原作者のBethan Robertsはフォースターのこの話からインスピレーションを受けて書いたのだそう。
「My Policeman」はもっと苦~い感じのドラマだった記憶。妻が二人の仲を裂くみたいな話じゃなかったっけ?ゲイが偽りの結婚をして妻が苦しむというよくあるパターンだな…と思った記憶←ハッキリ覚えてない😅。やはり女性作者だと妻を騙していた勝手な男達は許せないという感情が入るのでしょうかね?
現代的視点
「Alec」は2021年に書かれただけあって、とても現代的視点を導入している作品でもあるなと感じました。
まず主人公のアレックが、ゲイであることに対して罪悪感や恥の意識を感じない人物として描かれていました。
現在、ストーンウォール事件からだと50年以上、ゲイ・プライドが叫ばれ続け、ゲイ達の自己肯定感は1910年代と比べると随分向上し、罪悪感や恥の意識を考えないようにしていこうという潮流は普通になってきている。そして実際今の若い世代はあまり感じていないとドリアン・ロロブリジータさんが映画紹介の動画内で言っていました。ゲイであり自己嫌悪で苦しむ主人公にあまりピンと来なくて共感し辛いと。
日本でもそういう人たちが出てきているなら、欧米ではもっとそういう人たちは多いと考えられる。そういう彼らの分身というか、彼らが共感しやすいキャラの代表としてアレックのキャラを発展させたのではないか。アレックもモーリス達と一緒になって自己嫌悪と闘ったりするのを再度延々と見せられても、1910年代の読者には響いても現代の読者には全く響きませんからね。
そして「モーリス」では彼が相談できるような同類の仲間やアライ、支援者は一切出てこない。リズリーがゲイであるのはほぼ明白だったわけで、彼とゲイ友になって相談なりもっとしていたらモーリスもあそこまで悩まなかったかもしれない。しかし「Alec」では多くの同類やアライが登場する。それによってアレックやモーリスの自己肯定感は高まっていたし、新しい世界への広がりにも繋がっていた。その仲間で支え合うことの重要さ、それが力になること、それは現在のゲイ達が支え合って乗り越えてきた歴史が証明している。この辺りも「モーリス」にはなくて「Alec」に吹き込まれた新しい感覚なのかもしれない。
とはいえ、先述した「ホモセクシャルの世界史」では、当時から濃密なゲイのネットワークが綴られているので、「Alec」の方がある意味史実に近い描写なのかもしれない。
フォースターの友人にリンカーン・カースティンという人物がいて、彼はニューヨーク・シティ・バレエの元となるバレエ・ソサエティを創設し、アメリカにバレエ文化を導入した人物。フォースターとの共通の友人でブルームズベリー・グループとも親しかった南アフリカ出身のローレンス・ヴァン・デル・ポストをカースティンは愛してしまう。このヴァン・デル・ポストが「戦場のメリークリスマス」の原作者なのだそう(彼の著作二作品を参考に作られた)。
「Alec」の物語ではこの後、カミングアウト、女性の自立、ゲイカップルを巡る新しい家族の形など、現代に通ずるトピックも盛り込まれていく。(ただ少々駆け足だったのは残念だった。でも延ばし過ぎてもダレるし難しいところ)
最後に私的評価
ということで、私の個人的評価としては☆8.5~9ぐらいあげたいのですが…。
アレック視点のキュンキュン描写もグッド😍でしたし、歴史的事実と「モーリス」という作品世界との融合も素晴らしいと思ったし、ゲイ・クロニクル的側面もあり勉強になりましたし、現代的視点を取り入れているところもイイなと思いました。
そして章ごとの構成も巧みで、ドラマチックな展開、次の章が気になる、これからどうなっていくのかページをめくる手が止まらないものになっている。エロ度も高いですしw。
ただ、ここまで実在の人物、歴史的事実を盛り込んでいることがわかってくると、著者であるdi Canzioの創作部分はあまりないとも言えるわけで…。勿論当時のゲイ界隈の出来事を調べ上げる努力はしているのですが、歴史的事実やフォースターの人生に沿ってキャラを動かせばいいということで、タネがわかれば少し興醒めしないでもない。
そしてモーリスと結ばれてからの展開も、戦争に関しては映像が浮かびにくいので、「プライベート・ライアン」とか「ダンケルク」みたいに映像で見せてくれないかな~と思うのと同時に、私的には少々中弛みだったかな。
その後の展開、物語のクライマックスも、それなりに楽しく読ませてもらったものの、物凄く独創性があるかといわれれば…疑問は残る。ご都合主義やクリシェ、よくある展開だという批判があっても仕方ないと思う。
なので文芸作品としては評価が高いかどうかは微妙だと思いますが、「モーリス」の原作ファンならSequel Entertainment (続編エンターテインメント)として十分楽しめると思います。
なので最終☆評価は☆7.5~8ということで。
どうでしょう?私が紹介したので15章ぐらいまで(10章までで「モーリス」との重複部分は終わります)。まだまだこの先があって全41章。
ここまででも読み応えある上に、夢グループの保科有里さんが「社長~もうちょっとオマケしてぇ~!」って頼んだわけじゃないのに「いまならココから26章オマケして8487エ~ン」って夢グループ石田社長が言ってますよ!超お得!読むなら今!www←言ってませんし夢グループでは売ってません!(笑)😂
興味ある方は是非読んでみてはいかがでしょうか?
原書はキツイという方は出版社に翻訳本をリクエストでしょうか?
でも著名な作家でもなさそうですし、ましてや日本ではおそらく無名。これが実写映画やドラマ化でもしない限り翻訳本は出なさそうですよねぇ…。ネトフリとかがドラマ化してくれないかな~?「リプリー」のドラマ化より絶対面白くなると思うんだけどなぁ~🙄。「Heartstopper」も第3シーズンで終わるそうだし、その後を引き継ぐLGBTQドラマシリーズとしてお願いしたいところ!!🙏
追記:アマゾンのレビュー欄見たら546件もあって星☆4.5/5とかなりの高評価でした。世界中からかなり好意的な意見が出ているので、これは実写化も有り得るかも~。なんとかアイボリーが生きているうちにして欲しい。
*参考になった、読みたくなった、すでに既読で共感した、という方は💓スキを押していただけると嬉しいです。😉
参照サイトなど