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松尾芭蕉とBL道の旅に出た話② 芭蕉のBL師匠たち

2年ほど前に書いた記事にスキ💓をして貰ったことをきっかけに、そう言えばその記事の続きを書こうと思いながらホッタラカシにしていたな…と思いだしました。それで草稿を見直して、2年ぶりぐらいで続きの記事を完成させることに。二年ぶりなので当時の自分のテンションがどんなだったかも憶えてないし😅、当時は色々書きたいことあり過ぎて頭がパンパンになって回らなくなり、文章として整理できなくて中断したはずなんだけど、今は逆に何で中断したのかも思いだせないほど頭の中がスカスカ(笑)。まあ言いたいことの本筋だけ何とか伝われば…という感じで書いておきます。
(記事内に出てくる説は基本他サイトで読み齧った程度のものなので、真偽のほどは定かではありません。その旨承知の上でお読みください)


前回の記事(↓を参照)で、松尾芭蕉の知らなかった側面を調べて面白かったので、
今記事は、そこからさらに深堀り、派生した話。

前記事では松尾芭蕉自身の衆道に関する話を中心に書きました。
そこから彼のルーツや思想、旅の軌跡などを考えた時に、そこに先達の文化人たちへの尊敬と憧憬があるのを強く感じたのでした。

「おくのほそ道」の序文にある”古人も多く旅に死せるあり”古人たちです。そこで私の中で浮かんだもう一つの考えは、

その古人たちも同性愛者だったのでは?

ということです。

小説「モーリス」なんかでもギリシャ・ローマ時代の同性愛の古典を愛読する話があったり、古今東西、先人の同性愛者が残した文化芸能に憧れを持ったり影響を受けたりする話は多い。日本にも芭蕉へと至るまでの脈々と続いた同性愛の系譜があるのでは?いや、あるのが当然だと思うわけです。

それで色々ネットを彷徨い、本を読み、見えてきたことなんかを書いてみたいと思った次第です。


芭蕉の心の師匠1:李白


↑前回の記事で、芭蕉とその弟子・杜国がラブラブな関係だったと書きました。
そして、芭蕉のネーミングについての考察もしました。

しかし、杜国のネーミングは何か意味があるんだろうか?というのはスルーしていたんです。あまり深く考えなかった。美少年たちに付けたようなとかとかのような卑猥な妄想を誘う要素がない気がしたので。

でも改めて少し考えてみますと、杜国の「杜」が気になる。
風間杜夫のです。木がたくさん生えている所、神社とかの周りにある森のことだったりするようです。これを無理矢理卑猥な方向に解釈すると、毛深い陰毛が濃いとかになるでしょうか?(←飛躍し過ぎw)

で、ここで、ピーンと閃めきました!!💡
それは「杜甫」です。

中国の詩人「杜甫」。杜国の「杜」と同じ。
そして杜甫と並ぶ中国詩人のスーパースターが「李白」
昔、漢詩の授業の時に習いました。

李白の「李」とはスモモのことです。ウン?モモ…?🤔

芭蕉が「芭蕉」と名乗る前に使っていた俳号が「桃青」
青い桃というのは酸っぱい桃=スモモに近い(似て非なるものだけど)。

この符号は何かしら関係がありそうだ…。

そこで李白と杜甫の関係を調べてみると、二人は同時代に生きた詩人であり、ちゃんと面識がある。そしてなんと!芭蕉&杜国同様、”二人して詩を読みながら一年半ほど旅をしていた”時期があったようなんです。

二人の年齢差は、李白が上の11歳差
芭蕉&杜国も芭蕉が13歳上で、年齢差も似たような感じ。

では李白と杜甫に同性愛関係があったのだろうか?
それはググってみたけどよくわからなかった。お互い詠み合った詩を、そういう観点から分析したらヒントがあるのかもしれませんが、私には知識もないのでちょっと不明。スミマセン(;^_^A 詳しいこと知ってる方いたら教えて欲しい。
一応両者ともに妻も子供もいた。しかしこの時代、それはあまり当てにならないですしね。

しかし李白が曹植という詩人の作品を、
「女性に関する作品が多く、好ましくない」
と言っていたという記述も見かけたので、案外遠からずということなのかも?

ネットではイマイチわかりませんでしたが、図書館で「男色」に関する本を借りてきました。そこには薄っすらですが、李白、白居易、蘇東坡らも同性愛関係を持っていた証拠もあったようだ、という記述がありました。
李白の相手が杜甫だったかはわかりませんが…。

歴代中国皇帝にも男色は普通にあったそうですし(ここも調べてると色々出て来ます。「断袖」「龍陽」の話など)、いまでこそ中国は同性愛禁止な感じですが、昔は日本同様盛んであったのだと思います。宦官もいましたしね。福建省なんかでは少年花嫁を貰う同性婚の風習がある場所もあったんだとか。

余談ですが、学校では習わなかったので初めて知ったのですが、
李白はキルギススタン方面出身のトゥルク系外国人「李白が中国人ではないことは周知の事実」であり、金髪碧眼だった可能性もあるんだとか!!😲

へェ~、上の図のように吊り目で細いひげ垂らしたようなイメージの李白像とは違って、実際はプラピとまでは言わないまでも、いまでいう宮沢氷魚君みたいな感じだったのかも?確かによく見ると上の絵も目の虹彩の色は薄い気がする。(中央アジアの旧ソ連領とかはアジア人顔っぽいのに碧眼だったりする人いますよね。あんな感じ?)

金髪碧眼李白と黒髪杜甫、対照的な作風、年齢差カップルとか腐女子の創作意欲掻き立てまくりな設定ですね~。私が知らないだけで二人のBL作品いっぱいありそうw

芭蕉の「桃青」が「李白」由来だろうと考えていた時に、やはりこちらのサイトでも
「憧れていた中国の李白(りはく)になぞらえた桃青(とうせい)と号し」
という記述を見かけたので、私の推測もそれほど的外れでもなさそう。

そして「杜甫」のwiki内「杜甫の俳人への影響」欄を読むと、芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったほど杜甫を愛読し、尊敬していたのも伺えます。

ということは、
芭蕉&杜国「笈の小文」の吟行は、李白&杜甫の吟行を少なからず模倣していたのは確実だと思われるわけです。

あと気になるのは、杜国の名前がいつ付けられたか?
元々本名は庄兵衛。伊良湖で謹居していた時は「野人(仁)」。そして「笈の小文」の時は万菊丸。そのあと2、3年後に亡くなっているので、どの段階で杜国と名乗り出したのか興味があります。芭蕉が後々、二人の旅を回想しながら李白と杜甫を思って、杜国という俳号を贈ったりしたんでしょうかね?🤔

桃とか李とか、こうなったら松坂桃李くんが芭蕉役で何か作品作って貰いたいもんです😁。お正月にTBSでやっていたドラマ「スロウトレイン」では星野源とゲイカップルの役やっていたけどね。

ということで、芭蕉は古典にあるゲイ文化人の影響を強く受けてるということがとりあえずは確認できました。

次は、李白とは別、日本の先輩ゲイ文化人で影響を受けた人物の話へ。


芭蕉の心の師匠2:北村季吟

芭蕉よりは19歳ほど年上

松尾芭蕉の最初の男は、主君の藤堂良忠
彼と一緒に芭蕉が俳諧を師事したのが北村季吟です。良忠の俳号は蝉吟。師匠から一文字貰ってる。「源氏物語」の光源氏が空蝉の弟と男色関係があったという匂わせがあるそうで、もしかしたらこの辺りから「蝉」の字が取られていたりしたりして?北村季吟は「源氏物語湖月抄」という注釈本を書いているくらいですから、そこから引用してる可能性も高そうですし。

良忠との衆道、同性愛関係は確実な感じでしたが、
実は二人の師匠である季吟も男色のエキスパートだったのです!!

1673年頃書かれて、1713年に出版された北村季吟の「岩つつじ」という書があります。それがなんでも男色を主題にした性愛文学集なんだとか。
過去の和歌、物語の中の男色に関するものを集めたBLアンソロジーって感じでしょうか?( ´艸`)

芭蕉の俳諧の直接な師匠もまた、BL愛好家であった。まさに同性愛の系譜は繋がっているのがわかります。

私が参照したコチラのサイトによると、

「岩つつじ」で季吟が最初に紹介するのが、、、

思ひ出づる ときはの山の 岩つつじ
    いはねばこそあれ 恋しき物を

(訳:あなたのことを思い出す時は、常磐の山の岩つつじではないが、口に出して言わないだけで、本当は恋しくてたまらない。)

一応は「読み人知らず」の歌ですけど、
弘法大師の実弟であり弟子でもある・真雅僧都に向けられた貞観寺僧正の作だと注釈を加えているんだそう。

もしくは真雅が、まだ少年だった在原業平を詠んだ歌という説もあるそう。
イケメン在原業平も過去のゲイ文化人たちにとっては、超有名な存在。(尾形光琳の燕子花図なども、業平の歌からのインスピレーション)

どちらにしても男同士のBL的な歌というわけですね。

在原業平をモデルにしたと言われる「伊勢物語」。そこにもホモソーシャルなのか、ホモエロティックなのか、どことなくかぐわしい香りを感じることを指摘されている方もいました(コチラのブログ)。またコチラには大門中将と言う人物と五年間、男色の関係にあったとも書かれています。

また、業平の少し後の時代に生きた紀貫之「土佐日記」。これは紀行文ですけど主人公が女性として書かれている。これがのちの「紫式部日記」や「更級日記」などの女流文学の先駆けになったそうで、その影響力は大きい。Xで話題になった時に、今でいうならネカマブログと書いている人がいて笑ってしまった。でもネット上で女の振りしてるネカマじゃなくて、紀貫之は案外オネエだったりしたのでは?なんてことも考えたり…。

「岩つつじ」では「徒然草」にも言及されてるそう。
吉田兼好も同性愛者だったのかな?まあ僧侶と言う時点で何かしら同性愛的逸話は残っていてもおかしくはない気はします。「徒然草」では男性と女性を比較して、ミソジニー的に女性を蔑む感じの記述が多かったり、仁和寺の稚児の男色についての記述があったりするので、吉田兼好=同性愛者説がある模様。
吉田兼好も結構謎な人物で、妻も子もおらず、30歳前後で出家している。あの「台記」を書いた頼長でさえ妻子がいたのだから、時代が違うとはいえ独身を貫いたのは全く女性に興味が無かった可能性も十分ある。命松丸という弟子がいたそうで、彼と男色の関係だったという話もあるらしい。○○丸と言うのは大抵男色の相手をする稚児に多い名前ですしね。

こちらのサイトによると、

そもそも「つれづれ」とは女性貴族が好んで用いた言葉でした。愛する男性が訪れるのを待つ寂しく退屈な時間。そんな状態を、平安の女性貴族は「つれづれ」と表現しました。

と書かれているので、紀貫之がネカマブログを書いたように、吉田兼好も随筆(エッセイ)と言っても平安の女流作家たちと同じようなノリ、つまり女性エッセイスト的な感性で書いていたのかも?

更に謎が多いというのは芭蕉隠密説との共通点も考えられる。wikiにも室町幕府要人との接触が書かれている欄があるので、軍事顧問や情報収集などの裏稼業的なものも兼任していたのかもしれない。人里離れた庵なんて、秘密の会話するのにピッタリですしね。
(ここで下衆な勘繰りをしてみると、戦国時代の衆道全盛期の前段階として、鎌倉末期~南北朝、室町時代にもかなりその道は確固としたものになりつつあったと思われる(義満と世阿弥の関係とか、政府要人と文化人の繋がり)。兼好の住む庵に政府要人が訪れ、夜伽の際に情報収集をしていたり?相手の好みに合わせて男役、女役どちらも対応できる、兼任できる好き者なので兼好と名のった…なんてことはないのかな~www)

「徒然草」から随筆家だと思われているけれど、歌道二条派の門下で和歌四天王に数えられるほどの歌人でもあった。この二条派の系譜に二条良基と言う人物がいて、彼が連歌を大成したと言われている。この連歌が俳諧、俳句へと発展していく。良基が編纂したのが「菟玖波集」で、その後に編纂された「新撰菟玖波集」は宗祇によるもの。

芭蕉はこの宗祇も多大にリスペクトをしている。


芭蕉の心の師匠3:宗祇

室町時代に俳諧の元になる連歌を発展させ、幅広く世に広めた連歌界の巨匠、宗祇

この宗祇にも同性愛関係があったらしい上に、彼は芭蕉と並んで、
放浪三代詩人と呼ばれています!!(もう一人は次に出てくる西行です)

宗祇の同性愛、男色関連の記述、どこかで見たんですけど、どこかわからなくなってしまった(;^_^A。図書館で借りた本に書いていたのかな?ちゃんとした引用元を提示できなくて申し訳ない。ただ宗祇作ということで「若衆物語」というものがあるらしい。衆道に興味ない人がそんな本を書くわけはないので、この辺りからも同性愛者だった可能性は高いと思われる。

彼は相国寺にいた時期があるそうで、相国寺は足利将軍家ゆかりの寺
建立した義満世阿弥との男色関係は有名ですし、その後、江戸期、絵師の伊藤若冲と相国寺の大典禅師が男色の関係だったと言われている。NHKでやっていたドラマ「ライジング若冲」でも、中村七之助演じる若冲と永山瑛太演じる大典の恋模様のようなものが割とはっきり描かれていました。

そのくらい相国寺には男色が脈々と存在していただろうと想像すると、宗祇もさもありなん…という感じですよね。

そして芭蕉は宗祇のことも凄く尊敬していた。
この ↓ 嵐山光三郎×冨士真奈美対談によると、

芭蕉は自分の笠に〈世にふるも更らに宗祇のやどり哉〉という句を書いていた。
それは宗祇の〈世にふるも更に時雨のやどり哉〉からのインスピレーション?本歌取り?したもの。宗祇の歌も新古今集にある二条院讃岐と言う人物の〈世にふるは苦しきものを槙の屋に 易くも過ぐる初時雨かな〉から来ているそう。

そして、この句の中の「ふる」があの有名な「ふる池や蛙飛こむ水の音」「ふる」にも掛かってくるという興味深いお話をされてます。「ふる」が「古い」でもあり「経る」が変化した物でもあると。だからわざと平仮名表記なんですね。となると前記事に書いた「おくのほそ道」の「ほそ」が敢えて平仮名なのも、私の下衆な勘繰りが案外当たっていたりしてw。

この対談ではその他、芭蕉の杜国や梅舌の話も出てきて面白い。

この宗祇もアチコチを旅している。東は福島の白河、新潟、西は山口、博多まで。それも越後と周防を行ったり来たりしてたり。最後は箱根湯本で倒れてそのまま死亡。

この宗祇、「新撰菟玖波集」を編纂したと先述しましたが、この中に智蘊(ちうん)という人物の歌を収録している。この人物がアニメ「一休さん」に出てきた新右衛門さんこと蜷川新右衛門。智蘊とは連歌師としての雅名。宗祇は彼を連歌七賢のひとりに選んでいる。アニメの新右衛門さんはそれほど頭が良さそうでもないおっちょこちょいな感じでしたが、実際は頭の良かった人だったんですね。そしてアニメでは子供の一休さんとワチャワチャしてましたが、実際二人が会ったのは新右衛門さんが晩年に出家してからだそう。

その一休さんこと一休宗純。彼もこの時代の僧侶だけあって男色にも女色にも積極的だったという破戒僧。ただwikiを読んでいると17歳の時に謙翁宗為と言う人物の弟子になり、宗純と言う戒名を名乗りだす。しかし4年後に謙翁が死亡し、その一週間後に自殺未遂をしている。理由は悟りが開けず川に身を投げようとしたと書かれているけど、私は年上の恋人が死んで後追いしようとしたのでは?という気がする。そんな純粋だった青年が破戒僧になって88歳まで生きるんだから、想い人がいなくなって残りの人生やけくそで生きていたんですかね?(苦笑)

「影の日本史にせまる」で嵐山光三郎氏は、おくのほそ道の巻頭にある「古人も多く旅に死せるあり」の古人とは宗祇と西行のことだろうと言っている。

この本では連歌のことにも詳しく解説してくれていて、それまでの和歌は宮廷文学であったのに対し、連歌は身分関係なく一般大衆も参加できる文学になってきた。そして各地で連歌会が開かれるようになる。そこで連歌師が今でいうラップバトルのように即興で歌を連ねていく。そこに洒落やとんちの効いたような歌も詠まれていき、それを面白がって見物している聴衆もいて盛り上がる…という感じだったそうです。そして連歌師は各地を巡り、いろんな階層の人と交流する。これが後に芭蕉が吟行しながら情報収集していた隠密活動同様に、連歌師がその情報収集したり、○○の城は凄いとかいう広告活動、つまり代理店みたいなことをしたり、ロビイストのような役割を果たしたりと、ただの文化人ではなく、政治にもかなり密接した重要な役割を果たした、芭蕉の隠密活動の原点がこの頃からあると嵐山氏と磯田先生は語っていました。

ということで、芭蕉の心の師匠3人目は、俳諧の原型である連歌を隆盛させ、芭蕉同様放浪詩人としても先輩だった「宗祇」でした。そしてもう一人の放浪詩人の元祖とも言われる「西行」に続きます。



芭蕉心の師匠4:西行

芭蕉、宗祇と並んで、放浪三代詩人に数えられるのが西行です。

室町の宗祇からさらに遡って、時代は平安末期。悪左府頼長が「台記」に書いていたり、平清盛とは北面の武士として同僚。平泉に行く途中に鎌倉で源頼朝に会っていたりと、どの時代の人かはこれで大体わかるかと。亡くなったのは鎌倉幕府が出来る直前の1190年(もう”1192年=いい国作ろう鎌倉幕府”じゃないんだっけ?今は1185年=いい箱になってるとか?)。

芭蕉は西行のことも凄く尊敬していて、彼の歌枕(和歌に多く詠み込まれる名所旧跡)を訪ねて旅をしている。

西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出た…ということで、芭蕉の旅は、宗祇もさることながら西行の旅を追体験しようということだったわけですね。

そうなると、芭蕉が杜国とラブラブBL旅をしたように、西行もゲイで、恋人とラブラブBL旅をしていた可能性がないのか?気になる所です。

調べてみると、西行にも男色だったらしいという記述があり、西住という恋人っぽい相手もいて、実際、彼と一緒に旅をしているんですね。芭蕉&杜国ほどラブラブって感じではないですけど。

ここで西行とはどういう人物かと簡単に説明すると、

出身は紀伊の国。紀の川沿いの根来寺と粉河寺の間辺りだそう。
先述の宗祇も和歌山の有田川町あたりの出身という話もある。芭蕉は伊賀出身だけど、和歌山はこの後出てくる空海の高野山もあるし、男色家が生まれやすい土壌があったのかな?あの悪名高きジャ〇ーさんもルーツは和歌山。

元々は上皇を守る北面の武士平清盛の同僚
そして平安時代随一のゲイ貴族、「台記」の著者で有名な悪左府・藤原頼長とも交流があった人物。西行が出家する時に台記において惜しむ思いを綴っている。

「家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」
家も豊かだし、年も若い、仕事においての悩みとかがあるわけでもなく、キャリア官僚で逞しいスポーツマンが突然仕事を辞めたみたいなものだから、女性職員たちも驚いていた…みたいな感じだと。

そしてかなりのイケメンだったらしい。
武士なので、貴族の雅な美しさというよりも、体育会系の勇猛な武人って感じだったのでしょうね。
例えば「台記」を書いた頼長などは貴族だから、それこそなまっちろくてナヨナヨ系だったとしたら、西行は、磯田先生によると肖像画などでは耳が潰れているように見えるらしく、格闘技など肉弾戦の訓練もしているような猛者タイプと想像。そして当時の総理大臣同等の左大臣頼長に勧進(寄付金集め)の為に法華経の一品を書いて欲しいと依頼している。しかし紙も何も献上せず、ただ自筆で書いて欲しいと。磯田先生は一介の坊主にしては少し無礼で強引で怪しいと。頼長がイケメンの自分にメロメロで多少強引なお願いでも聞いてくれると知っていたからでは?と推測してるw。

これって、それまでは貴族や坊主の間での男色が中心だったもの、つまり雅で美しいもの(坊主は稚児というまだ男らしさが出る前の子供を寵愛するのが主流)を愛でる世界中心だったところに、筋骨隆々の男くさい男もイイよね~という新しい価値観、新しいゲイの世界の扉が開いた時期ってことなんでしょうね。そして戦国期の武士同士の衆道全盛期に向かってこの潮流がメインに取り替わっていく。
ここで今の日本の芸能界で例えると、今はオネエ系、女装しているドラァグクイーン、性転換手術した人なんかがゲイの代表として出てるけど、普通のストレートと見分けがつかない男性然とした芸能人、それもガッチリした肉体派、鈴木亮平みたいな人たちが役だけでなく実生活でもゲイだとカミングアウトしてカッコイイ!素敵!ともてはやされるようになっていく…みたいな感じでしょうか?ハリウッドでは既にそっちがメインになってきているけど、日本でそんな日が再びやってくる日はいつになるんでしょうね?


西行が北面の武士として守っていた上皇も稚児を囲って男色三昧の時代。
実際、西行が佐藤義清として鳥羽上皇の北面の武士として仕えていた頃、西行18歳、上皇36歳で夜の相手もしていたという話もある。
(息子の後白河天皇も男色の話がいっぱいある→コチラ
その時に読んだ歌がコチラだそう。

死なばやと 何思ふらん のちの世も 戀は世に憂き こととこそ聞け

これは西行が上皇に恋する自分を愁いて詠んだのかな?
「死んだなら何を思うのだろう?あの世でも恋は悩み多いことだと聞いているのだけれど…」と言う感じの意味かな?(すいません適当な訳です😅)これは中々恋する乙女な歌ですなぁ。でもどちらかというと鳥羽院が積極的だったという記述も見かけたし、この辺りはよくわからない。

とにかく、その後待賢門院璋子に懸想したとか(それで失恋して出家した説がある)、子供(娘?)がいたとかいうハッキリしない逸話もある(出家する西行の袖を掴んで離さなかった子供を蹴り飛ばしたとか😅)にはあるけれども、男色の経験も十分あったと考えられる。つまり今でいうバイセクシュアル、パンセクシュアル的な人物だった可能性が高い。当時は性の対象が異性でないとイケないという確固とした決まりなんかなかったわけですからね。それに悪左府頼長にしてもそうですけど、情報を集めたり自分の身を守るために有力な人物と関係を持っておくという生存戦略の意味合いもあった。

この待賢門院璋子と言うのが上記した鳥羽上皇の中宮(皇后)ですが、鳥羽院の父である白河法皇(院政を始めた人)に養女として育てられていて、お手付きだったと「故事談」というものに書かれているらしい。つまり鳥羽院の息子である崇徳天皇の父親は実は白河院だと。それで”叔父子”と忌み嫌われていたと。だから白河法皇亡きあとに待賢門院璋子と崇徳天皇は冷遇されたのだと。しかし西行はこの母子をずっと気にかけていて、崇徳が保元の乱後に讃岐に流され客死したあとも弔いの為にその地を訪れたりしている(西住と一緒に)。

なんでも鳥羽院は和歌とかには興味が無い人物だったそうで、反対に崇徳院は和歌集や百人一首にも選ばれている人物。西行も自身が選んだ「山家集」に崇徳院の歌を入れている。崇徳院の歌壇、つまり和歌を詠む文化サロングループに西行も入っていて、そこで藤原俊成(千載和歌集撰者、定家の父)と知り合ったりしている。崇徳と西行、実は一歳違いの同年代。趣味も合っていたわけだし、もしかしたらここもちょっと関係があったりするのかな?と思わなくもない。でもこの二人の関係を裏付けるような情報は見かけないし(二人が出来てたら何かしら残ってそうなものなのに)、西行は義理堅い人物っぽいので、さすがに親子丼は避けたかな?(苦笑)鳥羽院や待賢門院を本当に愛していたなら、その息子である崇徳院は自分の息子や兄弟的な意味で愛していたような気がする。


待賢門院璋子との恋に破れ出家した…という説もありますが、
親しい友人が急死したことを嘆いて出家した説もある。この友人と言うのが佐藤左衛門尉憲康と言う人物。コチラのサイトにその時の様子が書かれている。なんだかこの様子だと左衛門尉憲康は世を憂いて自殺したっぽい雰囲気。それで西行は後追いはできないし、鎮魂の想いで出家した感じでしょうか?(西行(佐藤義清)と同じ佐藤姓だけど、親戚とかではないのかな?)

「影の日本史にせまる」では西行出家後の保元の乱、平治の乱で西行の同僚だった武士たちの殆どが戦死や処刑されるらしい。死の影が身近に迫っていることを感じて出家したかもしれない。それと鳥羽院付きの北面の武士(護衛隊)であり、もともとの主人であった徳大寺家は崇徳の敵である後白河天皇側。崇徳と仲がいいから彼を守る側に付きたいけれど、流れ的には後白河側に付かざるを得なくなりそう…という政治的に板挟みになる可能性を考えてトラブルに巻き込まれる前に出家したという話もしていて興味深い。感度は高い人物だったろうから、この辺の時勢を読む能力も長けていたとは思う。

そして出家して庵を構えたのが高野山!!
男色の祖・空海のお膝元、当時のゲイの聖地とも言える場所。

この亡くした親しい友人佐藤左衛門尉憲康を弔うためだとしたら、
芭蕉が主君である良忠を亡くした後、高野山に遺骨を納めに行ったパターンと似てる。
源氏の武将、熊谷直実も平敦盛の菩提を弔うために、高野山で僧になっていましたし(この二人は男色の関係ではなかったけど敵の美しい若武者をそこまで想う部分にゲイ的香りを感じるという話も聞く)、な~んか昔のゲイの皆さんは愛する男を弔うために、ゲイの聖地・高野山に行くってことが平安期~江戸期まで脈々と受け継がれて来てるような気がしないでもない。

で、前述の西行の恋人だった説がある西住
二人のお話はコチラ

高野山奥の院の橋の上で月を見て、西住のことを想いながら詠んだ歌や、旅の途中に西住のことを思い出して詠んだ歌をすぐ届けて貰った話などが解説されています。

そしてコチラのサイトでも西行と西住の関係について述べられている。

-西住と西行はよく一緒にあちこち修行の旅をしたようである
-二人の旅で比較的時期が特定可能なものに西国、四国への旅がある。
-この旅の目的は弘法大師の旧跡を訪れることと崇徳院の菩提を弔うことであった。
-私はそこに子供が親に、あるいは弟が兄に甘えるような年下の者が年上の者に持つある種の甘えの感情を感じる。
-同年輩の西住を駒にたとえるのは、いささか可愛いらしすぎる。このようなところに異常なまでの親愛感を認めていいように思う。
-西行と西住~こう並べてみてこの二つのいかにも浄士教的な呼び名の、血盟の兄弟のように似ているのに驚かされる。
-窪田章一郎氏は「恋歌の趣をもっている」と言われているし、目崎徳衛氏も「このいかにもやさしい調べからは、ほとんど異性への愛情にも似た濃密な友情がうかがわれる」と指摘されている。
-これらに共通してその底にあるものは、西行の西住への愛情であり慕情である

お互いのことを思い合って詠んだ歌や、上記のような意見があるのを見ると、男色の関係にあったと考えられてるのもわかる気がする。

先述した「影の日本史にせまる」によると、西行というのは西(西方浄土=あの世)に行くということで「死神」的な意味合いの名前なんだそう。その発想はなかったのでホエ~と感心してしまった。想い人が死んで西行と言う死の世界に向かうという意味の名前を名乗る。まるで「オヤジ、涅槃で待つ」といった沖雅也に通ずる「友よ、涅槃で待っててくれ 俺もそのうち涅槃(西方浄土)に行くから」って感じ😅。

ただ不思議なのは、佐藤左衛門尉憲康がもし西行とそういう関係だったとしたら、彼の死後に西住とほぼ同時に出家しているところが気になる。西行は二股していたのか?(まあ一人だけしかダメと言う今風の貞操観念とは違う可能性も十分ある)それとも佐藤左衛門尉憲康のことを想っている西行、その西行を慕っている西住、憲康←西行←西住と言うように矢印は一方通行だったけど、一緒に旅をし、過ごしているうちに西住にも情が湧いて行った…ということなのか?

西住は西行の家に仕えた人物という説もありつつ、同等の立場の人物と言ってたり、これまたよくわからない。一応は北面の武士時代の仲間で源季政という人物だと言われているらしい。一緒に法輪寺にいた空仁(二人と歳は近い)という僧侶のところに会いに行き、影響を受けて勉強して出家する決意をしたという流れだそう。最近もっぱら話題のフ〇テレビで例えると、そろそろうちの会社ヤバくない?と西行と西住が話していて、Youtubeコンテンツ制作会社の先輩がいるけど会いに行かない?ということになり、話聞きに行ったら凄く影響受けて二人してユーチューバーになっちゃった…みたいな感じ?w

しかし渡し船での暴行事件の逸話(満員の渡し船から降りるように武士から殴られ、西行が頭から血を流した事件。創作の可能性もあるらしい)からすると、苦しみに耐える強い西行と、すぐ嘆き悲しむ弱い西住像が感じられる。この事件を機に、こういうことに耐えられないのならお前は都に帰れといって二人は別れているわけで、主が西行、従が西住という関係性が垣間見れる。歳は近いかほぼ同じだったはずだけど、兄貴分の西行と弟分の西住という印象は受ける。

とはいえ、こういう話も「西行物語」という創作部分も含む物語から語られていたりするので、詳細は結局のところよく分からない。西行は偉人としてかなり英雄視されて後世に脚色されてる部分が多そうなので、ゲイっぽい逸話も本当かもしれないし、私みたいな後世の人物たちが勝手に妄想膨らまして決めつけてる部分もあるのかもしれない。でも芭蕉は文化人の先輩としてだけでなく、ゲイの先輩としてもリスペクトしていたという気がする。芭蕉が生きた時代くらいまでは男色、衆道は恥じることではなくて素晴らしいこと、カッコイイ、粋で風雅なことだという価値観の方が強かったはずだから。

芭蕉が西行の足跡を辿って旅をしたように、西行も四国で空海ゆかりの地を巡ったりしている。芭蕉にとっての西行のように、西行にとってのゲイの先輩、憧れの人は空海だったのでしょうね。

日本男色の祖・空海、それを真似て旅する西行、さらに彼を真似する芭蕉。脈々とゲイ旅の系譜が続いていたのに、現代ではすっかり途切れてしまって…。和歌山は熊野古道もいいけど、男色歌古道として彼らが辿ったルートや歌枕を巡る旅をプロモーションして世界中のゲイにアピールしたら新たな観光客誘致に繋がるのでは?(頭の固い役所ではムリ過ぎるかwww) 特に吉野、高野山、和歌浦と紀の川沿いに辿る(途中に西行生誕の地も通って)ルートなんか良さそうだけどなぁ。

愛する彼と旅をしながら歌を詠む…歴代のゲイ文化人によって脈々と引き継がれてきた伝統、ぜひゲイユーチューバーの皆さん、復活させてみてください!!←どういう依頼!?www


芭蕉心の師匠5:空海

ということで、最後は日本におけるゲイ文化人の祖。空海様。
彼が開いた「高野山」が後世のゲイ文化人の巡礼地になってる節がある。

江戸時代の学者・貝原益軒「男色の戯れは弘法以来のことなり」と言っているし、

徳川時代の川柳「大師流にて筆太に通和散」というのもある。
空海は三筆の1人。そのスタイルは”大師流”と言われる。 
その大師流を、大師流のセックス=アナルセックスをするなら通和散(=昔のLube、ローション) 筆太=太い筆=太いペニス
ということで、弘法大師が中国から日本に男色を持ち込んだというのが、ある意味、江戸期には常識的に語られていたということです。今でこそ弘法大使は神格化されてそんなイメージは殆ど語られることがなくなってますが、江戸時代までは弘法大師といえば男色がすぐイメージできるぐらいだったということですね。しかしどの辺りで、誰が主導してそのイメージ払拭運動が行われて、現在はそういうイメージがなくなったのか?ちょっと気になる。おそらく明治以降の日本における同性愛禁忌が強まっていった時期と重なるんでしょうね。

実際は弘法大師が唐への留学に行く前から日本にも同性愛はあった(古事記、日本書紀なんかや、万葉集にもそういう歌がある)。しかし僧は男女問わず性行為禁止だったところ、弘法大師が行った唐で男色文化の隆盛があったし、道中立ち寄った福建省でも同性婚があったりと、最先端の国・唐では僧でも同性愛ならOKみたいだよ~と伝えたせいで、僧の間での同性愛行為にお墨付きを与えてしまった=日本に同性愛を持ち込んだということらしい。

空海が唐から帰国したのが806年。
816年に高野山開山。男性間性行動が行われた伝承があるらしい(←どういう伝承なのかは不明 ソースはコチラ

そして弘法大師後の高野山で僧侶と稚児の性交が正当化されていった歴史がある。高野山だけじゃなく、全国の僧院で男色が普通に行われるようになっていき、天台宗(比叡山の方ですね)では稚児灌頂という儀式にまでになる。若くて美しい少年を、菩薩様の代わりとして、彼と性交することが神聖な儀式とみなすようになっていく。
こちらのサイトを読むと、僧侶と稚児の物語は当時結構メジャーなジャンルにまでなっていたと説明してくれている。

人々に教えを説く僧侶がすることだから、それを信じて帰依する貴族たちの中でも流行って行き、貴族の後は、その文化を取り入れたいと思う武士たちにも拡がっていく。そして戦国時代を経て、江戸時代、町民文化が花開くと、それまでは武士の主従関係の中で行われることが多かった男色が、偉いお武家様がやってることだから~で、町人たちも楽しむようになり、その頃には信頼関係、絆とか関係なくなり、単なる性の楽しみとして、男性売春宿なんかが多く出来るようになっていった。

とまあ、弘法大師、高野山ってのは、仏教の聖地でもあるけど、昔の人にとってはゲイの聖地のイメージ。ただそれは衆道にのめり込んでいる人達の間だけの常識だったのか、下町長屋の庶民の奥さんでも知ってるぐらいの常識だったのか、そのあたりはどうなんでしょうね?でも男同士を描いた春画を女性が見ている絵もあったような…?

調べてみたらこんなのが出てきた。商人夫婦が山賊風の追いはぎに襲われている。山賊が服を脱げというのは男の方…という夢を見ている女性、寝ているその女性にエサをねだる猫…という中々に複雑な設定の喜多川歌麿の浮世絵。春画ではないけどBL腐女子は江戸時代には既にいたことの証明。彼女たちには高野山がBLの聖地であることはおそらく常識であったでしょうね。

で、空海にも有名な愛人がいたのだろうか?と調べてみた。あまり聞いたことがないので。

するとコチラの知恵袋のアンサーにそれっぽいことが書かれていた。
最澄の弟子に泰範という人物がいて、最澄は彼を空海のところで学ぶように送り込む。しかし泰範は空海に心酔して最澄のところに戻らず、空海が高野山を開くために一緒になって尽力するようにまでなる。そして最澄への「私は戻りません」という手紙を空海が代筆してるそうで、最澄、泰範、空海の三角関係を怪しんでいる。

泰範のwikiにもその辺りの流れ、代筆したことは書かれているので恋愛関係かどうかはわからないけど全くデタラメではなさそう。わざわざ代筆してるのは確かに怪しい気はする。

こちらの方のnoteにもこの三人に関係について書かれていて、

最澄が泰範を延暦寺の総別当に任じて後事を託そうとまでしていたのに、「私にはつねに破戒の心と行いがあり、清浄な学問をいたずらに穢してしまいました」といって泰範が一度山を下りている。

当時はまだ男色も破戒だと考えられていたわけだから、最澄とのただれた関係に罪の意識を感じて…ということもあり得る…というかその破戒の心と行いが何なのか、超知りたいw。そして空海に出会って、男色は唐ではOKなんだよ~と教えられ、自分より12歳も上の最澄より4歳上の若くてイケメンな空海の方がいいわ~ということで乗り換えた…という愛憎劇があったのなら面白いw。そして泰範は空海の十大弟子のひとりにまでなっている。

と、ここまで適当なことを書いてきましたが、空海のこういう伝説等は男色を正当化させるために室町頃に出来たのでは?という意見も見かけました。

そうなんですよね。悪左府頼長の「台記」などは実際に残ってる事実なので嘘ではない。しかし西行の歌は残っていても解釈は解釈する人物の想いで変化するだろうし、空海に至ってはそもそもが超人エピソード満載の人物で、何が本当かよくわからない。後世の人達が自分都合でゲイエピソードを付け加えたり改変したり捏造したり、そういうこともあると思う。

こちらのサイトの方が言っている通り、
空海ゲイ説は俗説であって史実ではない
俗説を史実であるかのように語ることの危険性は重々意識しておくこと。
史実であるかの如くデマレベルの話を妄信して撒き散らさない努力も必要。

この辺りは気を付けつつ、
高野山に行った時に同性パートナーができますようにと願掛けしたり、同性パートナーやゲイの友達が亡くなったら弔いの為にお祈りしたり、そういういい意味での祈りの場にするのは別にいいんじゃないかなとは思うんですよね。

神社やお寺のご加護とか、どこどこの病に効くとか、そういうのも俗説、伝承、迷信が元になってる場合が殆ど。話を盛って物語を作ったりも普通に行われているわけで、そういうのと大差ない。だから高野山をそういう祈りの場にしてもいいだろうし、芭蕉のようにゲイ文化人の先輩たちに倣って吉野や高野山を巡るゲイ旅をしてみるのだっていい。それで人生が豊かになるのは間違いないんだから。腐女子の方々も高野山で坊さん見つけてイケない妄想を楽しんでも、相手に卑猥なニヤつきを気味悪がられたりしない限りはOKでしょう(苦笑)。



で、結局何が言いたいかというと、

1:ゲイ文化人の系譜が空海以降、脈々と受け継がれてきた。
江戸期以降もパッとは浮かばないけど、夏目漱石の「こころ」もゲイの文脈が読めると言われていますし(漱石はゲイではないけど男色文化は理解していたということだと思う)、川端康成も学生時代の後輩との熱烈な恋の話があるし、三島由紀夫の「禁色」に出てくる老作家は川端康成がモデルという説もあったり、実際小説に出てくるゲイバーのようなところに川端も三島も常連だったという話も、確か以前読んだ「男色の日本史」だったかに書かれていた気がする。

江戸川乱歩と仲が良かった岩田準一も「本朝男色考 男色文献書志」を記しているし、民俗学者、歌人でもあった折口信夫も同性愛者として有名なので、ある意味芭蕉から続くこの系譜にいたことになる。
ただここ最近はこういう流れのゲイ文化人がいないのかな~と。ロバート・キャンベルさんぐらいになるのかな?もっと芭蕉並みの誰でも知ってるスターが出てきて、この系譜を継いでいって貰いたいな~と。

2:こういう日本にあった男色文化を、そういうものだとして普通に受け止めて、もっと今を生きる私たちも楽しみながら次世代に受け継いで行けたらいいのになということ。

同性愛の禁忌感が好きな人はそういう楽しみかたをすればいいけど、別に禁忌感なんか感じずに、ひとつの文化として先人ゲイ旅の足跡を追って楽しんでみたり、観光誘致に役立てたり、せっかく歌枕として語り継いできた場所なんかを途切れさせるのは勿体ないから、芭蕉や西行が恋しい相手を想って歌を詠んだ場所なんだな~と想像してみたり、新たな角度からのスポットライトの当て方をもっとしてもいいんじゃないかと。まあノリで言ったらゲイバーに遊びに行くストレート的な感じ?ゲイ文化を別の世界のものとするのではなく、同じ世界に存在する一つの文化として楽しく消費しましょうよ!という提言(大層なw)ですね。

ということで、温かくなって、桜が咲く時期にでも西行生誕の地(生誕の地石碑は、和歌山県紀の川市竹房の龍蔵院にある)とか、高野山で西行の庵があったであろう場所(壇上伽藍内にある三昧堂。西行堂とも呼ばれる。以前に訪れた時に見てるはずなんだけど全く意識してなかった😅)なんかを訪れてみたいと思います。


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