「シチリア・サマー」an ode to life, freedom and LOVE~生命の輝き、シチリアの光、花火の煌めきを楽しむ映画
*ネタバレする部分があるので知りたくない方はお控えください。
「シチリア・サマー」とジャッレ事件
前記事に書いたイタリア映画「蟻の王」とともに最近観たのは、シチリアを舞台にした映画「シチリア・サマー」です。
「蟻の王」はイタリア北部エミリア=ロマーニャ州とローマが舞台でしたが、コチラはイタリア半島南部、長靴の先、シチリアの暑い夏の物語。
でもその割には不快な湿度、湿気みたいなものは余り伝わって来ず、案外サラッとした映画でした。
この映画も”Based on a true story”ってやつでして、実際に1980年にシチリア東部のジャッレという町で起こった事件を題材?インスピレーション?を受けて作られた映画です。
といっても、この事件の内容よりも、フォーカスは二人の時間を中心に当てているので、そこまで陰鬱でない所は救いです。
その事件についてはコチラの記事に詳しく書かれています。
超簡単に言うと、田舎町でゲイカップルが憎悪殺人にあった…ということです。
で、この事件と映画には大きめの変更点が二つあって、一つは主人公二人の年齢差でしょうか?
映画内では17歳と16歳。しかし実際は25歳と15歳。
この改変、同じイタリア映画で歳の差カップル、さらに時代もほぼ同じの「君の名前で僕を呼んで」では30歳くらいのオリバーと17歳くらいのエリオでOKだったのに、この場合だと未成年性交罪に問われてしまうのか?…と気になったのでググってみると、
イタリアの性的同意年齢は
ちょっと何年に施行された法律かは分からなかったのですが、ジャッレ事件のジョルジョとトニの年齢差は10歳だし、トニは15歳、ガッツリ抵触しちゃうから改変したのじゃないでしょうかね。(「君の名前で僕を呼んで」のオリバー、調べたら24歳の設定だった(あのアーミー・ハマー、24歳はちょっと無理がある 苦笑)。7歳差、エリオは17歳…まあこちらはギリギリセーフ?微妙なライン…)
もう一つの変更点は年代。ジャッレ事件は1980年。この映画の舞台は1982年。この年にサッカーワールドカップがあり、イタリアが優勝する。その盛り上がりを物語のアクセントにしつつ、一方で起こった不幸な出来事との対比、歓喜と悲哀、光と影を演出するために採用したのだろうと推測します。日差しのきついシチリアの夏。その光が強いほど影が暗くなる。まさにそんな感じですね。
犯人は?
映画の中では明確に犯人は描かれていません。
でもなんとなくニーノの甥であるトトであるような匂わせはあった様な気がします。
それはニーノとトトが叔父と行く狩猟シーンですよね。
映画最序盤ではウサギを撃つことも、撃った獲物を触ることさえ恐れていたトトが、映画終盤で狩りに行くと、支えられながらも銃を撃ち、誇らしげに獲物を持ち上げる。純粋な存在のトトに残忍性が備わったことを敢えて教えてくれている。
旧約聖書によると、野兎というのは穢れた食べ物の部類に入るんだそう。
新約聖書、キリスト教的にはOKになるんですけど、穢れ、罪深さの象徴としては意味を持たせている可能性はありそうです。
で、実際の事件の方では、事件後の捜査でトニの甥にあたる13歳のフランシスコ・メッシーナが二人に頼まれた嘱託殺人であると自白する。しかしその後、その自白は強要されたものだと否定して、結局迷宮入りする。
そもそも最初は自殺で処理しようとしていた。しかし死体の位置や状況からありえないそうで、発見されたのも警察だか憲兵隊のバラックの近く。警察がまともな捜査していたらすぐ見つかる様な所。不自然な点が多いに関わらず隠蔽してサッサと忘れ去ろうとする強い意志を町中から感じる事件でもあったそう。
そして事件から41年経ったコロナ禍の2021年、カトリックの司祭からLGBTQ活動家兼ジャーナリストになったFrancesco Leporeが独自に調査して「Il Delitto di Giarre ('The Giarre Murder' ジャッレ殺人)」という本を出した。
彼が存命の関係者にインタビューをして至った結論的には、トニの家族数人による名誉殺人であろうと結論づけているようです。
映画では叔父がジャンニに集団リンチを仕掛けていたし、彼はニーノやトトを連れて狩りに行っていた。つまり銃を所有している。
監督がこの本を撮影前に読んでいたなら(微妙な時期ですけど)、(トニの両親の承諾は得た)叔父が主犯、もしくは幼い甥フランシスコに同性愛嫌悪の意識を強く植え付けて犯行に至らせた。このどちらの可能性を含めて、あのウサギ狩りの場面を挿入したのでしょう。
でもジュゼッペ・フィオレッロ監督はインタビューでこう言ってます。
「I was not interested in making a film of denunciation. I hope this film comes out as an ode to life and freedom.
弾劾するような映画を作るつもりはなかった。この映画が命と自由への賛歌になることを希望する」と。
実際、映画の大半は若い二人の恋のきらめきを美しい映像で描いてくれていた。事前情報で悲惨な事件が元になっていると知っていた私は恐る恐る観たのですが、映画としてのメッセージは監督の言う通りで、意外にもダメージを受けるよりもポジティブな印象の方が勝った気がする。
こういう憎悪殺人、名誉殺人というのは、結局のところそういう意識を醸成して許してしまっているコミュニティや社会が大元の犯人と言っていい気がします。だからこそフィオレッロ監督や本を書いたLepore氏は、その社会を構成する一人として後悔の気持ちを述べ、何かしら彼らの為にしなくては!事件を埋もれさせてはいけない!…と行動した。
ジャッレ事件によって設立されたというイタリア初のゲイ団体Arcigayも同様ですよね。
日本もそうあって欲しい。
旧ジャニーズ問題で、私は知らなかったから関係ないとか、悪いのはジャニー喜多川だけだろうとか、自らがその罪を野放しにできる社会を作っていた一員だという意識のない発言をしている人も多く見かけた。
先進国で人権監視の公的組織が無いのは日本だけ。未だに作ろうという話にもなっていない。そんな意識の低い国を構成してきた意識の低い国民の一人として、私はやはり責任を感じるし、変化の一助になれるならなりたいと思うし、ならないといけない。
傷つき苦しんできた被害者、勇気をもって告発しても石を投げる手が無くならない。他人の人権を無視し、踏み躙る社会は、自分の人権も踏みにじられる社会。いつか自分にもその刃が向かってくる。
社会における自分の責任、罪を認める勇気、そしてそれに立ち向かえる強さ。
多くの悪事が露呈し、多くのことが変革期を迎えている今、日本人が逃げてはいけない部分ではないだろうか?
それを今一度、教えてくれた映画でもありました。
タイトルと音楽
「シチリア・サマー」の原題は「Stranizza d’amuri」という。
意味は「愛の奇妙」「愛の不思議」。
ちなみに英題は「Fireworks」=花火。ニーノが花火師で花火のシーンが何度も出て来ますからね。二人の恋心が最高潮になってるところを、花火がバンバン打ちあがる描写で表現している所とか、わかりやす過ぎてニヤニヤしちゃいましたw。火花=Spark=トキメキってわかりやすいメタファーですもんね。
で、「Stranizza d’amuri」というのは、そういうタイトルの歌からの引用なんだそう。
シチリア出身のフィオレッロ監督、この歌を歌っていたのもシチリア出身の歌手 フランコ・バッティアートFranco Battiato(2021年に死去)。
故郷の偉大な歌手へのトリビュートの意味もあったということでしょう。
リリースは1979年。
この歌自体は戦時中のラブストーリーについて歌っていて、愛は恐怖に囲まれようとも死ぬことなく、純粋で強いままであるというメッセージがあるんだとか。まさに「シチリア・サマー」にも通ずる内容だったんですね。
もう一曲、ジャンニとニーノがトラックで出かけるときに一緒に口ずさんでいた曲もバッティアートの曲「cuccurucucù」。こちらは1981年リリースなので1982年舞台の当時では流行曲だったんでしょう。
この曲、どこかで、何かの映画でも聞いた気がするんだけど…なんだっけ?「君の名前で僕を呼んで」でもかかってたのかな?ということで調べてみたら、元々は1954年の(メキシコの)曲「Cucurrucucú paloma」というのがあって、そちらが有名で数々の映画なんかで使われている。スペインのアルモドバル監督の「Talk to her」やウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」、そして「ムーンライト」でも使われていたらしい。たまたまなのか?同性愛監督、同性愛映画での使用率高い!そりゃどこかで聴いたことあるはずだ(苦笑)。
(余談ですが、フィオレッロ監督はゲイではない模様。結婚してお子さんもいる。ただトリビアとしてパトリシア・ハイスミスの記事でも書いた映画「リプリー」に役者として出ていたんだそう。元々は電気技師で、そこからDJになり役者になった。イタリアでは皆が知る役者が初めてメガホンを取ったのが今作なんだとか)
バッティアートの曲はそれのアレンジ?引用?したもののようです。
ちなみに「ククルクク」っていうのはナゲキ鳩というハトの鳴き声で、恋の病を嘆く歌詞の内容に重ねているんだとか。といっても明るいですけどね。
桜田淳子の「私の青い鳥」のクックックックっての、
作詞の阿久悠先生、もしかしてこの曲からインスピレーション受けてたりする?クッククックとハトの鳴き声の恋の歌ですし。
この軽快な曲と「Stranizza d’amuri」が同じ人が歌っているという感じがしない不思議。「Stranizza d’amuri」は彼の声の響き、ビブラートが直接こちらの心に響いて揺さぶってくる。
監督も十代の時に聴いた彼の音楽を自分の作品内で使えて、さらにはそれをタイトルにできたことは、極めて喜ばしいことだと言っている。
さらに、映画の中で聴く最後の声が、偉大なマエストロである彼の歌「Stranizza d’amuri」であることを誇りに思うとも。
悲しみと温かさで包み込むような歌声は、仰る通り完璧な選曲なんじゃないでしょうか。
「君の名前で僕を呼んで」の影響
同じイタリアを舞台にしたゲイを題材にした超ヒット作。
時代設定も1982年の「シチリア・サマー」に対して1983年の「君の名前で僕を呼んで」。
影響を受けてない、意識をしてないはずはないと思うのですが、監督がそれについて語っている記事を探したけど見つからなかった。どう考えてるか是非知りたいところだったのですが…。
逆に「君の名前で僕を呼んで」のルカ・グァダニーノ監督が賞賛!という宣伝文句は、公式サイトに大々と載っていましたけど。
でも「君の名前で僕を呼んで」を彷彿とさせるシーンもいくつかあったし、
何といってもタイトルの「stranizza d’amuri」が「愛の不思議」の意味。
英訳すると「strangeness of love」。
Strangenessは類義語のMysteryにも置き換えられると思うんです。
そうすると、「Mystery of Love」。
つまり「君の名前で僕を呼んで」の主題歌になるんですよね。
これで意識してないってことはさすがにないのでは?
ここでMystery は、より不可解な、理解するのが難しいもの。謎。
愛というどこから来るのか、どう変化するのか、突然無くなるのか、いつまでも続くのか、人間には予測できないものというニュアンスだと思うわけです。「君の名前で僕を呼んで」の映画も、そういう愛について描かれていたように思う。哲学者ヘラクレイトスの「万物の流転」の話もありましたし。
一方Strangeness はMysteryに比べると、より異質なものへの興味の意味合いが強い単語だと思います。いつもと違って不思議だ。みんなと違って不思議だ。奇妙な天気だ…などといったような。
「シチリア・サマー」はその異質さ、普通とされる異性愛というものから外れた同性愛を異端視することが悲劇を招いたという意味では、確かにMystery より Strangeness がしっくり来る気がします。
「君の名前で僕を呼んで」もですが、ゲイムービーの記号的なものも気になったので、それについてはまた別の記事にして書いてみたいと思います。
ということで、「シチリア・サマー」の私的評価は…
星☆7~7.5といったところでしょうか。
ちょっと低め。主演二人の演技は悪くなかったけど、ケミストリーを感じたか?と言われると、う~ん、ちょっと物足りなかった。ニーノ役のガブリエーレ・ピッツーロ君(下動画のサムネ左、帽子の子)は、こんなSoft Spokenなイタリア男子がいるんだ!と驚きでしたけど、なんかフワフワしたファンタジー味が強くなって、影の部分をもうちょっと表現してもいいのにな~と思ったので。
でも、二人がカンペ読みながらメッセージくれてるから☆8にしちゃおっかな?(笑)
イタリアでは興行的にもかなり成功したみたいですね。80年代のシチリアの空気感の再現が素晴らし過ぎて、涙する人も多いと書かれている方もいました。ノスタルジーもあるんでしょうね。
参考記事