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「SEBASTIAN」はうさぎを越えるか!?

モーリス、アレックと来て、今回はセバスチャン。男の名前シリーズが続いてますが…😅。

気になる映画「Sebastian」

今、気になってる二つのゲイ・ムービーがあります。

ひとつはヴェネツィア映画祭でお披露目になったルカ・グァダニーノ監督の新作「Queer」。007ジェームズ・ボンドのダニエル・クレイグが主演の話題作です。

まだ公式のトレイラーは出ていないみたい。このシーンのカットだけが出回ってる。

いち早く観た方々のレビュー動画とか見ていると、前半は割とゲイ・ラブロマンス的な話なんだけど、後半になるとまったく様相が変わって来て「え、えっとぉ…」みたいになっちゃうんだとか(;^ω^)。主人公がドラッグ中毒だからか?妄想というか、抽象的なビジョンみたいなのが多くなってくるみたいな?説明し難いものなんだそうです。なので評価もし難く、ちょっと渋めな感想が多い感じ。そもそもの原作がそういう話だそうで、割と実験的な作風なんだそう。

原作はWilliam S. Burroughsによって1951~1953年頃に書かれたけれども、これもE.M.フォースターの「モーリス」同様、出版されるまで時間がかかり、1985年に漸く出版されたのだそう。

Wikiを見てもゲイロマンス的なことは書かれておらず、Burroughsの前作「Junkie」(ジャンキー)の続編でYage(バニステリオプシス・カーピ)というドラッグの原料になる植物をジャングルに探すなんて書かれているので、案外そっちの方がメインなのかもしれません。このYage、なんでもテレパシーが使えるようになるとか言われてたんだとか(笑)。う~ん、そりゃ欲しくなるかw。

ちなみにBurroughs自身もヘロイン中毒者だったようです。というかこの人、かなりヤバイ人物。ドラッグするだけじゃなくて売人もしてるし、それで捕まりそうになってメキシコに逃げたり、妻と一緒にドラッグで酩酊状態の時に”ウィリアム・テルのまね”(リンゴを頭に載せて矢で射るやつね)と称して、妻の頭の上のコップを銃で撃とうとして奥さんを殺したりしている。。。_| ̄|○

「路上」のジャック・ケルアックと同居していたり、その時代のビート・ジェネレーションでしたっけ?に分類されるのかな?ケルアック同様にあちこち彷徨ってますしね。

彼自身のセクシュアリティに関しては、一応公式にはカミングアウトはしておらず、妻も二人いた(一人はナチから逃げるために手助けした人物。もう一人が銃殺された妻)。しかしLGBTQコミュニティとの深い関わり合いがあったり、高校生の時に男子学生に書いたラブレターが見つかり退学させられていたり、おそらくゲイ体験はしているだろうと考えられているようです。詩人のアレン・ギンズバーグと関係があっただろうとか、ケルアックなんかも含め、この辺りのグループはヒッピーの先駆けみたいな感じでゲイだったりバイだったり割とセクシュアリティに関して奔放な感じなんですよね。先日読んだ「ホモセクシャルの世界史」にも書かれていたと思う。
そして映画「Queer」の主人公Lee同様、彼も10歳以上年下の若者が好みだったとか。「Queer」は小説だけれども、LeeはBurroughs自身でもあり、私小説的な部分もあるみたいですね。

てっきり中年オヤジゲイと若者の切ない恋愛系の話かと思っていたけど、全然違うみたいですね😅。まあそこまで期待度高めずに観てみたいと思います。

*****

もう一つは、今年のサンダンス映画祭で話題になったという「Sebastian」

ロンドンに住む作家志望の若いライターMaxが、自分のデビュー作の為に夜は別名義Sebastianを名乗り、売り専(男娼)をしながらネタを集める…というお話。

これは中々面白そう!!と思ったのですが、これまた、私がたまたま観たレビューが辛辣だったのか、主人公マックスの動機とか、彼の行動の矛盾点とか、色々映画のマイナス点を指摘するものだったので、アレ?そんなにいい映画って訳じゃないのかな?と思いつつ、でもこの主役の男の子、Ruaridh Mollica ルーリー・モリーカ(Ruaridhがスコティッシュ・ネームで私にはルーリーって聞こえました。父親がイタリア人で母親がスコットランド人。イタリア生まれのスコットランド育ちのようです)がなかなかいい雰囲気出てる気がして、是非彼の演技を観てみたいな~と思ったんですよね。なんか寂しそうな表情とか、でもちょっと舌たらずで高めの声とか、おっさん転がす役にピッタリ!😆 何とも言えない魅力を感じる。

Ruaridh Mollica ルーリー・モリーカ自身のセクシュアリティはハッキリ明言してるのか微妙な感じですけど、前作もゲイの役をやっていたり、ロンドンに出てきてから少しずつ自己発見をしてきて、「アッ、俺、男の人も好きだ…」と気が付いたそうで、たぶんゲイ、もしくはバイの役者さんみたいですね。

映画内で主人公マックスもゲイ。ゲイの作家Bret Easton Ellis ブレット・イーストン・エリスへのインタビューをアサインされたりする。
ブレット・イーストン・エリスは「レス・ザン・ゼロ」「アメリカン・サイコ」などの作者。21歳で最初の小説が出版され、ジェネレーションXを代表する作家だと言われている。マックスはもう25歳になる自分は彼に比べると遅れている、だから早くデビューしたいと焦っている状況。
(クリスチャン・ベール主演の「アメリカン・サイコ」の作者もゲイだったとは初めて知りました。そういう視点で見なおしたらまた違ったものが見えてくるのかな?)

なので、別にゲイであることに葛藤するような映画では全くない。ではこの映画の見どころはどこなのだろうか?それはやはり”セックス・ワーカー”と言う部分にあると思う。デジタル世代のセックス・ワーカーという視点でマックスは小説を書いたりするようだけど、デジタル世代とかはあくまで客との結びつき手段の変化であって(マッチング・アプリとか。映画では売り専サイトみたいなもので出会う)、客との性行為自体は別にデジタル関係ないような気がするんですよね(ケツにバイブ突っ込んで、視聴者の課金でバイブから刺激が加わる…みたいな動画配信(←実際にある)ならデジタルと大いに関係あるけど、この映画はそういう話じゃないですからね)。会員制動画配信サービスのOnlyFansとかは確かにデジタル世代というか、皆がポルノを作れるようになった今の時代ならではであるけど、あれも売春とかのセックス・ワークとはまた違う種類の話な気がしますし。相手無しで自慰行為の配信でも全然いいわけですしね。セックス・ワークではあるけど、現実の人との繋がりみたいなものは特別重視されていないというか…。

で、この映画で特異な点があるとすれば、それはセックス・ワーカーが売春をやった経験を思い出して私小説を書くというのではなく、作家がわざわざセックス・ワーカーの世界に飛び込んで、そこで得た経験を作品にするという逆転のプロセスを経ている部分だと思うわけです。

小説家とか役者とか、ああいう人たちの中には時々、想像力だけでは限界があるのか?自分の作品のネタの為にわざわざ過激な世界に飛び込んだり、無茶なことをしてみたり、世間では眉をひそめられることをしてみたりってパターンありますよね。業の深い仕事だな~と思ってますけど。それでもなかなか自分からセックス・ワーカーで働いてみる、そしてそれを自分の作品にしてみるってことはあんまり聞いたことがない。風俗嬢が小説を書いたとかはありそうだけど。

で、一応探してみたら、そういうことをしている人がいて、何と2022年には映画にもなっていました(日本では2023年公開)。

「ラ・メゾン 小説家と娼婦」

フランス人作家Emma Becker エマ・ベッカーが、ドイツの娼館で2年間働いた様子を描いた小説(オート・フィクションと書かれていたので多少は創作部分もあるのかな?実名を出せない部分を変えてるだけなのかもしれないけど)。

この人は最初の娼館は合わなくてすぐ辞めて、二つ目の娼館は水があって結構馴染んだそうな(二年もやってたんだからねぇ)。最初はネタの為に潜入取材してるつもりだったけど、そこには実際に人との繋がり(同僚や客と)があって、妙な絆や愛着が湧いてきてミイラ取りがミイラになったみたいな感じなのかな?家族や恋人?男友達?から反対されても続けていたらしい。結局辞めるきっかけは悪質な客とのトラブルと書かれていたような。まあそれも仕事の一部だけど、客とセックスすること自体は抵抗(罪悪感持ったり)がなくなっていったということですよね。
また配信か何かで見る機会があれば観てみたいと思います。レビューはいくつか読みましたけど、大して評価は高くない感じ😅。それは単に作品が薄っぺらいのか、それとも売春というモノへの蔑みや嫌悪感が評価を下げているのか、どっちなんでしょうね。気になります。

で、ここにきてある人物を思い出したのです。エマ・ベッカーと似たようなことをした、作家であるのにセックス・ワーカーとして働いたことがある人物を。

それは…中村うさぎさんです!!

昔、「ショッピングの女王」で自身の買い物依存症~ホスト依存へと赤裸々に書いていた頃にハマっていくつか作品を読んでいました。

しかし、彼女の当時の作品をいくつか読んでいたら、なんだか自分の中の闇の部分も引っ張り出されるというか、見たくない自分を直視させられるというか、近親憎悪的な部分を感じたんでしょうかねぇ…これ以上読んだらなんだか分からないけどダメになるという恐怖心が芽生えてしまって、ピタッと読むのをやめてしまったんです(;^_^A。大袈裟に聞こえますけど、ちょうどその頃、私も結構病んでいたので闇に吞まれそうで怖かったんですよね。うさぎさんほど自分を直視する勇気がなかった。

それでも「5時に夢中」に出ているうさぎさんは見ていたし、そんな中で彼女がショッピング依存、ホスト依存の次にデリヘル嬢として働いたということを聞いて、私も世間の偏見に満ちた意見と同じで、ネタの為にそこまでするのか…、なにもそこまでしなくても…、と思ってやはりドン引きした記憶があります。(ちなみに”デリヘル”は本番は無しで、素股とか、お口で客の性処理をする形態の風俗。デリバリーヘルスなので、会社が用意した部屋に行ったり、呼ばれたホテルの部屋に行ったりしての一応”デリバリー”という形のサービス)

とはいえ、「5時に夢中」に出てるうさぎさんは面白いから拒否反応で番組を観なくなるなんてことはなかったんですけどね。しかしその後、体調を崩され、「5時に夢中」の降板騒動があり、ちょうどその辺りからかな?今思えば…確かにうさぎさんがいなくなった辺りから番組自体が面白くないように感じ始めてどんどん観なくなってしまった。それまでは大きな事務所とかに所属していない文化人とかタレントが好きなこと言ってる感じの番組だったのに、段々芸能界の闇の影響力が強くなってきたのか、色んなとこに忖度してつまらない番組になっていった…そんな印象です。マツコもあの辺りから面白くなくなっていった気がするんですよね(あくまで個人の感想ですよ。でもキレる時も盛り上げるためにわざとしてる感が強くなっていった)。今では多分本人も開き直って電波芸者をやってるんだろうな。「マツコの知らない世界」でも、昔は変態的マニアの人と出会うことを楽しんでいた感じが伝わって来てたけど、いまやPR番組みたいになっちゃったし、食べ物の回も無理して食べてるのが伝わってきて、昔ほど美味しそうに見えないんですよね。もうお金あるんだろうからいつでも辞めたらいいのに…観てて辛いから最近番組も観なくなっちゃった。でも辞めたらやめたでそこまでの生き甲斐がないとか、いまさら一般人になれないとか、いろいろ苦悩があるんでしょうねぇ…。たぶん政治的にはなりたくないんだろうけど、もっとマイノリティの人とじっくり対談する番組とか、人権を踏みにじられてきた人たちに寄り添うような番組作りして啓蒙活動的なことをしてくれたらいいのになぁ~と、勝手に願っています。亡くなる前の永六輔さんがマツコに期待していたって話を聞いたことがあるけど、そういうのを期待していたんだと思うんだけど…違うかなぁ。

アッ、話が逸れたので元に戻して😅、
結局、うさぎさん自体の活動も特別追いかけてる訳ではなかったので、降板後、徐々に私の中から彼女の存在は薄れていってしまったのでした。時々元気にやってるんだろうか…と、ふと考えたりはしていたけど、それだけ。

そんなわけで、今回うさぎさんがデリヘリ嬢として働いたことを思い出し、まず彼女がどういう経緯、どういう意図をもってそれに挑戦したのか?そしてその経験から何を得たのか?物凄く興味が湧いてきたんですね。映画「Sebastian」のマックスは、果たして中村うさぎがデリヘルで得た知見、洞察以上のものを提示できているのか?それを比較するためにも、その当時のことについて書かれた彼女の著作を数冊読んでみることにしたのでした。


自己分析の女王

まず手に取ったのは2007年に出版された「セックス放浪記」

しかしこの本はデリヘル体験以降の話でした。これはこれで面白い。デリヘルで買われる側だったうさぎ嬢が今度は売り専を買う側になるというお話。

デリヘル体験が書かれた本はコチラ。「私という病」2006年刊。

この本でデリヘル体験を赤裸々に語ってくれている。この中でそこに至る経緯や動機、理由付けなど、色々読んでいると、まあ納得するというか、別におかしなことをしてるとはあまり感じなくなっていく自分が不思議でした。うさぎ嬢が繰り広げる性の冒険を一緒に傍観している感覚になっていき、ヘエ~、ホオ~、なるほど~となり、段々と応援してる感じになっていく自分がいたりするw(さすがラノベ作家。読者を作品世界に引き込む手腕が凄い!)。そして、確かに(うさぎさんなら)やってみるべきよね、うん、やってくれてありがとう…とまで思えてくるほど😅。←とはいえ私はやりたいとは一切思わないんですけどね。それとこれとはまた別問題。

勿論、うさぎさんがこの経験を通して感じたことを私が同じことして感じるかは別なのはわかっているけど、はぁ~そんなものなのかぁ~と、妙な説得力で納得させられてしまうんですよね。例えば、

”生理的嫌悪感や倫理的背徳感なんてぇものは見る見る薄れ、最初は確かにあったはずの客に対する感謝の念や仕事に対する緊張感すら摩耗して、「なんかもう、思いっきりスレちゃった自分」を、僅か二日目にして、恭子(うさぎさんの源氏名)は薄々自覚してしまったのである。”

こんな感じで性行為自体には慣れていく感覚、一度ハードル越えたらあの時の緊張感はどこへやら…みたいになっていくのは長いこと生きてきたら実感としてよくわかる。だからデリヘルも、そう言うもんだと一度受け入れてしまうとあとは惰性というか、ハードルが低くなってしまうんだろうなというのはなんとなくわかる。どんどん機械的になっていくというか、感情が摩耗してイチイチ反応しなくなってくる。

それと源氏名を使うことで、社会的体裁を考えて普段は表に出していない自分の中の別の人格に全ての責任を背負わせてる感覚になるので、これまた抵抗が薄まるのだとか。うさぎさんはそれを源氏名というコスプレと表現していた。中村うさぎがチ〇コ咥えてるのではなくて、恭子(うさぎさんの源氏名)という別人格がチ〇コ咥えているんだと自分を騙すというか、おいおい、うさぎ何やってんだよ!という脳内ツッコミが普段はあって抵抗を強く感じる所が、恭子がやってんなら仕方ないな…と受け流せる。そして私的に興味深かったのは、恭子での経験の後、フ〇ラが得意、ましてや好きになるなんてことは一切なく、本来の中村うさぎに戻ると普通に嫌で仕方なくなったそう。素の人格に戻ると抵抗感も戻ってくるというのがなんだかリアルな感想だなと。
このコスプレというか源氏名に責任おっ被せる感覚は、割と多くの人が共感できるのではないだろうか?SNSにおいて匿名やハンドルネームで、普段の社会に見せてる自分とは別の自分を出してコメント書いたり、活動したりしている人は似たような感覚を味わっていると思う。その別人格(普段抑えている人格)が暴走すると誹謗中傷問題に発展していくんですよね。

一方で、

”例によってドアの前では足がすくんだ。結局、この恐怖には、デリヘル最後の日まで慣れなかった。客にも仕事にもアッという間に慣れたのに、ドアを開けて客の顔を見る直前の恐怖だけは摩耗しなかったのである。”

と、毎回違う客を前にすること=未知との遭遇には慣れることがないという。そう、これは慣れちゃいけない部分だと思う。そういう意味ではうさぎさんは危機察知能力が高いから慣れなかったんだろうなと。この部分も慣れてしまう人もいるとは思うんです。でもそういう人は様子がおかしい人を察知できなくて事件に巻き込まれたりするんだろうなと。
いや、そう考えるとチ〇コ舐めるのもそうそう簡単に慣れちゃダメか…。咥える前にしっかり様子を観察して、変なイボがないかとか、性病にかかってそうな兆候がないかは最低でも警戒心をもって観察しないとですよね😅。


それで、うさぎさんはこの経験で何を得られたのか?

「女の価値の確認」

そもそもホストに恋愛を餌に関係を持ちかけられて(金づるを逃がしたくないから)、そのくせ、いざセックスになると目を瞑ったり、AV観ながらだったりと、イヤイヤのお義理セックスをされたのがショック過ぎたことが今回の発端。そこから自分はそれ程”女”としての価値がないのか?”女”として男が欲情できないほどなのか?ということを確かめたくて、それが如実に評価される”風俗”が一番手っ取り早いということで体験することにしたわけです。

「女の価値の確認」に関して、本人は冗談っぽくまだまだ遠そうとは書いてましたが、一応ご指名もあったし、途中で帰った客もいたにはいたが、ほぼ満足してくれてる客が多かった。(男たちが私を)”「女として取り扱った」ことに私自身が満足を見出した”とも書かれていたので、短い期間だったけれども、自身の「女の価値の確認」はある程度はできたということでしょう。

性的幻想

そしてその”女の価値の確認”だけではなく、男がなぜ風俗に来るのか?それは「性的幻想」を買いに来るということがわかってくる。ただの性処理道具として乱暴に扱われたりはほぼ無く、皆優しく丁寧に接してくれた。現実的になり過ぎて恋人や妻に感じなくなってしまった”幻想の中の女”を楽しむために来ているんだと実感していく。

多角的アイデンティティ承認欲求

「社会的な役割と価値を持った私」「プライベートなコミュニティ(家族や友人)での役割を持った私」「性的な役割と価値を持った私」と、人間は多角的にアイデンティティを承認されたがっていて、そのどれが欠けても承認欲求、自己存在の確認欲求を募らせる傾向にあるということを考察していく。確かに男も女も性的に自分は価値があると思いたい部分はある。もう「自分は枯れたから関係ないわ~」とか言っていても、ふとした時に認めて貰いたい欲求が湧いてくることもある。承認欲求という言葉は最近よく使われるようになったけど、それがひとつの欲求ではなく、多角的な面があるものだというのには納得でした。妻ではフルパフォーマンス出来ない自分を否定したいがために他の女を試そうとする男、夫以上に求めてくれる男と不倫して自分が性的に価値があることを確認しようとしたりする妻、こういうよく聞く浮気、不倫のパターンは、性的に価値があるという承認欲求を満たされていないと無くなることはないということですよね。

女を貶めることを正当化する男社会の卑劣な構造

今回の経験からうさぎさんが最も興味深かったのは世間の反応だったそう。デリヘル嬢をやったことで、見知らぬ人からのイタズラ電話がかかって来たり、知人程度だった男と久々に会った時、肩に触れて来て馴れ馴れしくデリヘル嬢の話を振って来たりしてきたんだと。今までは作家先生として丁寧に扱うべき人物として見ていた男たちが、自分のことをデリヘル嬢、風俗をやった女、そんなにセックスしたいなら俺もしてやってもイイ的に、見下げていい対象に変化したことを感じ取る。そして金を払った客以上に横柄な態度をとる部外者の男達に辟易とする。

ミニスカート履いてる女が悪いとか、襲っておいて女が誘ったかのように自己正当化を装う卑怯な男達。自分たちの都合で妻を母親化=神格化させてセックスはできない対象に追いやり、その他の女は自分を堕落させる悪い女のレッテルを貼り全て女たちの責任にすり替えようとする。月に一度は妻とセックスしてやって義務を果たしている立派な夫自慢をする男達。ホストにイヤイヤセックスをされたうさぎさんは、義務的にセックスされる妻の惨めさに同情し、夫の傲慢さに憤慨する。

この辺りは女をものとしてしか見ていない、作家として人権を認めた存在であろうと、隙があればすぐに貶めて、自分たちの下に置きたいというホモソーシャルの呪縛が社会に沁みついていることがよくわかります。女が性的に自己確認をしたい=”淫売”とみなすくせに、男が性的に自己確認をしたい=”性豪”としてもてはやす。勿論女と男は違う部分がある。でも人間としての人権を、男と女の差異で誤魔化して軽視したり、奪ったり、蹂躙していい言い訳にはならない。ならないけどそれが横行している。男は中々それに気付けないし、女も気付いてなかったり、気付いて声を上げても男たちによってうるさい存在だとまともに対峙することなく貶めて抹消しようとする。うさぎさんはおかしな方向に行ってるフェミニストは嫌いだと言いつつ、本の後半はガッツリとフェミニズム問題に焦点が当たっていて、それが実体験から来るものなので実に説得力があって考えさせられました。

ミソジニーとミサンドリー

うさぎさんは男性とこれだけ関わりつつも男性嫌悪、男性恐怖を抱えているという。若い時に受けた痴漢(それも後日に奴が駅の改札で獲物を物色している現場を目撃する)や、酔った上司に押し倒された経験がどうしても拭い去れずに深く刻まれているからだと。

ホモソーシャルに組み込まれている男は基本女性蔑視のミソジニー。そうじゃないとホモソーシャルの正会員として認められないから。ホモソーシャルな男たちは女を蔑むことで連帯を強め、男社会に利益を集め、独占しようとしてきたし、今もそれをなんとか継続しようとしているのだから。
朝ドラ「虎に翼」の梅子さんの長男が、昔は可愛いい子供だったのに、成長したらいつに間にか母をも見下すミソジニー男になり果てていた…そして三男だけはああいう風にならないように育てたいと願っていた。しかしそれを母親がいくら願っても、息子をホモソーシャルな男達から隔離しない限りは不可能でしょう。他の男達と関わる中でトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)をどんどん注入されていき、ミソジニーモンスターへと変貌していくのだから。

そしてそのミソジニーな男達と関わるにつれ、女性達はどんどんミサンドリー(男性嫌悪)を強めていくことになる。そりゃそうです。人として扱われないのだから。一部の認めた名誉男性である女性(作家としての権威を認められていた頃のうさぎさんとか)以外は、性暴力を振るっても、訴えて来ても無視しても、それを握りつぶしても問題ないという人権無視がズ~っとまかり通ってきているんだから。

だから現在は男のミソジニーと女のミサンドリーがガッツリ男と女に刻まれ反発し合っている、いや戦争していると言ってもいい状態。男の方が帝国軍で女の方が革命軍とでもいったらいいかな?そんな戦争状態であるけれども、人間が本質的に持っている「性的に価値がある自分」を認めてもらうために、その反対の性が必要になってくるので求めてしまう。
この好きと嫌いを同時に持ってしまうアンビバレントで矛盾した状態にどうしてもなってしまうので、なにかと問題を抱えるカップルが量産されてしまう状況なんでしょうね。そりゃ仲のいい夫婦がレア物扱いされるわけだ。

ホモソーシャルが色々な問題の大元だというのはわかって来たけど、ではそれをどういう風に解体していく、そして解体した後にどういう風な社会が男にとっても女にとっても生きやすい社会なのか、遺恨はしばらく残ったとしてもどうすれば薄まっていくのか、そういうことを具体的に提案している人っているのかな?フェミニストが女性の権利を主張するのが無駄だとは思わないけど、なんだかそのアプローチだけじゃ埒が明かないような気がするんですよね。やいのやいの言われたら反発が起こるのは当然だろうし。やはり小さい頃からの教育と、トキシック・マスキュリニティに出来るだけ触れさせない、触れたらすぐ解毒トリートメントをするとか?そういう手法を確立していくとかでしょうか?とはいえ、どうやって解毒トリートメントすればいいのか、これまた全く思い浮かばない…。痴漢とか性虐待やDVしている醜悪な男の姿を見させ、自分が被害にあったことを想像させ、身の毛もよだつ嫌悪感を植えつけ、そこからホモソーシャル、トキシック・マスキュリニティの悪い点をコンコンと言ってきかせて理解させる?それはそれで聞こうという姿勢が無い場合はこれまた拒否反応が出そうだし…難しいなぁ。

そして最後の章では、東電OL事件の、彼女が抱えていたであろう心の闇を分析していく。自分の経験、感情と重ね合わせて。

うさぎさんは書いていなかったけど、言語化できない無意識の衝動に突き動かされて、自分でコントロールできずに暴走して、結果依存状態に陥る時というのは、その裏に人間としての尊厳を踏みにじられたことへの”怒り”が潜んでいるような気がしてならない。その怒りが各種依存症だったり、人間関係だと共依存だったりの根源にあるような気がします。

私も振り返ると、思春期以降は異様に自分の見た目を気にする人間でした。でも小さい頃、幼稚園の頃とかはそんなことは無かった。小学校に入って、何年生だったか忘れたけど、容姿のことをからかわれたことだけは薄っすら憶えている。その時感じた屈辱。それが根強く心に刻まれたから人一倍バカにされないように気にするようになった気がします。あのからかわれた時、なんだと~!!と怒れていたら引き摺ることも無かったのかもしれないけど、咄嗟のことで理解が追い付かない時というのは多々ある。しかしその相手の口調などからバカにされていることだけは分かる。そして解消できない屈辱が怒りに変わって心の奥底でいつまでも、時には全くの無意識になって燻っていく…そんな気がします。そういう怒りの火種が、何かのきっかけで暴走した時、着飾ってバカにされないようにしたい、見返したいと買い物依存に陥ったり、整形を繰り返す整形依存に陥ったり、多くの人間に自分の容姿を褒めて貰えないと不安になる承認欲求の塊になってしまったり…するのではないでしょうか。

*****

そして、うさぎ嬢の話は次の「セックス放浪記」に続いて行く。ここでは自分が買う側になって売り専を買ってセックスする話からはじまり、ハプニングバーで人に見られてのセックスに挑戦しようとしたり、SMクラブで吊るされることを経験したりと、これまたうさぎ嬢の性に関する冒険が繰り広げられていく。そしてそこからセックスの本質の考察やら、ナルキッソスの話から自己愛性パーソナリティ障害に関する話なんかにも至り、最後はキリスト教絡みの宗教の話にまで広がっていく。

私はこの売り専を買うというパートで、「Sebastian」の主人公マックスと同じ立場にいる売り専達の心情の考察なんかもあるかな?と期待して読んでいたのですが、うさぎさんを相手にしたのはあくまでもノンケの売り専。ゲイの売り専が男に対してする場合とは少し状況が違うようでした。どうしても男対女の関係が下地にあるので、ノンケの売り専達は自己正当化した自分勝手な要求をして自分が優位に立とうとして来たり(お金貰う側なのに)、ここでもホモソーシャルの影響によるミソジニーが滲んでいるような感じ。うさぎさんもそのせいで怒りを感じ、所詮彼らでは自分の性的幻想を満たせないし、性的価値の確認も出来ないことに気が付いていく。

では「Sebastian」の主人公マックスの場合は?ゲイの売り専がゲイの客相手に体を売る。多分殆どが金目的であり、売る側がうさぎさんみたいに、”男として性的に求められる自分の価値”を確認したいからやっている…という部分はあるのだろうか?

そこで、日本でも売り専にインタビューして彼らの気持ちをまとめて本にしたものがありました。

中古でも凄く高いので購入には至らなかったのですが、この本に関する記事がありました。

この記事にはこんなことが書かれていた。

彼らがどうして「カラダを売る」という道を選んだのか。その理由は、「ぬくもりがほしかったから」だという。中高といじめられっこだったたむさんは「自分を必要としてほしかった」と笑いながら語ってくれた。チロさんも「家にいたくなかった」という理由から、ウリ専へと走ったそうだ。

「Sebastian」の主人公マックスも、小説のネタ目的、そしてお金目的は勿論ありつつ、この本の売り専達が言うように「ぬくもりがほしい」からとか、「自分を必要として欲しい」という存在価値承認欲求みたいなものが描かれているのか?そこは関心をもって見てみたい部分ですね。

「Sebastian」は、うさぎさん以上のものを提示できているだろうか?

「Sebastian」の主人公マックスがぬくもりや承認欲求もこじらせて売り専することになるのなら、さらにそこからの深掘りはあったりするのだろうか?どうしてマックスがそう言うものを必要とするのか?それは出会い系サイトやマッチングアプリではなく、金銭の介在がどうして必要なのか?とか。

うさぎさんの場合も、どうして金銭の介在がある風俗を選んだのかは、私的には今ひとつピンと来なかった。お金というわかりやすい指標と手っ取り早さがあるのは分かるけど…。マックスも売り専ではなく、普通にデジタル世代のゲイ恋愛をテーマにした小説じゃダメだったのか?マッチングアプリ、海外ならGrindrでしたっけ?で大量に消費するように相手を見つけてはセックスしていく…。その一昔前からだと考えられない気軽さにおいて、本当の愛なんかは余計見つかりにくくなったとか、それだけでも十分面白そうな、新しい考察を下地にした話が書けそうですけどね。というかそっちの方がデジタル時代だからこそ変化が起こっている部分じゃないかと。逆に売春買春要素の方は、デジタル時代だろうと、やはりお金以外でそれをする部分は「寂しさ」とか「承認欲求」だったりで、あんまり変わっていないような気がするんですけど…。

逆にお金を介在させることで、あと腐れがなくなる場合もあるのか?妙に割り切れるというか。でもマッチング・アプリでもゴースティングGhostingといって一方的にプロフィール削除とかして関係を絶つなんてことも横行しているし、う~ん、どうなんだろう?うさぎさんとは違ってマックスは金が必要だったということに尽きるのか…。物価の高いロンドンで、駆け出しのライターとして生活するのは大変そうですもんね。ていうか親のバックアップの無いイギリスの地方出身者はロンドンで一人で生活なんかどうやってしていってるんだろう?それこそ売春とか物凄い登録数だったりするんだろうか?

あとレビューで、マックスの顧客は年上の男性が多いように言われていた。これはどういうことなのだろう?年寄りの方が金払いがイイって訳ではない気がする。ケチな奴は歳いってもケチだしw。マックスの方がそういう顧客を選んでいるってこと?そうならば、それはなぜなんだろう?シングルマザーの家庭だったので、父性を求めているとか?そして父親のような人物に存在価値を認められること=ホモソーシャルの男社会の一員として認められることであり、ゲイの売り専のマインドの中にもホモソーシャルの呪縛が残っているということを示唆しているのだろうか?ゲイはホモソーシャルから逸脱した存在だと思われがちだけど、でもホモソーシャルの中で育ってきているわけで、絶対その心の中には多大な影響が影を落としていると思うんですよね。その辺りを深く突っ込んだ作品だと面白そうだけど…果たしてどうでしょう?

ちなみに、”Sebastian”という源氏名について映画内で触れられているかはわかりませんが、聖セバスチャンと言うのはゲイの(LGBTQの)守護聖人だと考えられている存在です。
wikiにも、”セバスティアヌスは歴史の最も初期のゲイ・アイコンであり、セバスティアヌス自身がゲイではなかったか、という説…”と書かれています。

セバスティアヌスがゲイだったという説はどこから来たのかよくわかりませんが、半裸でもだえる姿がエロティックであり、矢で貫かれている=ペニスで貫かれるということを連想させるということなんでしょうかね?そこからオスカー・ワイルドや三島由紀夫やらが気に入って作品に登場させたりしてきたんだそう。

果たして、映画「Sebastian」の中でも、聖セバスチャンを連想させるようなメタファー的なものがあるのか?注目してみたいところです。

あと、セックスシーンもかなりあるらしいのですが、この映画ではインティマシ―・コーディネーターをちゃんと入れて作られたそうです。ICを入れたことによってどこまで攻めたシーンになっているのか?その辺りを考えてみながら観てみるのも一興かもしれませんね。とは言いつつ、あまりセックスシーンを見せ場みたいにして、観客の関心を引くような映画でないといいな~。それこそデジタル時代の今、モロ見えの動画なんてネット中に溢れている訳で、わざわざ映画で見えそで見えないセックスシーンを延々とやって煽られても、どこか冷めてみてしまいません?私だけか😅。

ということで、個人的には「Sebastian」がうさぎさんの考察のようなものを越えてくる作品になってるとは中々思えませんが、売る側の心理に注目して是非観てみたいと思います。


最後に

映画「Sebastian」から始まって、売春、売り専について色々思考を巡らせ、久々に中村うさぎさんの作品に出会えて楽しかったし、新たな視点を与えて貰ったりもして、勉強になった気がします。

あと、元風俗嬢の著者によるこんな本も読みました。

これも2005年くらいの本なので情報は古いとはいえ、風俗嬢側からの視点で色々書かれていて面白かったです。そしてデジタル時代の到来で、それまでの組織売春による管理がどんどん減少していき、より個人によるものが増えていっていると、この時点で言及していました。組織売春だとお局?先輩姐さん?がいて、色々御指南してくれていたと。性病についてだったり、顧客あしらいだったり。それで危機管理出来ていたものが、個人売春が横行していくことで性病の見抜き方を知らなかったり、性病検査をしてなかったり、売春する側(買春する側も)の危険度が上がっていくことを危惧していたり。実際最近は梅毒が物凄い勢いで増えているとかいうニュースもあるわけで(あれは外国人観光客の増加も影響してそうですけどね)、デジタル風俗がもたらした功罪とかで新たな本かけそうだな~なんて思ったり。20年前と比べると、デジタル風俗も随分変化したでしょうしねぇ…。

そして中村うさぎさんの著作では「他者という病」という本も読みました。

こちらは2015年の本なので、前述した二作からは結構時間が経っている。

この本は突然の病気、そこから死にかけた経験から”死”について色々な思考を巡らせていくような内容。あと降板になった「5時に夢中」のうさぎさん側からの意見や感想が綴られている。この部分は恨み節っぽく聞こえなくもないんだけど、私的にはうさぎさん側からの話が知れてよかった。番組観てた分には、うさぎさんが我が儘言って辞めていったみたいな空気を感じていて、出演者たちも触れないようにしているみたいな変な雰囲気でモヤモヤしていたから。うさぎさんの話を読んだら、たぶん私もああいう連中とは縁を切っちゃうだろうな~と、それが大人じゃないと言われたら別に大人じゃなくていいと思うだろうなと。なあなあで馴れ合って、ちゃんと向き合って言うべきこと言わずに人を排除したりとか、ああいうの気持ち悪くて仕方ない質なので。

この本で一番驚いたのは、うさぎさんが垣間見た死後の世界の部分。というか死後の世界なんてものはなく、ただ真っ暗な闇になるという話。これ、私がこの十年以上、前にうさぎさんの本を読んでいた頃からだから20年近くかな?考えてきた”死”についての想いと合致したんですよね。昔は死後の世界とか漠然とありそうなイメージがあったり、輪廻転生とかもなんとなく信じていたけど(文化的にそういうもので溢れているので刷り込まれているからね)、ここ数年、2~3年ぐらいかな?なんだか急にうさぎさんが体験したように、死んだら一切の暗闇、全くの無の世界になる。死後の世界、天国も地獄もない。ましてや生まれ変わりもないというのが、なんだろう? 別に死にかけた訳でもないのに、ふと確信に近い感覚でストンと頭の中に入って来たんですよね。それ以来、私もそう思っていて、今回うさぎさんが死後について語っている部分を読んだ時、あ~私の死後観は正解だったんだな~と、妙に納得できたんですよね。20年以上うさぎさんから離れていたのに、回りまわって同じところに到達していたみたいな感覚で、妙に親近感が上がってしまいました。でも死後の世界がある人、輪廻転生する人もいるのかもしれない。中国の奥地で死んだ人の足に書いた字と一緒の字が書かれた赤ん坊が生まれたみたいな話もありますもんね。でも私の死後は、一切の闇になって、全ては無になる…そういう気がします。


最後は、全然記事の内容とは関係ないけど(;^_^A、セバスチャン繋がりで、スペイン北部、バスク地方のサン・セバスチャンに行った時の写真など。

サンタ・マリア・デル・コロ大聖堂
バロック建築だそう。

美食の町、ピンチョス食べてバー巡り。バーで会ったスペイン人も気軽に声をかけてくれたり、個人的には凄くいい場所でした。

貝殻のような入り江のコンチャ湾をグルっとビーチが囲んでいる。

わかりにくいけど、奥の山の手前に小さな島があります。

入り江の端には小さな山があり(展望台があるからたぶん登れるんでしょうね。行ってないけど😅)、
入り江の出口付近に小さな島が浮かんでいる風光明媚な場所。

マリア・クリスティーナ橋
パリのアレクサンドル三世橋を模倣したものらしい。アールヌーボーなのかな?

旧市街は趣のある建物、新市街はスタイリッシュな近代建築。

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