他者のまなざしのない時間

 スタンドエフエムで収録をどうするか。ここで出来た生の人間関係はライブ配信で出来上がったもので、収録に手を出さなかったひとも知り合いには多い。見切り発車で始めたスタンドエフエムは、気が付けば自分の収録は自己の言語化の場となった。

誰がこれを見ているか、誰が傷つくかはあまり気にせず、気にしないようにできる限り振り切り、異物の咀嚼をスタエフを介して行った。誰か個人の愚痴や秘密は守るに越したことはないものの(さすがに秘密は漏らしていないが、この人秘密があるよは漏らしているかもしれない)、それすらも気にせず、他者の不快感の予感をできる限りシャットアウトして、自分の感情の純度を高める。

顔を知らないなりに人間関係をもつ以上、それらは漏らさないがいいに決まっている。自分の首を絞めるだけだと分かってはいるが、収録だけは自分の世界として守る。できる限りすべて出す。書き言葉で消化することがだんだん重くて辛くなり、話し言葉でするすると残せるあの場は、何かにぶつかって弱っているときにはありがたい。

しかし初めて2カ月目、そろそろ厳しくなってきたかもしれない。所詮は人間関係の狭さと薄さに許された初心者ボーナスだったのか。感情の言語化と他人からの信頼、これが妙実にシーソーになり始めた。

どっちを取るかはまだ決めかねているが、その終焉の始まりを昨夜遅くに感じ取れた。運よくまだ収録を撮りたくなるような氷山にはぶつかってはいないが、もしそうなったら。今までの居心地の良さと他者のまなざしをできる限りの排除を試み続けた場の継続、どちらを取るのだろうか。近い将来もう誰もいなくなってもおかしくない行動に乗り出すかもしれない。その時を迎えても、続けられるのか。自己の言語化はそれなりの快感を伴う行為ではあるが、ある種の痛みを伴う。私はそれを続けられるほどの人間なのだろうか。

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