言語哲学
研究や理解はおろか、基本的なことや基礎的な学習能力や知識すらもまだまだ過不足している自分にとって、「言語哲学」はまだ学ぶことは出来ないが、最近、やがて本格的かつ創造的に学習・研究するための、長期的な下準備に取り掛かり始めようと思い始めている。
言語は、「意思・意味・目的」(為)を以て、発したり、書いたりする音声や記号であるが、現代社会は、「言語の意味と存在の実態の不一致」が甚だしいと思う。この甚だしさは、残念ながら、ますます甚だしくなっていくことであろう。
在日ベトナム人として、本当に、深い孤独感と失望を積み重ね続けている。形式や名利ばかりで、誠意や本気の無い交流等が、これからますます激増していくことであろう。義理人情や相思相愛は無くなり、相互扶助や仁愛道義等も廃れてしまった・・・
元来の内容から生み出された形式から生み出された内容が、元来の内容に「空虚する」即ち「衰退や消滅等の変化」をもたしているからであろう。なぜなら、形式から生み出された内容から、「気」即ち「大自然の働き」が、元来の内容を奪っているからであろう。こうして、物が壊れ、事が終わっていくのであろう。
ベトナムの、美しき善き古徳はますます忘れ去られ、古き善き美徳はますます棄て去られていく中、自分は、「為」(意思・意味・目的)を誠にしていく中で、「無」(天)へと還っていき、こうして、「事」(精神)が「物」(脳)を形作り、「物」(脳)が「事」(行為)を創り、そこから、事(現実)が成り、それによって、「理が内容化して形式化する」(物事の筋道が生じて、出来上がっていく)のを学び知って、こうして、哲学者として、思想家として、小説家として、愛国者として、そして、社会の一員として、生命界の一者として、地球の一物として、時間の一事として、天命、そして、長い歴史を経て私達の人類の計り知れない程の奮励努力や創意工夫の思考や経験に因って発明されて、今日に至るまで、体系的かつ文化的に発展して継承され続けている「言語」を、学び活かしていきたい。