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『不正直』ヴー・チョン・フン短編翻訳(4)

 作家のT.L氏がある日私に語ったことだ。
「私の人生において、本当に愛したと言っていい女性が一人だけいる。彼女とともにしたあの二年間の生活は、まさに心が通い合っており、互いに情熱的であって、真の愛情というものを我々は感じていた。あの時の私は幸せの極点にあった。
 私は告白せねばなるまい。今日私が獲得した名誉は全て彼女のおかげであるということを。彼女との接点があったからこそ、私は筆を持つことができ、あふれんばかりの天来の感興を望めば得ることができたのだ。初めて彼女に出会った時、私はすぐに直感した。この女性こそ今まさに私が愛さねばならない対象なのだと。顔立ちは美麗にして品性があり、実に私の心を満たしてくれるものであった。私は彼女を愛せずにはいられなかったのだ。
 この女性は決して私を見捨てることはなかった。その場だけで終わるようなそんな関係はありえなかった。彼女は・・・、ベッドで横になっている私の腕に抱かれながら・・・そして死にゆくさまの中であっても、私を愛し続けてくれていたのだ。嗚呼、痛ましい過去だ!
 しかし愛情や悲しみだけではない、不意にあの女性を思い出す度に、私は怒りもまた感じるのである。記憶の中に彼女を見出そうとすれば、ありありと思い出せる。彼女の細かい仕草やそのしなやかな肉体、非対称に分けられた髪型、つぶやくように吐き出される彼女の柔らかい物言い、陶酔した両目、そしていつまでも私の脳裏に焼き付けられているのだ、全ての男どもを魅了してやまない豊満な女であったということを。あの女は私と夫婦でありながら、娼婦だったのだ!このことがまさに私の気を狂わせるのである。私はあの女に発狂させられる。『俺はお前が憎い!』と。
 ビック・ンガーというのが彼女から私に伝えた名であった。友人である女性宅で我々は互いに知りあうことができた。そこでは周りの人々から、彼女はタム・ンゴックと呼ばれていた。彼女は未亡人であった。彼の夫は公共事業に携わる官僚で、ある日彼女を遠くの深い山や谷があるフランス領内の地域まで一緒に行っていたそうだが、彼はそこの瘴気にやられて、彼女はそこで独り身になってしまったという。
 まあ、彼女もあまりに遠くまで行ってしまったようだから、当然のことであるともいえるが、話をする中で彼女は突拍子もない話を切り出すことがあった。『ある夕方、アンコールワットで・・・』あるいは『その日の早朝はルアンパバーン市で曲がりくねって流れるメコン川の上で・・・』とか、それ以外には、どこで何をしていたかなどは臆面にも出すことはなく、見たところ落ち着きのない様子も見られなかったが、深夜になれば、せかせかとどこかに行っては帰って来ていた。その女は元々フエの娘だったようだ。優雅な衣服を身に纏っていたし、振る舞いも堂々としたものであったから、彼女は今誰の妻なんだとか、将来どうするんだなんて野暮なことは誰も言わなかった。
 私が寝食も忘れて彼女のことばかりを考えているということに気づいた時、何よりも優先させて手に入れたいと欲したもの、それは彼女と結婚し、私の妻にすることであった。私は友人である女性に彼女との縁談を取り持ってほしいと頼み込んだが、その願いも失望に変わってしまった。彼女はすでに心の灯を消してしまっており、再婚するという選択肢は彼女の人生にはもう存在していなかったのだ。
 そうであれば、彼女のことなど忘れて、また新しい道を模索して生きていくのが道理である。しかし、どうしてそのようなことが当時の私にできただろうか。あの女のために尽くした若き恋慕に私は寝食の欲望を奪われ、あの日与えられた失望に私の心は浸食されたのだ。成すべきことも成せないままに、私は狂人となり、遠くへ・・・遠くへと旅立つことを思わずにいられなくなっていた。
 再度押し寄せてくる悲しみに身を任せながら、私は旅の支度をしていた。置かれたトランクやスーツケースは大きくその口を開き、遠くへと旅立たねばならない者の衣服やあらゆる細々としたものを飲み込んでいった。突然、戸がゆっくりと半開きになった。タム・ンゴックが悲しみを顔に浮かべて現れたのだ。
 そうだ、まさにビック・ンガーがそこに立っていたのだ。つぶやくように彼女は述べた。
『・・・これからサイゴンでお暮しになるとお聞きしました。その準備をされているのですね・・・』
『そうです。お別れの挨拶がまだでしたね』
 私はただゆっくりと冷ややかにそう述べたと思う。ビック・ンガーはその時小刻みに震えながら私に尋ねた。
『あなた・・・(嗚呼、どうしてこの女は私のことをそんな親しげに呼びかけたのだろうか!)、あなたは本当にどこかへ行ってしまうの?私、知っているのよ。あなたさまがとても苦しんでいることを。私から遠く離れていこうとしていることも、私に対する思い故なのでしょう。でも、私は。私も告白しなければなりません。私もあなたのことをお慕いしているのです、私のことを思って頂けることがとても嬉しいのです。でも、駄目なのです、私では、駄目なのです・・・未亡人だもの!』
 それは私と彼女が初めて向き合った瞬間だったのだ。彼女の痛ましい生い立ちを、彼女の口から初めて私に語ってくれたのだ。
 彼女の語りは実に、愛情とその裏切りを語る一冊の長い小説をめくるようなものであった。彼女の夫は悪手の飲んだくれで、よく彼女を殴ったという。三年が過ぎた頃、ようやく二人は別れることができた。彼女自身は幼いころから両親のいない所謂孤児であったため、父方の叔父に引き取られ、それはとても可愛がられたそうだ。その父方の叔父は現在、フエで官僚の職に就いているのであるが、彼女に足して無理やり婚姻を迫るようなところがあり、彼女もそれが嫌で、遂には怒ってハノイまで出てきたという。しかしハノイに行ったものの、誰かから招待されていたわけでもなかった。ハノイにいる肉親の姉はフウ・ヴィン・トゥオンの後妻となり、母方の叔父は現在教師をしていたが、すでに高齢であり、ハノイにある公立の学校で教えていた。昔から家の中で、彼については悪い話が交わされていたため、彼女にとって近い親族ではあったが、彼らの戸を叩くようなことは決してなかった。代わりにビック・ンガーは自らの経歴の悲しみを携えて、数年の月日を誰かと打ち明けることもせず、孤独に過ごしていた。自らを厚い殻で守り、本心を覆い隠すために派手な化粧を仕上げ、自らの内側を誰にも悟られまいと懸命に生きたのであった。
 しかし彼女は自らを惨めに思おうとも、決して他人をその渦中に巻き込むようなことはしなかった。彼女は元々の芸術や家事に長けていたため、富は自らで稼ぎ、職務に対する責任を持ち、家に縛られることなく自由に生き生きと過ごしてきたそうだ。現在では、高級官僚のお嬢様たちを相手に刺繍や料理、歌、楽器を教えて生計を立てているという。
 彼女の語った経歴を聞き、私は甚く感動した。ただ歓談の中において、彼女は必要以上にあることを繰り返し述べていた。それは、無邪気な女性たちに対しての嫉妬であった。

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