本や読み物についての偏った愛情を
本という存在がとにかく好きで、とりわけ大きな本が好き、持つのによいしょ、と言わなければならないほどの大きくて分厚いものなどは、無意味にひらいたりとじたり、うやうやしくページをめくってみたりしたくなるくらい、ときめきに満ちている。ひらくとちょうど顔が隠れるくらいの大きさの単行本も安心感があって好きだし、そうは言っても鞄にさっと入ってくれる文庫本の手なづけやすい小ささも好き。
本というものが、たくさんの紙を綴じてつくられていて、持つとある程度の質量を感じ、もちろん紙の匂いがする、ということも必須で、つまり電子書籍はどうしても、たのしみが9割くらい減ってしまう。では読み物自体の価値は残りの1割なのかといえばそれはまったく別問題であって(今は「読み物」ではなくその器である「本」の話をしています)、じゃあ残りの1割のたのしみは、、、「文字のならんだ様子」かなと思う。
話をすすめる前にまずひとつ言っておきたいのは、わたしはここでオーディオブックなどの「聞く」という形での本の読み方を否定するつもりはまったくないのです、私の、本や読み物に対するただの偏愛的な趣味としてこのコラムを読んでいただきたいと思います。
それで続きなのだけど、「文字のならんだ様子」が本の楽しみのひとつ、という点について、私はなぜだか「ひらがなづかい」に執着がある人間なのです。児童文学が好きだからなのか、それともひらがなが好きだから児童文学も好きなのかわからないけれど、漢字で表せるところをあえてひらがなで書く、というところにやたら惹かれるのです。それも、「これは漢字だけど、これはひらがなにするのかー」という絶妙な選択をされる作家さんがたまにいらして、そういう文章はほんとうに読んでいてうっとりするほど好き。ひらがなの響きとでもいうのか、いつも黙読するので「響き」というのは間違っているかもしれないけれど、文字の並びだけでも「響き」はあると思う。
「文学」は「文芸」と言われるくらいだから芸術の域に入るもので、その表現は種々様々だしどれが正解でどれが間違っているとも判断できないとして、それをどう読み、どう書くかは本人次第というのは周知の事実、そのうえで話は今、「器」である「本」から、徐々に「内容物」である「読み物」へ移っているわけですが、わたしはある一定の文章への偏愛が強すぎて(それは特定の作家や作品に限ったことではなく、文章そのものへの偏愛なのです)、そうでないものは全く読み進められないという非常に面倒くさい癖を持っており、それが最近さらに傾いてきた気がするのです。
メジャーなところで例えるならば樋口一葉のような、句点(文章のおわりのマル。)のない文章をはじめ、「これは日本語としてアリなのか!?」と思ってしまうようなあたりまで、もはやジャズの即興演奏を聴いていてよくある、「この音はわざと出した不快音なのか、それともただのミスタッチなのか、わからないけれど何度も聞いていたらカッコ良く思えてきた...」という感覚が読み物にも重なるのです(そうやって考えると、一葉は古典(クラシック)を網羅した上に成り立つモダンジャズのようなものではありませんか...)。
わたしの読書に対する偏愛をわかりやすくあらわすエピソードとしてひとつ、大人になって初めてシャーロック・ホームズを読むにあたり何冊かの翻訳を読み比べてみた時のことがあげられます、結果的に延原謙さんの翻訳(新潮文庫)に落ち着いたのですが、その際まず気に入ったのが、ほかの訳者さんが全員「翌朝、コーヒーとートーストの(で)朝食をとっていると...」と訳した(あくまでもわたしが読んだ中では皆さんそう訳されていた)一場面を、「翌朝、コーヒーでトーストをかじっていると...」と訳した一節でした。ほかの場面でも延原さんの翻訳にはそこここで、ちょっと独特なセンスがちりばめられていたのがすっかり気に入って、このシリーズで読むことに決めたのでした。
あぁ、読み物のことになるとつい長く書いてしまうのです、兎にも角にも、私は本に対しても、そこに書きつけてあることに対しても、深い愛情(それもかなり偏った愛)を持っているという話でした。