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光陰矢の如し、と年々思うようになってきた。ランダムな記憶を思い出しても数秒後には忘れて、またしばらくたったら思い出して、思い出す内容もあまり更新されなくなった。祈りだけが、未来へとつながっている。祈りが通じることが増えてきた。というか、最近分かってきたのである。そのようになると思っていなくても、心の中では思っているのだから、そうなるのである。言葉にならない思いというのは時間をかけて、現実に舞い降りる。
その様を眺めているうちに、光陰矢の如し。あっという間に寿命が尽きるのではないかと思う。
疲れているのか、そうでないのかあまりよくわからないが、横になっていたいときとどれだけ動いてもへっちゃらな時がある、それだけで。わかるというのは言葉にできるということであると思うから、言葉に最近できなくて、どんどんわかるの足掛かりを失っているんだと思う。人生がどんどん、あっという間になってきている。視認できないので、そもそも、とらえきれていない。
ただ生きているだけ、何事もなく過ごせているだけという。普通はこうなのかもしれないと思える。祈りさえしていればバックグラウンドの思考だけが生まれては消え生まれては消え、たまに昔を思い出して、目の前のことには集中しているような、していないような、だけど勝手に仕事が終わっているので、集中しているのである。次第に語れるようなことが、何か述べたいという気持ちが発生しなくなってくる。主張が、なくなる。ぬるま湯と、適度な多忙によって、人はそうなる。このバランスがいいと、このまま一生を終えられそうだと、思う。ただ生きているだけの人に自動的になる。幸福というのは、実際一番飾り気がなく、さっぱりとそこにあって、すべてが当たり前になるということなのだろうと思う。全部が特別でなくなる時が。
近頃外側の景色が見えなくなり自分の輪郭を失ったと思う。体感として最近は体の輪郭を感じない。これは比喩ではない。私が、私の感じる世界で当たり前になったのだろうと思う。
この違和感のなさというのは当然感覚にも影響を及ぼす。今まですべてがばらばらに、好き勝手反応していた五感が、統一されておかしくならなくなった。今までが明らかにしこりにまみれていたのだなと思う。体の輪郭を感じていた状態というのは平たく例えると乗りなれない乗り物を操縦している感じなのである。ハンドル、各種ペダル、スイッチ類などのあらゆる触り心地、シートの座り心地、固有のノイズ、視線、全部の感覚が慣れないのでいやに新鮮で、それぞれの感覚が、やけに強調される割に、車体の状態がどのようかは、まだ全然わからない、情報が統一されていないのである。
ここ一年くらいで、ようやく乗りなれたような感じがある。それから先述した幸福状態に入るまで時間はかからなかった。単純に、体の感覚がばらばらすぎて、操縦するのが大変で、私は早くこれから降りたいと思っていたのだろう。今になってようやく社会のことも分かってきたし、一息ついてる感じがする。
前がどうしてあんなに大変だったのかもう全然思い出せないし、その時もとりわけ幸福になりたいとかは思っていなかった気はするが、今のような巡航速度に入ることを密かに望んでいたような気もする。悪しきフィールアライブをもたらしていたのが、肉体への不慣れ感だったのだろうし、それがなくなれば、死ぬのと同じくらい救われた感じがするのであろう。