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<短編小説>ある朝公園にて

Hは毎朝愛犬のリリーを連れて小さな山の頂にある公園まで散歩するのが日課だった。
小高い山の頂にテーブルが少しあるだけのカフェのテラス席で)本を読むのが彼の唯一と言っていい楽しみで、短編なら2~3話、長編でも40ページほど読むのが何よりも好きだった。
天気の良い朝9時ごろなら園児のグループやジョガー、健康体操やウオーキングが本当に必要なのかどうか思わず疑ってしまうほど活動的で病院本来の目的のために病院に行ったほうがいいぞと言いたくなる老人が少しいるぐらいだ。
遠くに海が見え、コンビナートや外国の貨物船、海沿いを走る高速道路、埠頭にあるコンテナターミナルが見える。昔からこの辺に住んでいる元グループサウンズくずれのロック爺さん達などはこのターミナルのことをキリンと呼んでいる。哀しいことに本人達はまだ老人とは思っておらず髪は腰まである長髪なのだが天辺は薄くなっている、というか全く「無い」状態になっているのだが、機能しないくせに性欲は衰えずまだまだ女を抱きたいと思ってる。そんな奴らでもたまにはいいことを言う。確かにターミナルの形は可愛らしいキリンそっくりだ。
ホットコーヒーとシナモンクッキーを注文するとウェイトレスが「アンタンデュ、ムッシュ」と答えた。思わずこの一発で変換できない単語を調べ「かしこまりました」という意味なんだと確認したあと、フレンチレストランのアボイエ、つまりウェイトレスをやってたんだなと思った。
静かな風に揺れる樹木の枝がかすかに触れ合う音を聴きながらヘミングウェイの短編などを読んでいると「こういうのを本当の幸せというのかな」と柄にもなく思ったりした。
こんな平和な場所にいると、最近報道番組でよく見かける強烈にアーティスティックな洋服を着て髪を真っ白に染め、明らかに視聴者の受けを狙いあわよくばインフルエンサーになって金を稼ごうとしているのがみえみえの大学教授と称するコメンテーターがもっともらしく話している国際問題や才能が1mmもないというか基本的にどうしようもなく頭の悪い芸人がわかったような口をきいている政治家のスキャンダル、30年ほど前に切り口が一般人よりほんの少しだけ変わっていたがその後持ち上げられて毎晩パーティーで酒を飲み過ぎ肝臓を悪くし、今や全く勉強不足で目もあてられられなくなり何かいうたびにSNSで炎上してしまう既に人生を終えてしまったかのような経済評論家が話す景気問題など、まるでルイス・ブニュエルのドタバタ喜劇のような世界が全く嘘のようだ。(ちなみにブニュエルはHが好きな映画監督ベスト5に入る。)

「死の刻印を押された男」というこのうららかな小春日和の日に全く似つかわしくないタイトルを読み終えたあとアリーが話しかけてきた。
アリーとはエジプト人と日本人のハーフで腰まで伸ばした髪と180cm近い大柄な体格で、なぜだかわからないが目が見えないガルーシャというドーベルマン犬を連れてよくこの公園を散歩している。何の仕事をしているかは知らない。Hとは犬友と呼ばれる間柄では勘太郎ちゃんのパパ、ピッピのママというのが罷り通り名前など知らないことが多いこの世界では珍しく名前を知っている。
彼もこのカフェをよく利用するので以前席が隣になったときに自然と話をすることがあって偶然名前を聞いただけだ。
もともとHはアリーを避けていた。以前アリーが別れた女と偶然この公園で鉢合わせしたときにものすごい怒号を飛ばし警察が飛んできたことがあった。つまりこいつは何かの拍子で切れると手がつけられなくなる男なんだということがわかった。普段、つまり機嫌がいい時はいいや奴なんだが。
「リリーはいくつになったんだい?」アリーは優しく微笑みながらHに聞いた。
「もう6歳だよ」今日は機嫌がいいんだなとわかりHは安心して答えた。
「そうか、早いね。初めて会った時からもう6年になるんだね」
「ああ、そのぶんオレ達も歳をとったってことさ」
「ははは、そうだね」アリーは極めて紳士的に笑いながら行った。
「犬の年齢は人に換算すると6歳なら40歳ぐらいだね」
「40歳か、もうすぐ追い抜かれちゃうね。あまり考えたくないが」
そうだ、起こって欲しくない未来のことをあれこれ考えることほどメンタルに悪いものはない。だいたい解決法などないことにあれこれ思い悩むのは思い悩むことが好きなメンヘルでしかない。そしてこれほど小春日和の公園に似つかわしくないものはない。他人の噂話や芸能人のゴシップと同じレベルの話題はこのシチュエーションで出てこない。それは偉大なる自然のパワー所以だ。
ここではとりとめのない平和な会話が続くだけ、それでいいんだ。当たり前だが平和はいいことだ。
会話が途切れたのでHは視線を海に戻した。ギリシャの貨物船はどこかに行ってしまった。会話が止まっても4分休符が何小節か続いた後
「じゃ、またね」座っていても鋭い視線を崩さないアリーはガルーシャを連れて歩いていった。
まだ11時を少し回った程度の午前中だがHはフレンチワインが飲みたくなりウェイトレス、いやアボイエに注文した。
彼女は高級フレンチレストランででしか見られないような笑顔と完全なホスピタリティで言った。
「ムシュー、当店にはワインは置いてありません」彼女は悲しそうにそして申し訳なさそうに言った。
Hはフランス映画「死刑台のエレベーター」の冒頭でジャンヌ・モローが悲しそうに呟くシーンを思い出してしまった。
「その代わりと言っては何ですがムッシュ、この時期限定のクッキーセットはいかがでしょう」
「いいね、それにしよう。カフェオレもつけてね」
「アンタンデュ、ムッシュ」ウェイトレス、、、いやアボイエは優しく微笑みながら言った。
Hの中で彼女がジャンヌ・モローに変換された姿は美しかった。Hはジャン・ポール・ベルモンドになろうと決めスマホで検索し始めた。
すると丁重に頭を下げる教育委員会のお偉い方々の写真が飛び込んできて
“校長室の金庫から現金30万を盗む小学校の教師が懲戒免職。「ギャンブルや風俗で遊ぶために使った」”というタイトルのニュースが飛び込んできた。
ついつい引き込まれそうになるこの魅惑的なタイトルの誘惑をなんとか無視したが何だか絶望的な気持ちになってしまった。
Hは公園から見えるこの景色に目を戻し思った。
だが、この太陽の光と青空と心地よい風があってそれを眺めていられるならどうして絶望などすることがあるのだろうか、と。


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