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映画『ルックバック』

ルックバックを観て、「なんか良かった」で終わらせたくない。そう思ったので、いろいろと咀嚼してみることにした。

映画が終わってすぐに本屋に駆け込んだが、原作漫画のルックバックはすべて売り切れ。あまつさえ通販最大手のAmazonですら完売になっていた。困っていたところ、行きつけの飲食店の棚に置いてあるのを発見し、店主に許可を取って数日間借りることにした。

漫画を読み進めていると、映画がかなり原作の味を損なわずに描かれていることがわかった。漫画時点でも相当の完成度だ、映画はそれに対してより世界観を広げるような演出を行っているが(たとえば冒頭の4コマのシーンなどだ)、人によってはそれが蛇足に感じてしまうかもしれない。ただしそれも読み比べなければ気づかないくらいのことで、単体の映画として見ても素晴らしい完成度だったことは確かだろう。




IFストーリーはなんだったのか

映画を見ていて一番気になったのはここだった。もちろんこの作品自体がフィクションではあるのだが、それまで十分に映画的だった展開の中で、突然空手少女藤野が助けに来るシーンは、非常に「漫画的」な(コミカルな)展開に感じられた。違和感にも近い。
このため、IFストーリーのシーンは「もし京本が死ななかったら」という救いのあるパラレルワールドを観客に提示されているのか、それとも(前後関係はあるにしろ)絶望の中で藤野が見た妄想だったのか、で言うと、後者に近い印象を受けていた。これについて、原作漫画を読むことで私はほぼ確信に近いと思えるようになる。

原作漫画と映画で決定的に違う点がある。それは、原作が一貫して藤野の視点から描かれているのに比べ、映画では何か所か京本の視点が追加されていることである。
原作では、藤野を通して読者はすべての情報を得る。小学校のころ藤野の4コマ漫画がまわりからチヤホヤされていること。京本という不登校の生徒がいるらしいこと。京本がめちゃくちゃ絵がうまいこと、京本から不登校になった理由を語られること、連載作家デビューを目前に、実は京本が美術大学を目指したいと思っているのを打ち明けられたこと。そして事件のこと…
もし完全なダブル主人公であれば、京本が不登校になるきっかけとなったシーンや、背景美術にのめりこんでだんだんと藤野とは違う未来を夢見始めること、そして美術大学に通いだして大学生活を送っているシーンが、もっと京本の視点から語られても良いはずだ。だがあるシーンを覗き、そういうことが原作にはない。
あるシーンとは、京本が死ななかった世界、つまりIFストーリーのシーンのことだ。あのシーンだけが、完全に京本の視点で描かれている。これを「藤野が考えた京本の話」というとらえ方をすると、京本の視点に見えて実は藤野の視点だったとしても説明がつく。何より、仲間のピンチに対して自分が助けに現れるという展開は、小学生男子ならだれもが妄想しうるものだ(が、藤野は女性であるし20歳前後なんだよな。ただ彼女自身がすごく少年っぽい気質であることと、連載している漫画もジャンプで少年漫画なので、特に無理は感じない)。

IFストーリーが藤野の考えた話だったと思う理由は他にもある。どんな経緯にせよ、京本の部屋の前で座り込んでいた藤野の前に、京本が描いたと思われる4コマが滑り落ちてくる。驚いてドアを開けると、京本の部屋の開いた窓から吹き込んだ風が、窓に貼っている4コマのひとつを飛ばしてきたようだった。実はこのシーンで、窓に8つの4コマ漫画を張り付けてある形跡がある(というのは実際には7つで、一つ分飛ばされたと思われるスペースが空いている)。現実の世界では、京本は4コマを描いていたのだ!「実際には」この4コマが飛ばされてきたのだと思うに足るが、一方でIFストーリーがパラレルワールドであったとしてもここでは否定しない。

京本の部屋で

京本の部屋に入り、いくつかの描写によって京本のことが明らかになる。コンビを解消したあとも、藤野の漫画本を買っていたこと(しかも、同じ巻が複数ある。買うことにより応援していたと思われる)、アンケート用紙が机の上に置いてあること(これもアンケートによる人気投票が漫画の順位に大きく関わるジャンプにおいては重要なことだろう)、そして藤野が振り返ると(ルックバック)、小学生の時に藤野にサインをもらった半纏が大きく見えるように飾ってあった。京本は昔から今までずっと藤野の第一のファンであったのだ。藤野は、「なぜ漫画を描くのか?」と京本に言われたこと、続けて自身の第一のファンであり、読者だった京本が、自分の描いた漫画で泣いたり笑ったりしてくれた表情を思い出す。その後、暗い京本の部屋で小さく座り込んだ藤野が泣きながら読んでいたのは、自身の描いた漫画シャークキックであり、「続きは12巻で」という文字であった。自身のファンでいてくれた京本がどんな気持ちで自分の漫画を読んでくれていたのか。京本がもうシャークキックの続きを読むことが出来ないこと。ここで初めて、藤野は京本の立場になって考える。このときに想像したのが、京本の視点でのIFストーリーだったのではないかと私は考えた。

後悔と創作への無力感

時系列を戻す。
京本の葬式に来た藤野は、京本の部屋の前で昔京本を部屋から出すきっかけとなった、自身の描いた4コマを発見する。これにより、あのとき自分が京本を外に出さなければ、京本は死ななかったのではないかと思い当たり、藤野は崩れ落ちる。このときの藤野の言葉は、ルックバックという作品そのもののテーマでありながら、切実なラストへと向かわせる言葉である。

「描いても何も役に立たないのに…」

このとき、藤野の創作への意欲は一度死んでいる。
どんなに世間的な人気を得たとしても、自分の創作が親友の死のトリガーとなっていたとしたら…?
ここまでの話の流れから藤野がそう思うのも無理はないかもしれないが、一般的に言うとこの考え方は傲慢ですらある。また、セリフの表現についても不思議に思う。もし、描いたことが藤野の死の原因だと思っているのなら、「あのとき描かなければよかったのに…」というような言葉の方がシーンに合っている。これを不思議に思い調べてみたところ、どうもこれは作者の藤本タツキ先生がルックバックを描いた根本に関わるセリフのようだ。

これはネットで読んだ話なのだが(もしパンフレットなどが手に入るならあとでちゃんと訂正したいのでふんわりの理解です)、作者の藤本タツキ先生は、この話を描いたきっかけを次のような趣旨で語っているようだ。東日本大震災などの自分ではどうしようもないことが起こるたび、創作のむなしさや無力さに打ちひしがれる。そのような思いを消化するために描いた、と。

もちろん、現実にもクリエイターが被害者となるようないくつかの事件もこの作品を見ることで思い当たったりするし、そうしたことのたびに、絵を描くこと(より一般化するなら芸術活動全般)がそれらを予防・阻止したり、または復旧復興の力になれないことに無力感を感じていたということなのだろう。

「描いても何も役に立たないのに…」

描くことは、壊れた道路を直さない。建物を建てることもないし、傷ついた被害者を物理的に癒すこともできない。直接的には何の役にも立たないのだ。
そうしたことを表現するために、ルックバックの物語の全ては構成されている。クリエイターとしての始まりと高まり、ライバルの出現と親友としての励まし、別離。絶望。
したがって、自分がこれまで信じてきた自身の行動が親友の命を救わず、あまつさえ親友が死ぬ遠因になっていたとしたら。このときの藤野の絶望は計り知れない。

ただ、藤野はこの後京本の部屋に入り、次に出てくるころには、創作意欲が息を吹き返している。この短時間のあいだにそれだけの大きな出来事があったということだ。では、最後にまた、京本の部屋に入るとしよう。

背中を見て

京本の部屋の窓に貼られた8編の4コマ。
何気ない描写であるが、よく考えてみると衝撃の事実だ。
京本がストーリーを描いている!!!
これまで背景美術しか描いてこなかった京本が、物語を描いているのである。その中の一つが藤野も登場する4コマ「背中を見て」だと思うと、京本がいかに藤野からの影響を受けていたかがうかがい知れ、感慨深いものがある。劇中でも、「ルックバック」というタイトルになぞらえてひたすら机に向かう藤野の姿が描かれる。京本と過ごした日々の中でも、藤野の背中を見ていたのは京本だった。
もし、二人が物語上で対等な扱いであれば、コタツ机で向かい合わせになるシーンがあっても良かったはずだ。だが、部屋の配置をあのようにし、ただ京本が藤野の背中を見る構図を描いたのは藤本タツキ先生だ。
このことから、対等に見えた二人の関係にあっても、京本はずっと藤野に憧れ続けていたことがわかる。
京本が描いた4コマ「背中を見て」では、京本がピンチに陥った時にもきっと藤野が助けに来てくれること、そんな藤野は実は自分が傷つくことも厭わず強がっていることもわかっていた。

そんな京本をよそに、藤野は京本の背中を意識したことが無かった。
ここに来て初めて、京本が半纏でその背中に自分の名前を背負っていたことを知る。初めて京本の背中を見たわけだ。
藤野は、京本目線で自身の漫画「シャークキック」を読み直し涙を流すが、それ以外にも部屋にあったたくさんの京本のスケッチブックを開いてみたのではないだろうか。その中で、自身がさきほど思った「自分が部屋から連れ出さなければ、京本は死ななかったのではないか」という傲慢な疑問は否定される。

京本なら、自分が連れ出さなくてもいずれ部屋から出ていた。自分がいろんなところに連れ出さなくても背景美術に魅せられていたし、自分で美術大学に進んだはずだ。
だが、そうなると結局あの事件には巻き込まれてしまう。
なら、そのときの自分がきっと助けに行って、二人がまた出会えればいいな…

そうして出来た物語が、あのIFストーリー(創作)なのではないかと私は解釈した。それはただの妄想ではなく、違う世界にあっても二人が創作を続けていくこと、そして京本の理不尽な死は決して自分のせいではなかったということ、京本のピンチにはきっと駆け付けたかったという思い、そうした藤野が京本の部屋で願ったことだったのではないかと思う。

そのうえで、藤野の一番のファンであり読者だった京本の気持ちに報いるためにも、藤野が描き続けるという道を選ぶラストに繋がった。小学校の頃のライバル出現やなんやかんやがわかりやすく共感されがちな物語だと思うが、この物語の真の挫折と救済は、このラストシーンなのだということが私が一番感じたことである。

「描いても何も役に立たないのに…」

本当にそうだろうか、とルックバックの物語は私たちに問いかける。
描くことは、人の心を動かす。
少なくとも、藤野が描いたことは京本の心を動かし、部屋から飛び出させ、二人のかけがえのない思い出になった。描いたことは京本が命を落とすことを防ぐためには役に立たなかった。だが、描かなければ得られないものがあったし、描いたことが自分や京本の生き方を変えた。
直接は役に立たなくても、その行為は今までの自分を形作った。
描くことが役に立たないと思うことはきっとこれからもある。
でもそのたびに、藤野は京本の顔を思い出し、続けていくのだろうと思う。

補足

以上が私が感じたルックバックの話だが、これはあくまで私の考えであり、それぞれが受け取った解釈でいいと思う。
とくに、IFストーリーが救いのあるパラレルワールドであってもいいと思うのは、映画版で京本の視点がいくつか追加されていたからだ。これがあったことで、京本の主人公の一人としての主張が強くなり、IFストーリーが「藤野の想像」でなく、別世界の京本が本当に体験した話として存在していてもいいように感じている。これは、映画製作の段階で意図的に行われているような気がする。もちろん、映画がパラレルワールド説濃厚だからといって、藤野の想像説が消え去るわけでもない。
物語は、ストーリーの核心を変えすぎない範囲で自由に想像を膨らませてもいいというのが大事なところだ。

まとめ

「原作は当時読んだけど、内容はうろ覚えなので改めて映画を観に行こうかな」という人が周りに何人かいた。感動した、すごかった、というわりに印象に残りづらい話だったのではないかと思う。
何に感動したのか。心を乱された理由はなにか。そういうことをきっかけに改めて物語を振り返った時、この物語を通して作者が我々に伝えたかったことがやっとわかってくるような作品だった。
映画版は、特にその理解を助ける。ぜひ、一度観た人も自分なりの解釈をして、伝えてほしいと思う。

もう一度観に行きたいな。

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