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〈note | 食の変容#5〉「飢餓(きが)」

べじです。

飢餓(きが)。
小さいときに、親からご飯を「食べられない人」がいるんだから、残さないで食べないとだめだよって。
よく言われていました。

小さいときの親の小言がやっぱりしみついていたのでしょうね。
自分の子どもにも、同じようなことを言っていました。

「食べられない人」がいるんだから、残さないで食べないとだめだよって。

離乳食が終わって、物事も少しわかってきた小さい自分の子どもに何かいもね。

ご飯茶碗についた、残りわずかの米粒。

この米粒を食べてもらう。っていう動機も同じような感じでね。
当時は、3秒程度で飢餓などによって人がなくっているという情報があたまに残っています。
(今は、5秒に一人が亡くなっているようです)

時計の秒針を数えて「この3秒で人が亡くなっちゃったよ」って。
今、ご飯を食べられているんだから「最後までちゃんと食べようね」って。

そしたら、娘は「じゃあ、ご飯集まれ~して」って、言ってきたんです。

どうやら、お茶碗についたご飯をひとつぶ、ひとつぶ箸でつまんで食べることがめんどくさかったのでしょうね。笑

それから、ご飯の最後になると「集まれして」が合言葉みたいなっていたのが、思い出されます笑

これを教育というのか、しつけというのか、やり方というのか、表現はよくわかりませんが。

高2になった娘は、未だに小さい頃の

「この3秒で人が亡くなっちゃったよ」だから「最後までちゃんと食べようね」

っていう言葉がトラウマみたいになってしまっているようです。
(申し訳ない気持ちがあります)

でも、こんな話もしてきました。

高校でお昼ご飯を食べていると、娘に対して友達が

すごくキレイにご飯たべるよねって

娘は「え?」普通じゃない?と言って

だって、「食べられない人」がいるんだよ

って返すそうです。

トラウマになっているのか、いい方向に向いたのかこれまたよくわりませんが、堂々と友達に言えることはたいしたもんだと思いました。


ここまで読んでいたただいて、どう感じました?



もしかしたら、一歩間違えたら”虐待”になるかもしれない。とぼくは感じましたし、娘はトラウマとは言いませんでしたがぼくが感じたものは、
「トラウマ」になってしまったな。でした。

小学校のときに、お昼ご飯でどうしても食べられない子がいて、全部食べ終わるまで、ごちそうさまができなった。
昼休みが終わり、掃除の時間になっても、箸を動かすこと、口を動かすことすらせず。
だまって、下を向いていたり、泣いている子もいました。

食べ物を大事に食べるということ

そもそも「飢餓」というのは、以下のようなことで例えることができます。


穀物(米、小麦など)が十分に収穫できなくなること。


野菜(葉菜類、果菜類、根菜類)などが十分に収穫できなくなること。

これら、2つの作物は人にが生きていくうえでとても重要なものですよね。
穀物で言えば、いつも食べるご飯やパンです。
お酒なんかも穀物から作られます。

野菜で言えば、人の身体(体調)を整えるうえで一番重要なものです。
ビタミン摂取で肌健康を整えたり、抗酸化作用を得たりと。

この2つが、十分に収穫できなくなると「飢餓」が起こり、今まで残していても問題がなかった「食」が十分に得ることができなくなるのですよね。

食べ物を大事に食べないということ

すごく客観的なお話になると思いますが、やはり無駄に「食」が溢れかえってしまっているんだと思うんです。

例えばこんな感じに。

別に一口、二口食べてみて、気に入らなければ違うものを食べればよい。


好きなものを好きなだけ食べればよい。

でもそうではない。
冒頭のお話しでは、食べ物が食べられるか、食べられないかで
人が生きるのか、死ぬのかでした。
たしかに、この考え方も大事です。

しかし、この「食べられる人」、「食べられない人」の根底には何があるのでしょうか。

人間という自己都合の塊がそうさせている

日本で言えば、食文化の多様化から自国で生産できる穀物や野菜、食肉をはるかに超えた量を必要とするために、他国の土地を利用し栽培、または飼育して輸入している。

当然、政治的なものもあると思います。
ニーズがある国、そして金払いのいい国に輸出するというのは100歩譲って大人の事情としておきます。

食の多様化のニーズにこたえるため、他国からたくさん輸入している結果は

食ロス 年間 約600万t。

正直、やりすぎです。

そして600万tって実際の量は全然想像つきませんが、とりあえずこの食ロスがほぼほぼ日本からなくるとしたら、「食べられない人」という人が、ひとりでもふたりでも減ることは容易に想像がつきます。

そのうちしっぺ返しがくる

日本に限らず、地球という土地を借りて人がいきための「食」を生産しているわけです。
何事にも限界があるように、地球にも限界がくるのでしょう。
だからSGDsのような「持続可能な・・・」という言葉が出てくるのだと思います。

だって、梅雨の時期に大雨で避難勧告がでるようなことがなかったし
毎年のように30度を超えて暑くなる夏もそう。

少しずつ、地球が悲鳴をあげはじめているのは確かです。

こうなってくると、今から「食べられる」ことを考えておく必要がありますね。

そして、あのときのお茶碗についた一粒のご飯粒

食べておけばよかった

って思わないためにも。


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