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私のキェルケゴール

皆さんは、セーレン・キェルケゴール(デンマーク、1813~1855)という哲学者の名前を聞いたことぐらいはあるかもしれない。
私がブログを始めるにあたって、彼に倣(なら)っていることを、僭越ながらここに書こう。
私にはキェルケゴールに深い思い入れがある。

ウィキペディアの彼の項にその片鱗が載っているので引いてみる。

キェルケゴールの初期の著作の多くはさまざまな仮名を使って書かれている。また、ある仮名の著者が、それ以前に書かれた作品の(これまた)仮名の著者に対してコメントすることもしばしばあった(最も顕著なのは『哲学的断片への結びとしての後書き』だろう)。もちろんすべての著作はキェルケゴールによって書かれたわけだが、そのさまざまな仮名使用のため彼の著作は一貫した解釈が難しいことがある。キェルケゴールはそのかたわらで本名での著作も発表しており、彼自身は再三、偽名の著者たちと自分を取り違えないでほしい、と主張していた(云々)

「実存主義」の思想家として名高いキェルケゴールであるが、その短い生涯において、彼はいったい何を思想として残したのか?
ヘーゲルに相対して語られることが多い彼だけれど、そういう難しい思弁は、ひとまず置くとして、彼の恋愛について語っておくのも理解を助けるだろう。
キェルケゴールは「形式」を嫌ったと言われる。
それは恋愛でもそうなのかもしれない。
彼は、デンマーク教会が「形式主義に偏(かたよ)って、本質を見失っている」と厳しく批判しつつこの世を去ったと言われる。
遡(さかのぼ)って、キェルケゴールが、二十七歳のころ、わずか十七歳のレギーネ・オールセンに求婚し、彼女が受け入れてくれたのにもかかわらず、一方的に彼の方から婚約を破棄しているのだ。
これは彼の残した日記(『あれかーこれか』)に収録されているだけなので推測するほかないのだが、おそらく「性的な何か」が原因ではないかと、私は思うのである。
とはいえ、レギーネとキェルケゴールはその後も、つき合っていたらしいのである。
レギーネは別の男性と結婚したのだが、キェルケゴールはレギーネと密会を重ねていたらしいことがレギーネ側の記録でほのめかされている。

私は「性的な何か」が、レギーネにあり、彼女が歳のわりに淫乱だったからではなかろうかと思っている。婚約を申し入れた時に、レギーネがすでに処女ではなかったとか。しかしキェルケゴールも彼女に溺れていたから関係が続いたのだろう。
キェルケゴールは彼女に「比べられた」と思ったのだろう。

敬虔なクリスチャンだったキェルケゴールの父は、二度目の結婚で子宝に恵まれ、その末っ子がセーレン・キェルケゴールだった。
しかし、父の二度目の妻アーネには、キェルケゴールの父が強姦したのちに婚姻しているという秘密があった。
そして息子のセーレンが、父の罪を知ってしまうのである。
「お前は、私の罪深い行いによって、イエス・キリストのように三十四歳で死ぬだろう」と父は息子に告白するのである。
セーレン・キェルケゴール、二十二歳のことだった。
そのとき、彼は童貞だった。
「おお神よ。許したまえ」

確かに、彼の兄弟は若くして死んでしまっていた。

セーレン・キェルケゴールの心の病は深く、また、それが「実存主義」を創始する原動力にもなったのだ。(サルトルの『実存主義とは何か』参照)

「しばらく二人で黙っているといい。その沈黙に耐えられる関係かどうかがわかるだろう」
このキェルケゴールの言葉を、恋愛中の男女に試してもらいたいものだ。

「人生の始まりにおいて最大の危機は、リスクを冒さないことだ」
という言葉も、私たちのような老境の人間ではなく、若い人に贈りたい。
老い先短い人間が「冒険心」を起こすとろくなことはないが、若者がリスクを冒すことを恐れていては、先は暗い。
我々老人は、喜んで彼らの「踏み台」になってやらねばならない。

「もしあなたが、私にレッテルを貼るならば、それは私の存在を否定することになる」
Once you label me you negate me!

この実存主義の真骨頂たるキェルケゴールの言葉は重い。
私の最も言いたい言葉はこれに尽きる。


かようにキェルケゴールは多くの示唆に富む言葉を残している。
彼の提唱した「実存主義」は人間の存在(私の、あなたの存在)を認めることで、争いを無くし、恐怖から逃れ、幸福を追い求める、人間らしい生き方を肯定する思想だ。彼の思想はサルトルによってさらに高みに到達するのである。そのために人類が「世界大戦」を経験しなければならなかったのは、悲しいことである。

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