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オモダル神

『古事記』(倉野憲司校注)を開いていると、気になる神様がいた。
「神代七代(かみよしちだい)」の部分に「於母陀流神(おもだるのかみ)」とその妹「阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)」の二柱の神の記述があったのだ。
註には、「人体の完成と意識の発生の神格化か」と疑問形で書かれていた。
国産み神話以前の神々に属する二柱であり、天つ神(高天原の神々)のうち、独神(ひとりがみ)以外の、男女が対になった神々の始まりであるようだ。

一説に、生殖器崇拝の神々が「於母陀流神」と「阿夜訶志古泥神」だという説がある。
男神「於母陀流」が『日本書紀』では「面足」と書かれ、容貌が優れて完成された「男」を意味し、それは「すばらしい男根」の持ち主だというのだ。
一方で、「阿夜訶志古泥」には、そのような性的な意味はなく、精神的な成熟を神格化したものと受け取れるのだが、「面足」に対して「完全なる女陰」として神格化にされてしまったらしい。

男根(ペニス)を神格化すること自体、オリエントから東アジア一帯に普遍的に存在するアニミズムである。
有史以前、人類は子孫繁栄を目的として、動物界の一員の例にもれず生きてきた。
生殖の神秘は、霊長類の頂点たるヒトにとって最大の関心ごとだった。
身近に、植物が花を咲かせ、タネを飛ばして殖えていくことと、動物が「交尾」して孕むこととの連想はあったのかもしれない。
そして自分たちも同じようにして母から生まれたのではないか?と原始的帰納法によって生殖の神秘に触れ、神格化するようになったのだろう。
知恵あるヒトにとって、もっとも神秘的なのは父の存在だ。つまり「男」なくしては「母」が孕むことがないのである。
その「男」には「勃起した男根」があり、それが備わっていない幼児や老人は「女」にとって性の対象ではないのである。
イザナギとイザナミの「恋の掛け合い(歌垣の元祖)」で「まぐわい(性交)」にいたる記述が『古事記』に出てくる。

オモダル神は、そういった「完全なる男性」の象徴(神格化)であろうというのが学者の見立てなのだった。
アヤカシコネ神は、残念ながらオモダル神の付属的な意味合いらしいが、「意識の発生」という苦しい解釈から、たとえばイザナミ(女神)からイザナギ(男神)を誘って性交に導くことは「はしたない」ことで、そのようにして生まれた子は不具になるという、原始道徳が「意識の発生」だと解釈できなくもない。
性交には、お互いの「気持ち」が大切なのだと、古代人は説いているのだ。
「愛」などという概念がまだなかった古代日本に、「アヤカシコネ」という女神、言わば「つつしみ」の女神を創造したことは、なかなか高い道徳心だと私は思う。

どうしても目立つ「男根」が神格化され、偶像として、後の「金精様」を生みだすのはわかりやすいが、女陰はそうではない。
偶像化しにくい。
「縄文のヴィーナス」と呼ばれた国宝の土偶は、そういった抽象を、完全なる女として見事に具象化した。
豊かな胸や尻、肥えた体は、多産をイメージさせ、「アヤカシコネ」という神の容(かたち)が人々の共通認識になっていったのだろう。一種のトレンドだ。

男根を間近に見ることができるのは、ほかでもない女なのである。
男が、男同士で見せ合うなどというシチュエーションがないではないが、一般的ではない。
むしろ、女陰を間近で見るのが男だということと同じことだ。
女は、鏡でも用いない限り、膣やら陰核を見ることはない。
ところが、男はそれをかき回し、つまみ、吸いたおすのだから、かなり至近距離で「部分」をご覧になっている。
やめてくれと言っても、やめてくれないのだから…
持ち主よりもよく観察しておられるはずだ。

男根が神格化されやすいのはそういった外観が特徴的だからだろう。
普段は小さく隠れているものが、いざという時に、何倍も大きくなり、まったく違う様相を見せて女に挑んでくるのだから、男のみならず女にとっても驚きなのである。
「旬」を迎えた勃起は、ほれぼれするはずだ。
子どもの勃起を見せられ、女は母性をくすぐられはするが、性欲は感じない。
「あらあら、かわいいわね。おしっこ溜まってるのかしら?」

ところがどうだ?男のはちきれそうな勃起を見せられたら、股を濡らして、開脚するほかないのである。
「オモダル神様ぁ」

お粗末さまでした。

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