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稲荷神社と狐たち

狐(き・つ・ね)の由来(ホツマツタヱ)

ホツマツタヱによると、アマテル神に対する叛乱(ハタレの乱)が全国的に広がり、調査によると反乱軍は六種のハタレからなっていました。彼らは動物の霊に支配されていると考えられ、その一つが「キク道」のハタレでした。

(4) キク道:筑紫・ハナヤマ(九州地方)の勢力。
  狐の霊力を持つ。
  総勢:33万人

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

(4) キク道
その後、再び筑紫国(つくしのくに)のハタレ三名が中国(なかくに:近畿地方)のハナヤマ(京都府山科区花山)の野に仲間を集め始めた。
その知らせに天照神は荷田麿(かだまろ:中国の責任者で元農政大臣・保食神の孫、娘味子は天照神の后で北の御下)に様子を偵察させた。
荷田麿命が花山の野に来てみるとハタレは妖術を使い、辺り一面に菊の花を咲かせていました。
ココサワ(狐沢)を進むと囮の姫が現れたり、叢雲(むらくも)が突然湧き起こったり、蛍火を現してあざけ笑います。
彼らはさらに怒り火の青魂(あおたま)を吐くに至り、それ以上進むことができませんでした。
そこで、荷田麿命は伊雑宮(いざわのみや)に戻り天照神の指示を待ちました。天照神は暫く考えた後、次のように詔されました。

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

き・つ・ねの由来です。天照大御神が、「きつね」の名付け親ということになっているようです。

(原文)    (訳文)
きつねとは    キツネの
はねよりなる  は木(き)である。
さおへて    彼らはサ(冬)中、
にきてすめる  (根・寝)に来て(穴を掘って)住んでいたから
         お腹を空かしている。
ねすみおば    それ故、ネズミを
あぶらにあげて  油揚げにして
いとふべし    与えれば
くはちとたがふ  食べようとしてたかるであろう。
くはきうの    夢中になって食べているところへ
をのほをいとふ  火のついた穂を与えてやれ。

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

荷田麿命は、ハチカミ(地方豪族の頭目)であるヲガ・メガ・フスベを残滅しようと天照神の詔を全軍に周知させて野戦場にやって来た。
ところが、これら三人のハタレは変身して菊の花となって咲き乱れ、何重にも変化して神軍を驚かす。
そこで荷田麿命が揚げネズミを投げるとハタレ菊の民たちは、それを奪い取り貪り始めたので、神軍の諸将は勢い強く戦うとハタレは動揺して逃げ始めた。
これを追いつめて千人を捕らえ斬り殺そうとすると全員(ふつく)泣き喚いて「われらは心を入れ替え天照神の民としてお仕えしますので、命ばかりはお助けください。」と命乞いをした。
荷田麿命は皆を解き許した後、命令(サワ)して藁縄を綯(な)わせた。
そして頭目を捕らえようとメガ達を燻(いぶ)すと動揺し始めたので、さらに戦い追いつめて前例の如く悉く捕らえた。
三ハタレも遂に追い詰め藁縄で縛り上げた。
そして野に三里に渡って網を張り、キクツネ(菊道の一族)達を全員その中に追い入れ数珠つなぎにした。
キクツネは全部で33万人にもなった。三人の首領は獄舎に入れ全軍帰還した。

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

ハタレの乱討伐後の状況

全部で7人の頭目(首領)と9千人のハタレ魔を、瀬織津姫が持参していた真悉(まふつ)の鏡で真人間に戻しました。
この鏡は「二見(ふたみ)の岩」と名付けられていますが、それは長期間、海の荒潮に何回も浸しても錆びない神鏡だからです。

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

ハタレの乱で活躍した武将たち

(4)荷田麿命(荷田神(かだのかみ)ともいう)[キク道を討伐]
第二代天神 国狭槌尊(くにさつちのみこと)の子・ウケモチの子孫で、国狭槌尊から数えて九代目。
ウケモチは稲作の栽培に初めて成功し、高度な農業技術を有する名家。
京都府南部地域の国司(くにかみ)。
稲荷大社(京都府伏見区深草薮之内町)は、元来、荷田命とその先祖を祀る宮であるが、キク道(狐の霊)の討伐後に、彼らの助命が許されたので眷属(けんぞく:配下の者)として祭るようになった。

繊維学会誌 vol.73 「日本神話のルーツ:ホツマツタヱ(その4)天照神とハタレの乱」(梶慶輔著)

以上が、稲荷神社の狐の由来です。
お稲荷さんを秦氏のものと思っている方が多いのですが、ホツマツタヱのアマテルカミの時代は、徐福が日本にきた紀元前2~3世紀ごろの話に対し、秦氏が深草の地に移住したのは、5世紀中ごろと思われます。
稲荷大社の裏にある稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別であると言われています。(『秦氏の研究』大和岩雄著)
山頂の被葬者が、荷田氏で、山麓の被葬者が、秦氏であると思われます。

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