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夏樹
夕暮れは、後ろ姿。
空っぽのロッカー。
広い教室。
お母さんを待つ時間。
こりす組のeriと夏樹は、
おばあちゃんの、ヒロミ先生に手を繋がれて、
ゾウさん組にとぼとぼと移動する。
お母さんは、今日もお迎えに来ない。
お父さんには、
いつ最後に会ったのか覚えていない。
仲の良いお友達は、
お昼寝が終わったらいなくなってるし、
おやつの途中に迎えにくるお母さんもいる。
「お迎えが早すぎるよー」と、お母さんに文句を言っているお友達を、eriはいつも眺めている。
保育園に通っていた時の思い出。
誰かと、誰かが手を繋ぐ後ろ姿と、
悲しい夕暮れと、
静かな夏樹との記憶。
eriは、お母さんに文句を言わない、と決めている。夕方、保育園でお母さんを待ちながら、一生迎えに来てもらえなくなってしまうのではないかと、不安になってしまうからだ。
お母さんに、バカ!キライ!というお友達を見て、羨ましさすら感じてしまう。
eriのお母さんは、保険のセールスをしていた。
いつも、真っ黒なスーツと、ピンヒールで、校庭の砂を掘り返しながら、走って迎えに来てくれる。
あ、良かった、今日もお迎えに来てくれたんだ。
eriはいつも、待っている。必ず来てくれる人を流れる時間に身を委ねて、ずっと待っている。
フリーハンドで書いた時計の絵。
いびつな○と、ぐにゃぐにゃな時計の針はいつも7時ちょうどだ。
お母さんが迎えにくる時間。
お母さんが走ってきた足跡を、暗闇の中でぴょんぴょんと辿り、手を繋いで家に帰る。
でも、時々、振り返る。
夏樹は、まだ、暗闇の中に唯一明るく光る教室の真ん中で、床で絵を描いている。
夏樹はeriよりも、もっと長く保育園にいる。
夏樹のお母さんを、eriは見たことがない。
夏樹はしゃべらない。
いつも一人で、いびつな線で、なにかを描いている。
線は次第に一つの塊になって、真っ白い画用紙を青色でいっぱいにしていく。
eriが帰った今も夏樹は、白い画用紙いっぱいにクレヨンで色付けをしているのだろう。
「なっちゃんはさ、どんなこ?」
お母さんは、eriのことじゃなく、夏樹の事をよく聞いてくる。面白くなかった。
「わかんない、全然しゃべんないんだもん」
夏樹はしゃべらない子だった。
何を聞いても、しゃべらないのだ。
泣く時だって、声を出さない。息切れみたいな息遣いだけして、ポロポロ涙をこぼすだけだ。
理由を言わないから、先生たちは夏樹の周りにいつも集まっていた。
不思議な男の子だった。
誰とも遊ばないし、誰とも話さない。
聞こえてるんだか、聞こえてないんだか、
それもよくわからない。
でも、どこにいても、
柔らかい雰囲気を持っていて、
たんぽぽの綿毛みたいな子だった。
夏樹にも目は二つくっついていて、時々、eriと目が合う。大抵は恥ずかしくてプイッとしてしまうけど、時々目尻だけ下げて笑いかけてくれる姿が可愛らしかった。
今日も夏樹は、eriと最後まで教室に残っていた。
お迎えにくる、7時はとうに過ぎていて、eriは涙が溢れて仕方なかった。
”朝ご飯で、ピーマンを残したからだ。
夜に、おねしょしちゃったからだ。
靴が上手く履けなくて、歩き出したら脱げちゃって、靴下を汚しちゃったからだ”
いろんな悪い思い出がぐるぐる回って、嗚咽が止まらなくなっていた。
隣で絵を描いていた夏樹が、ハッとしたようにこちらを見たことがわかった。
気付くと、eriのおかっぱ頭は撫でられていた。
優しい手だった。
小さな手の温もりは、綿毛そのものだった。
しばらくたった頃、いつの間にか、夏樹は保育園から消えていた。
気付けばまた、7時までお母さんのお迎えを一人で待つようになっていた。夏樹みたいに、真っ白な画用紙に青いクレヨンで隙間なく色をつけるようになった。寂しさを埋めるように。
何年かしてから、お母さんから、
夏樹は、場面緘黙って言う症状を持つ子供だったのだと教えられた。
ある一定の場所で、声が出せなくなってしまうことらしい。
でも、声のない二人の世界は、とても暖かかったように、今は思う。
話をしなくても、私たちは同じ場所にいた。
たんぽぽの綿毛に、そーっと息を吹きかける。
優しく飛んでいきますようにと願いを込めて。
夏樹と、私は、ずっと同じ時間を過ごしていた。
フリーハンドの青色の何層にも重なる、画用紙を通して。
これは、まだ、
誰にも話したことのない、
わたしの秘密の初恋の話。
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