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可能性を感じたい
夜勤の仮眠時間は、日によってまちまちで、緊急入院が立て続けに入る時や、急変患者の対応、ナースコールの対応で、ほぼ16時間休みが取れないことが稀にある。
そんな時は、ナースステーションのありったけの椅子を並べてとりあえず足を上げ、一瞬だけ堕ちる、というスタイルを選択する。
次のナースコールがなるまで…
緊急オペのお迎えに行くまで…
救急車が到着するまで…
どんなにアドレナリンが出ていても、
目を瞑ると一瞬で睡魔が訪れる。
ある、とても忙しい夜勤中の出来事である。
私はいつものように、椅子を並べて、一瞬だけ堕ちていた。
ぱさーん、ぱさーん、ぱさーん
足を引きずるような音が、遠い遠いところから聞こえてくる。
ぱさーん、ぱさーん、ぱさーん
近づいてくる。
誰かの足音だ。
睡魔が私を逃さない。
目が、開けられないのだ。
もしかしたら、金縛りかもしれない。
人間か?幽霊か?
もう、瞼は開けられない。
頼む、幽霊であってくれ。
ぱさーん、ぱさ。
私の頬に何か冷たいものがヒタヒターと触れた。
えっ。
私は全身に拍動を抱えながら、
ゆっくりと瞼をあける。
「コレ、ナーンダ?」
ピンク色の歯ぐきがしっかりと覗いた婆様がゴショゴショと歯切れの悪い物言いで私を覗き込んで立っている。
「い、入れ歯ーーー!」
私は絶叫した。
私の頬にはハンバーガーのバンズ状態の入れ歯上下セットが接置していた。
私は質問には、簡潔に答えなさいという、幼少期からの教えを、こんな場面でも忠実に再現していた。
こんな夜更けにクイズかよ。
この日の夜勤明けのことである。
私服に着替えた私は、この日退院予定だった患者様にたまたまに病院前のロータリーで遭遇する。
「eriちゃん、お世話になったね、ありがとう」
目元には涙を浮かべている。優しく抱擁してくださり、「お大事になさってくださいね」と、声をかける。夜中に、ひとりぼっちで肩を振るわせ、泣いていた彼女を思い出した。今日は、よく晴れていたし、旅立ちの日にはもってこいだ。
家に帰って洋服のポケットに手を入れる。
冷たい何かが手に触れる。
えっ。
「い、入れ歯ーー?」
謝礼はいつから、入れ歯に変わったのだろう。
昨日の話である。
私の使用していた仕事用ワゴンの下段に、
ティッシュに包まれた、
桃色の何かが見えていた。
えっ。
指?
私は、以前、
覚醒剤の粉末を発見したことがある。
犯罪ホイホイの気質もあるのだ。
バラバラ殺人事件…
人体の一部…
ゆ、ゆび…
ぎょぇーー!!指ー!!!
近くにいた介護士のサトちゃんは、
リアルにシェーってやっている。
ぎょぇーーー!
2人でビニル手袋を装着し、
そっとティッシュをめくってみる…
「い、入れ歯ー…」
なぜだろう。
遠くで、穏やかな会話が聞こえる。
「お嬢さん、ご入院はいつから?」
「ええ、私は肝臓が悪くて、少し長いの。
うふふ」
広々とした、デイルームで
お年を召した婦人2人が会話している。
2人の手には
上下の入れ歯が把持されている。
いっこく堂だって、
驚くだろう。
入れ歯のない歯ぐきで会話し、
その手に持たれた入れ歯同士が
会話している設定なのだから。
時折カチカチっていう音が
こちらまで響いてくる。
ニコニコと、穏やかだ。
入れ歯は、世の中に溢れている。
使い方もさまざまだ。
私は、入れ歯の壮大な可能性を感じている。
遠くで、まだ、
カチカチと音は響いている。
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