flavor
「eriみたいだな、これ」
濃度の高い水蒸気を、
呼気延長させながら、
口角をHaーーーと広げていく。
声の先を辿ると
彩香さんの視線はすでに遠く先を見つめている。
横浜駅西口から女性の速さで徒歩10分。
シーシャラウンジの店内には、
あちらこちらに水音が小さく響いている。
夜勤明けの耳に心地いいその音は、小さいながらも響きを持たせていて、jazzを連想させる。
今日も頭が痛い。
帰って眠りたいけど、結局彩香さんに連れられて、ここまできてしまった。
見晴らしの良い大きな窓張りに彩光だけを取り入れた店内は、薄暗く、客の入りもまばらだ。
BGMもなく、アウトロー感の漂う店員と、客。
大抵は、個人の客が多く、静かに本を読んだり、ネットサーフィンをしながらシーシャを嗜む客が多いらしい。
彩香さんと私は気が合う。
というより、しっくりくると言う方が正しい。
きめ細やかな気配りは、時にはささやかすぎて気がつかないほどだ。
何かを必要だと感じる前に、
彩香さんは行動している。
私の周りには、そんないい女が多過ぎる。
「私みたいって?」
私がシーシャの水蒸気を吐き終わり、尋ねる頃には、彩香さんは私の分のドリップコーヒーをことん、と小さな木のテーブルの上に置いた。
ソファに静かに沈み込む彩香さんは、夜勤明けなのに表情の輪郭が美しい。目元の二重はさらに色気を増して深くなるし、すこしだけ焦点がずれていることにも無自覚なのだろう。
私は、一生懸命に働いた人間の横顔が好きだ。
紅の落ちた唇は艶かしいし、
光に透けた前髪を撫でたくなる
衝動に駆られる。
尚且つ豊満な胸に視線がいってしまうのは、
人間としての性なのだと思う。
「シーシャのフレーバーって、吸ってる最中に、香りがだんだん気にならなくなるじゃない?
もともと呼吸の延長にいた、みたいな。
でもさ、忘れた頃にまたフレーバーがフワーッと香るんだよね。
普段は空気に溶け込んでるのに、
時々良さが溢れてくる。
eriみたいだよ」
彩香さんは、上手にシーシャを吸う。
紙タバコと違って、深呼吸をするように、肺にゆっくりと溜めた後、潔よく、
静かにふんわりと吐き出していく。
フラスコ型の瓶に張られた水面は、
吸気に応じて泡が立ち、
吸っている間はポコポコポコ…
と、大きな水泡を作る。
やがて水面は落ち着き、
ココナッツの炭で熱されて、
フィルターの代わりに水にくぐらせた水蒸気の煙は、滑らかで幻想的だ。
初めてのシーシャに、
まだ、呼吸が追いつかない私は、
時々睨めっこのように吸い口を目一杯吸う。
彩香さんは
「トランペットじゃないんだから」
と、隣でケラケラ笑いながら、
そんな私を眺めている。
「私の良さか…」
思わず、復唱した。
「看護師が天職すぎて
やめられないeriはツライネ。」
彼女は、抑揚をつけずつらつらと話す。
お互い目を合わさず、私たちはソファに沈み込みながら、静かに会話する。私の声は、見た目よりも低く聞き取りにくいと、言われる。そんな聞き取りにくい私の声を、一度たりとも彼女は聞き返さない優しさを持ち合わせている。柔らかな温もりのある肩が触れ合うほどに近い位置で、2人だけの声が息遣いと水音と共に響く。
シーシャの吸い口を外し、
私は少し背筋を伸ばし、話出す。
「小児から高齢者まで、救急から看取りまでの看護師経験を通して、疾患と共に生きる患者様の人生に寄り添った看護を展開していきたい。それが私の看護観です」
彩香さんは吹き出す。
「何そのテンプレ、素晴らしすぎじゃない」
「でしょう?もう、暗記してる。
転職する度にスバラシーと言われる」
もう一度、吸い口を唇につける。
私の選んだシーシャのフレーバーは、ライム系のえぐみがあるもの。強すぎる苦さをうまく調合してもらって、レモンも混ぜてもらう。吸い口の中にほんのりとした酸味が優しく、舌に残ることもなくすっと消えていく。
「人の人生背負い込んでるつもり?優等生。」
彩香さんの吐き出す煙は、濃淡が強い。顔全体を覆うように白い煙は私たちを隔離していく。
彼女のハスキーボイスは、哀愁が混じる。
「違う。ただ、出会ってしまった人への責任感は強いのかもしれない。多くの人に会い過ぎたし、多くの症例を見過ぎた。」
「彼のこと、思い出す?」
「どうなんだろ。」
彩香さんの言う彼、とは、私が何年も昔に出会った、20代の男の子のことだ。
私の看護師人生に大きな影響を与えた
エピソード。
運命かと、思った。
私たちは、看護師と骨折をした患者として、
ある病院で出会っていた。
「eriさん、飯いこーよ」
「いーよ、君の奢りね!」
「学生にたかるなよなー?」
私たちは大いに笑ったし、お互いの話をした。
気が合ったし、若い私たちは、将来について、熱く語り合った。
私たちは、若すぎたし、甘すぎた。
私は当時結婚を控えていて、
その土地を離れることになった。
お互いの幸せを祈って、
私たちは、あの時、別れた。
数年後、病院の系列も、県も、全くあの時とは違う環境で、私たちは、再会した。
最初、名前を見た時は、同性同名かなと思う程度だったが、すぐに顔を見て繋がった。
ラガーマンのような体格の笑顔が素敵な好青年は、すっかりと、痩せて変わり果てていた。
カルテに書いてあった通り、
彼の右足は、切断されていた。
顔を見てすぐ、彼は私に気付いたようだった。
「eriさん、助けてくださいよ」
現実は、残酷すぎた。
幻肢痛。
もう、切断して、残っていないはずの足に、痛みを感じているのだ。
つま先が、足の甲が、脹脛が、膝が。
「こんなに痛いのに、なんでないんだよ。
足がない俺欠陥品?
ねぇ、eriさん、幸せ?羨ましい。
人生取り替えてよ」
彼は多分
泣いていることにも
気付いていなかったと思う。
一緒に夜中、時間の許す限り、
寄り添ったあの頃を
私は今でも鮮明に思い出す。
私に出来ることは、骨ばった彼の肩をさすり、
想いをぶつけてもらうこと。
精神剤と痛みに効く注射を定期的に落とすこと。私に出来ることは、
ただ、
それだけで、
”たった” それだけだった。
「人の想いばっかり拾って。
捨てられない。
やっとDV夫を捨てたのに、
ねぇ??」
彩香さんは目元を下げて呆れたように笑う。
「ミニマリストなんだけどなぁ…」
私はシーシャの黒くゴムで出来上がった筒の部分を握りながら呟く。
「そうやって、一つ一つ抱え込んだんですね、
お嬢さん」
いきなり、私の視界は真っ白に変わる。
彩香さんが煙を吹きかけているのだ。
「やめろー、高校生かっ」
少しずつ、もやが晴れた頃、彩香さんは、座り直して、私の方を向いたのがわかった。
少し、ペースが早かったかもしれない。
少しだけ、クラクラとする。
でも、このうっつらとした、
心地良さを、私は求めていたようにも思う。
もう一度マウスピースを加えて、
ゆっくりとシーシャを吸う。
唇にプルプルと振動が伝わる。
刺激は少なくて、柔らかく吐き出していく。
綺麗で濃さのある水蒸気を、窓の景色が見えなくなるくらいに大きくゆっくりと、
私は吐き出した。
今までの看護師人生を思い浮かべながら、
私は、話す。
「でもさ、やめられないんだよね。
苦しくても、泣きたくなるような逃げ出したくなるようなエピソードを、
たくさんたくさん重ねても。
人の深部に触れるこの仕事を、私は尊いって思ってる。こんなにも情けなくて、涙もろくて、いつまでたっても小さな心で。
でもさ、続けたその先に何かがあると、思ってる。だから、辞められないのかもしれない。
ね、私、仕事に依存してる?笑」
しばらくの沈黙のあと、彩香さんは言う。
「私のフレーバーはさ、カシミヤブラックなんだけど。スパイシーで、
でも優しさもあったりして。
アンタはさ、素敵なフレーバーを身に纏っている。それに無自覚な、eriが、私は好きよ。
単純にあんたのおかげで患者の平均寿命は伸びてる気がするし。そんな仕事人間のeriをみんなが見てる。依存?だから何?みんな何かしらに依存してるんだよ。
それを見てみぬふりをしてるだけ。
eriのその繊細なflavorも悪くない。
弱いくせに、プライド持って、
ナースやってる姿は、かっこいいよ。
どこまでも堕ち込んでる日も、絶対それを見せない強さも知ってるよ。
でも、その日によって、
flavorは変えられるんだよ。
忘れた頃にさ、味わえばいいんだよ。
思い出したようにさ、甘い香りだったり、つんとしたグリーンミントだったり。
例えば、抱かれる対象を、
男から女に変えてみる。
私を抱きたい対象として、
一度見てみる、とか。」
「えっ?なんのはなしですか?」
口をついて、無意識にこんな質問をしてしまう。
「eriは意外と女にモテるって話」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
私は今、甘めのflavorを醸し出しているのかもしれない。
優しく、深く、筒状のシーシャを片手に持ち、水音と共に吸っていく。
顔の前に、濃度の高い白じらしいflavorと共に、ふわりふわりと、吐き出していく。
そうして、
大きな窓に映る景色に少しずつ溶かしていく。
私のflavor。
人生のflavor。
薄い水蒸気に隠してきた心。
時々消えそうになる心。
それでも、人生の輪郭を、
私はまだまだ、
なぞりたい。
薄靄の中に、flavorを混ぜて。