好きな曲は好き~family name/METAMUSE(zoc)~
はじめに
今日はMETAMUSE(zoc)の『family name』という曲についてお話しします。
ぜひこの曲を聴きながら記事を読んでくださると嬉しいです。
一番の環境要因
この曲はインパクトのあるイントロから始まります。
語気の強い、所謂若者言葉も多くある中で、ピアノの少し切なげなメロディーも流れています。
「家庭環境が複雑」という便利な言葉があります。
この“複雑”の中には“乱雑”に様々な要素が詰められています。
この曲ではいろいろなことが考えることができますが、とにかく何らかの要因の結果母親が癇癪を起し、こどもに当たっている様子でしょうか。
私は高校生の頃に母親と毎日けんかしていました。
父親は顔を合わせる度に説教をとくとくとされていました。
私の希望や夢、選択なんて一言で一蹴してしまうような彼らに言葉で反抗できずに、どんどん心は閉ざされていました。
そんな高校生の頃の私が救われるような曲です。
ストレートに心情や状況が伝わります…
私も両親の言いなりになりそうになっていた時、自分がなぜ生まれたのか、意義は何かについて考え込むようになってしまいました。
子どもという立場では、最悪の解答も想定してしまうからこそ「私をなんで産んだの」なんて言えません。
両親も、聞かれた相手が幼ければ、「コウノトリさんが~」とか「神様が~」とかなんとか回避できるでしょう。
また、私は小さい頃から「お前は女だから~」や「お前が男だったら~」という言葉を聞いて育ちました。
このようなことを言い聞かせながら育てると何が起きるか、賢い方や発達心理学を学んできたかたはすぐにわかると思います。
一番初めに考えるのは愛着障害ではないでしょうか。
ここから先は長くなるので別の記事でお話しします。
でも、もし『こんなのおかしいね なんで産んだの』って聞くことができていたら、父親は言わなくなったのでしょうか。
子どもにとって学校等の社会とのかかわりも大事ですが、幼少期に最も大事なのは家庭環境です。
自分の家庭環境に疑問を持ったことはありませんか?
人と違うな、ぐらいの気付きでしたか?
共依存
次の歌詞です。
ここ歌詞では、愛着障害の気があるように見えます。
だからこそ依存傾向があり、誰かを愛することに抵抗を感じている、と実感している様子でしょうか。
医学において、愛着とは「特定の人に対する情緒的なきずな」を表します。
定義上5歳児までに現れるようになると言われていますが、その後の愛着形成に関わってくるため、問題になるのは幼児だけではありません。
特に、近年では専門用語ではないものの『アダルト・チルドレン』という心理に関する言葉も作られるようになりました。
このアダルト・チルドレンは、幼少期に何らかの家庭内トラウマによって傷つき、大人になってからもその傷に悩まされているような人のことを言うようです。
もう一度言っておきますが、心理学用語や病名ではないです。
アダルト・チルドレンの傾向がある人の中には、自尊心や自己肯定感が低い方が多いようです。
そうすると自分で物事を決めることができなくなり、誰かに強く依存したくなります。
特に親か過干渉であった場合、子は選択や意思を否定されてきた経験が多くなり、共依存の関係になってしまうこともあるようです。
長くなってしまいましたが、私はこれらを知っていたため、この歌詞を聴いたときにすぐに愛着障害と共依存、アダルトチルドレンを思い出しました。
そのため、歌詞に戻ると、
前半は愛着障害の不安型のようで、後半の歌詞では自分の共依存傾向を理解し、悩んでいる様子だと思いました。
同情なしでも私だよ
次の歌詞です。
『察して』という歌詞で、自己肯定感が低く自分の発言に自信を持つことができず、もしくは上手く心情を言葉で説明することができずに、行動で、両親から離れていく様子を思い浮かべました。
なぜならば、私もそうだったからです。
最近はやっと言いたいことを言うべき時に言うことができるようになってきましたが、両親の少し弱い部分、私の弱い部分、そして自分のアダルトチルドレン感を自覚した時、どうしたらよいかわからなかったからです。
一生懸命に自分の心情を言葉にしたとて、両親がそれを真っすぐに受け取ってくれる自身もなく、堂々と言える自信もなかったため、ただただ電話をしないようにするや、帰省の回数を減らすといった行動に表してみることしかできませんでした。
…書いていて思ったのですが、大した行動じゃないですよね。
やっぱり行動にも自信のなさが出ているように思います。
最近“不憫キャラ”なんて言葉もありますが、『かわいそう抜きでもかわいいし 私をぎゅってしないなんておかしい』という歌詞となんとなく繋がりました。
「同情で何かされなくとも、同情されなくとも、私は私のまんまだよ」ということを言ってくれているような気持ちです。
私はやっぱりこのような言葉を言ってほしかったのかもしれません。
生きてやる
同じ苗字である家族を『同じ呪い』と表現していることが大好きです。
名字は絆を示すなんて言いますが、呪いにもなります。
これは『フルーツバスケット』という漫画にも通ずる点だと思います。
確かに誰もが誰かの遺伝子を受け継いで生きていると考えると呪いのようですよね。
切れることなく今の自分まで続いているもの。
「これらを負担に不安に鎖のように思いながらも生きるよ」という私だって声を大にして言ってみたい言葉がここに詰め込まれています。
だからここが大事で大好きです。
値札の数字は誰が書く?
次の歌詞です。
私はこの歌詞を「自分の青春時代を親のために使った」と思っている子が言っているように感じました。
親の希望する方へ親が導く方へ、親の思うような大人へなってほしいってわかってい増し、中学生までの私はそれが正解だと思っていました。
そうやって途中で気づいて、親に反対されながら進んだ私の値札はどれぐらいの数字が書いてあるのでしょうか。
その数字を私が決めるのか、また親が決めると想像してしまうのかで私の成長度合いが測れるような気がします。
『生き抜いたその先をみてくれ』という歌詞がここで一番好きです。
なぜならば、共依存傾向から完全に抜け出すことができていないが、そんな自分とちゃんと抜き合って克服しようとしている姿が目に浮かぶからです。
伝わらないもどかしさを感じつつ、伝え合うのも諦めつつ、
生きるという覚悟=自分を諦めない姿勢、
でもなんだかんだ言って生きている自分を、現在を生き抜ている自分を見てほしい=他者への承認欲求
か見えたからです。
結局は誰かに認められたいし、認められるなら、貴方(両親)が良いという気持ちです。
完全に同意です。
認めてくれるだろうなんて、思わない方が自分のためなのかもしれませんが、私はまだそこから抜け出すことはできていません。
だからこそ、未だに私の値札に両親が数字を書き込んでいる様子を想像してしまうけれど、数字を書くのは私が良いです。
正論も正義も全部邪魔
次の歌詞です。
私は幼少期からずっと正義感が強くて、強すぎて衝突することもあり最近は常識の範囲内を守っていますが、たぶん厳しくて許せないことは多いです。
これは両親に対する姿勢だったり、気持ちだったりにも反映されています。
親孝行した方が良いよな、とか親の希望通りにした方が良いよなって思うことが多いです。
でも最近は『正論も正義も全部邪魔なだけ』という言葉を大事にしています。
「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」なんて言葉もありますが、親の希望やいうことを聞いたうえでどう行動するかは私の自由ですから!
守って生きたいです。
さいごの歌詞です。
さいごに
こんなにも複雑で難しくてやるせない気持ちになることはあっても生きるよ、生きるを諦めないよ、という意思が伝わってくる曲です。
大事な曲です。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
♡励みになりますありがとうございます。
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