日本を原ねて 心の健康 ストレス解消【紫式部】
32 紫式部(978~1016?)
日本の生花 西堀一三 河原書店
「紫式部日記」の中にも「勾欄の下に立ちて史記の一巻をよむ」とある。その紫式部の文をとると、朝霧の中に黄色い菊を見る思いを「若やぎ」を知ることであると言っているが、この「若やぎ」は史記の文に「華道」を説いている時の重要な内容なのであった。…
最も大切なのは、「大蔵経」に収めている弘明集の文で、仏教が始めて伝わった時に、その思想を如何に受容れるかの思慮を明らかにしているが、その中には、かの菩提樹の下にあって、樹を観じた内容を大切にし、その時の理を「求ムベシ」としている。
要は「人の質」と「木の質」との関係を思い、草木の精神に触れることによって、
衆理ヲ明カニスレバ、何ノ行イカ成ラザル
とあるように、草木を観じる心によって「衆理」を知るのを大切にしたのであった。それを「自」を知る心の「美」であるとし、世の人の心に通う「通美」であるともいっている。また「花の気」の中には「必ズ」の思いがあり
浄智ヲ開眼スル
としているが、これは、弘法大師(空海 774~835)の「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)」に
華トハ開敷スル覚華ナリ
と説いているのと同じである。眼に美しいとみる以外に、この「浄智」を開明するのが、花であると見るのが、東洋の文化としての最も正しい花の見方であった。
道元(1200~1253)の「正法眼蔵」にも「コノ空必ズ華開ク」と思うてみる花について
光明色相二参学スベシ
と言っている。この参学の内容を、唐の一行の「毘盧遮那成仏経疏(びるしゃなじょうぶつきょうしょ)」に
実相ノ恵ヲウ、他二ヨッテ悟ル二非ルナリー闕(か)クル所アルガ故
二ー造二ヨッテ成ル二アラズー 常住ノ実相ノ恵ナル故二
としているのは、かの樹を観ずる心の内容を深く伝えている言葉である。この時に「闕ル所アルガ故に」とあるのが、日本のいけ花の重要な特徴ともなっている。また他によって悟るのではなく、自らのうちにある闕けた所を、吾身自らが満してゆくのを「実相の恵」であると今の文にはいっている。
雨も、風も、父も、母も、またすべての非常なるものも、この「実相の恵」である。それによって興るものが、かの「風興」である。
16・17・18ページ
小林秀雄 本居宣長上 新潮文庫
この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しつくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものであった。 23ページ
……殆ど無秩序とも言える彼の異常な好学心…宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来る、…宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。…彼の「雑学」を貫通するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。 123ページ
……「物のあはれ」という言葉の意味合についての、宣長の細かい分析に這入った方がよかろうと思う「あはれ」も「物のあはれ」も「同じ事」だ(玉のをぐし、二の巻)、と宣長は言う。 150ページ
……宣長は、和歌史の上での「あはれ」用例を調査して、先ず次の事に読者の注意を促す。「阿波礼という言葉、はさまざまいいかたはかはりたれとも、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふなり。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれしい共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼なり。されば、おもしろき事、おかしき事などおも、あはれといへることおほし」。(石上私淑言、巻一)
151ページ
……宣長が「あはれ」を論ずる「本(モト)」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。放って置いても、「あはれ」代表者になれた悲哀の情の情趣を説くなどは、末の話であった。
…彼の課題は、「物のあはれとは何か」ではなく、「物のあはれを知るとは何か」であった。「此の物語は、紫式部がしる所物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(紫文要領、巻下)152ページ153ページ
…明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。…「感ずる心は、自然と、しのびぬところよりいずる物なれば、わが心ながら、わが心にもまかせぬ物にて、悪しく邪なる事にても、感ずる事ある也、此れは悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然としのびぬ所よりかんずるなり」(紫文要領、巻上)、
…彼が、式部という妙手に見たのは。「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。
153ページ154ページ
……「物のあはれはこの世に生きる経験の、本来のありやう」のうちに現れると言う事になりはしないか。宣長は、この有るがままの世界を深く信じた。この「実(マコト)」の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれている。「事」の世界は、又「言(コト)」の世界でもあったのである。 296ページ
紫式部は無為自然をあらわし、生活感情をあらわしている。
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