小池昌代先生の『光の窓』を読んで
一応公開いたしますが、公開用というよりは記録として残すために書かせていただきます。いつも以上の雑文であることをお許しください。
何故、書き残そうとしたか、それは単純な理由である。衝撃を受けたからだ。小池先生は、最後の文にこう書いている。
『おまえ、堕落したな。
大人になった私に、私はつぶやく。
光に満ちあふれていた世界に、そうして少しずつ、言葉が侵入してきた。(令和五年発行 東京書籍「文学国語」p12,13より引用)』
私は、その文章に裏切られたような気持になった。でも、考えれば考えるほど固有名詞というのは厄介なものかもしれないと思えてきた。
例えば「俺は佐倉昭以外の何者でもない」というセリフはどこか格好がいいし自身に満ち溢れているが、別に「俺は俺以外の何者でもない」でもいい訳である。
ここで問題なのは佐倉昭という固有名詞を使ってしまったことで、自分の証明のために「佐倉昭」という言葉が必要になってしまったことである。自分自身という限りなく広がっていく布を、固有名詞の箱に仕舞い込んでしまわなければならない窮屈さが、そこにはある。むしろ、口に出して言うこと自体がその『光に満ちあふれていた世界』を薄めてしまい、矮小させてしまうのではないかとも思えてくる。
言葉というものは便利で、素晴らしいものである。しかし、言葉によって各人が持っていた豊かな想像や感覚の世界にひとつひとつレッテルが貼られ、私たちの心が少しずつ言語化できるもののみを認識するようになってしまっていることも、同様に無視することの出来ない事実なのである。
今回もT_GAI(戒)さんの作品をお借りいたしました。ありがとうございます。