感謝日記 十一がつ十にち 『「アンドリュー」と優しさ』
おはようございます
映画「アンドリュー」を観ました
何十年ぶりです
やっぱりロビン・ウィリアムズの笑顔には癒やされます
前に観たときは、近未来のロボットが自我を持つとどうなるのかといった、社会学的な目線で観ていました
でも今回改めて観直して、そうでない事がわかりました
レイモンド・チャンドラーの言葉
「優しくなければ生きていく資格がない」
を体現したようなものがたりでした
AIロボットが自我を確立していく物語
はっきりと人間の役に立つために生まれてきたというロボット
それは私たち人にも当てはまるものがないでしょうか?
親のコントロール下にあった幼少期
生産性で価値を判断される大人社会
SNSの世界ではその世界に居続けるためには、同じ価値観を強制されるようになった
主人と主人の家族に仕えたアンドリュー
不具合から創造力を持ったアンドリューは独創的な時計を製作し、自立する
完璧なアンドリューに欠けていたものは不完全という個性だった
まさしくそれが人間性を表していた
アンドリューが欲したのはその人間性
心、痛み、快楽、味覚そして時間の限りという死だった
人は完全を求めていくが、アンドリューは不完全を求めていく
死という時間制限の意味は何なのだろうか?
神様は自由に人の命を操るのであれば、私たちもまた、自由を謳歌して生を利用すればいいのではないだろうか?
「優しさ」とは同じ死を共有している人や動植物たちの素晴らしい特権なのかもしれない
「優しくなければ生きる資格がない」
それは真実かもしれないし、人の希望だと思う