高学年の心に火を灯す学級づくりと授業づくり#2【2.心の火が消えてしまったのはなぜ?「強制と矯正」】
学ぶことや学校生活に向かって絶え間なく燃え続けていた炎が、なぜ消えてしまったのでしょうか。
もちろん、高学年という発達段階もあるでしょう。高学年ともなれば、人間関係が広がり、時間的展望も発達します。それにより、考える力も発達していくのですが、関わる人が多ければ多いほど、悩みや葛藤も増えます。したがって、悩んだり葛藤することは特別なことではありません。考えることが増えた、周りの人のことを考えるようになったことにより、自己主張をためらうことも増えるでしょう。低学年のように自己主張が減ることは当然です。
しかし、「学ぶことや学校生活に向かって絶え間なく燃え続けていた炎が、なぜ消えてしまったのか」については、やはり低学年からの日常生活、学校生活が強く影響しているように感じます。
つまり、「周りの大人たちの影響」や「低学年から生活してきた環境」の要因が大きいのではないでしょうか。
例えば、
自由な発言ができず、先生のタイミングでしかしゃべることが許されない授業
が低学年から強制(矯正)させられていたとします。
低学年のうちはそれでも発言しようとするでしょう。でも、それを周りの大人が阻止し続けてきたとしたら、どうなるのでしょうか。
「全然言いたいこと言わせてくれない」
「先生の都合ばっかり」
「自分たちの思いを大切にしてくれない」
「授業っておもしろくないな」
となり、そして、
「どうせ、聞いてくれないんだったら話さなくていいや」
と、低学年で授業中あんなに元気だった子どもたちが、何も反応しない、学びを楽しめない高学年の子どもたちになっていくでしょう。
また、
自分の考えを言ったら、周りに「いいですか」と聞いて、周りは「いいです」と答えること
を強制(矯正)させられたとします。すると、どうでしょうか。
「「いいですか」と言われたら、「いいです」と言っとけば、聞いたフリができる」
「「いいです」と言っとけば、先生に怒られないし、あてられない」
と、「いいですか」と聞かれたら、「いいです」と、何も考えずにただ反応だけする高学年の子どもたちになっていくでしょう。
このように、何でもかんでも「強制(矯正)」されることで、子どもたちは周りの環境に合わせ成長していきます。つまり、「考えなくていい」「考える必要がない」環境で過ごすことになります。悪い意味で「大人の空気を読んでいく」ようになります。そこに「その子らしさ」「子どもらしさ」はありませんし、必要ありません。
そうなれば、学びに向かって火を灯すこともなく、また学校生活に関しても火を灯さず、火が消えたような子どもたちになっていくのでしょう。
そんな子どもたちは、周りの大人によってさらにそれが強化され、「小学校で生き抜くプロ集団」に変貌していきます。
そんな「小学校で生き抜くプロ集団」とは、どのような集団なのでしょうか。