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(短編小説)冬至

この小説は約2,800字です

 十二月にもなれば暦の上だけでなく、気候的にもしっかりと冬になる。今日は日差しがあるな、と油断していると想像以上に冷たい風が吹き付けるのだ。

「寒い、寒い」
 
 と、連続して口にする。まるで暖かくなる魔法の呪文のように。この時期になると私だけではなく多くの人が唱えるこの呪文だが、ご存知のように全く効きはしない。

 例えば吐く息が白くなった。自転車に乗るときに手袋が欠かせない。赤い帽子のおじいさんがショーウィンドウに添えられる。最近はそういったことで冬という季節を認識している気がする。

 冬は好きな季節だ。効かない呪文を繰り返したり、ストーブやこたつや毛布のお世話になったりするのだけれど。
 
 子供の頃は田舎に行って積もった雪の中を走り回り、いそいそとかまくらを作った。小さかった私と兄がギリギリ入るくらいなので、たいした大きさではなかったと思うが、当時はそれは大きく感じたものだ。
 私は「エスキモー、エスキモー」と言いながらはしゃいでいたらしい。

 ただ、今年の冬だけは年末に近づくにつれて、胸の中に重たいものが溜まっていくような気持ちがしていた。
 
 年明けには、大学受験が控えている。
 特に志望が高いということでもなかったのだけど、去年失敗してしまったので二度めの受験だった。

 予備校や模試、気分転換に少しのアルバイト。この一年は自分なりにできることをやってきたつもりだけれど、ずっと足踏みをしているような気持ちは払拭できない。

 私はこの一年でなにか成長できているのだろうか。

「ナオ、こたつつけてよ」
 ずっと勉強するのも気が滅入ってくるので居間に行くと、兄が何やらせっせと書き物をしていた。
 私はマグカップを片手に兄の向かいに座ってこたつのスイッチを入れた。カップからはカフェオレの甘い香りが漂う。
 
「年賀状?」

 兄の手元を見ると、書いているのは年賀状だった。絵付きの年賀はがきにご丁寧に筆ペンで一枚一枚手書きのメッセージを添えている。

「手書きなんだ。何枚書くの?」
「三十枚くらいかな」
 
 三十枚はどうなんだろう? 多いのか少ないのか。少なくとも、私よりは多いか。
 子供の頃はせっせと書いていた年賀状も、今はSNSとかメールのほうが便利すぎて年々書く枚数が減っていた。ここ数年は二枚だけ。毎年欠かさず送ってくれる小学校の頃の友達に返すだけだ。
 
 また今度会おうね、と言葉を交わし続けて何年になるのか。
 卒業以来顔を合わせていない彼女たちは、今は大学生か短大生か。足踏みをしてしまった私よりも、少しだけ前を歩いている。
 
 更に落ち込みそうだったので、私は机の上のかごに積んであるみかんを手に取った。ヘタの反対のへこんだところに親指をぶすりと突っ込んで半分に割る。
 
「おい、飛ばすなよ」
「大丈夫、大丈夫」

 気持ち年賀状から距離をとって、みかんを更に割る。房に皮がついたままで、ざっくり四等分になった状態だ。その一片の二、三房をそのまま口へ持って行く。
 うん、美味しい。
 
「え? ナオ、何その食べ方?」

 ちょっとびっくりしている兄が面白かった。実はこの食べ方は私も最近知ったのだけど、「有田むき」というらしい。和歌山のみかんのトップブランドだから間違いなかろう。
 
「食べやすいのよ。さっと剥けるし、白いのもいい感じに取れるし」

 やってみ、とばかりにみかんを一つ渡すと、兄は嬉しそうにみかんを半分に割った。更にパカリと四つに。

「おお、確かに剥きやすいな」
「でしょ」
「なんか四ツ葉のクローバーみたいじゃね?」

 パクパクと素早く食べきって、兄は手のひら残ったみかんの皮をこちらに向けて笑っていた。そのオレンジ色の皮は、少しいびつだけど、確かになんとなく幸せな形をしていた。

 兄妹でこたつに足を突っ込んでみかんを頬張っていると、母が買い物から帰ってきた。
「寒い、寒い」と例の呪文を唱えている。それ、効かないのだけどね。
 
「おかえり」
「ねえ、どっちか手伝って。重いのよ」
 
 どうやら買ってきたものを運ぶのに人手がいるということだった。となると私の出番だ。浪人生という肩身の狭い私は、こういうときは積極的に動くことにしていた。というか、なんとなく役割がある方が気持ちが楽なのが本音だ。
 
 そう言えば、お風呂掃除も私の仕事ということになっているのだけど、まだやってなかった。寒そうだなぁ。

 玄関先に行くと、そこそこ大きなマイバックが三つ置かれていた。パッと見、結構重量がありそうだぞと思った。電動自転車だとはいえ、よくこんなのを三つも。母のパワフルさに圧倒されながらも、ちょっとでもそのパワーにあやかろうと、一番重そうなバッグを選んでえいっと持ち上げる。

 重っ!

 想像を超えた重さだった。一体何が入ってるのかと台所に運んで確認すると、お醤油や牛乳の中にかぼちゃが混じっていた。結構大きくて、立派なかぼちゃだ。
 
「かぼちゃ? ああ、冬至か」
 
 するりと出た。カレンダーを見ると果たしてその通りだった。

「かぼちゃはどうするの? 煮るの?」
 
 尋ねると答えはイエスだった。願ったりだ。かぼちゃは煮て食べるのが好きだ。あの甘くほくほくと崩れる黄色い実がたまらなく美味しいのだ。

 私の家では毎年冬至にはかぼちゃを食べる。私が物心ついた頃には既にそうだったような気がする。他にも、七草粥や節分の恵方巻、土用丑のうなぎなど、母はそういった行事ごとには決まってその風習の食べ物を食卓にあげた。
 
「でも、どうして冬至にかぼちゃを食べるの?」

 おそらくかつての私もした質問。
 かぼちゃは好きだ。けれど、冬至のかぼちゃのように昔から続いているから、と言うだけで行う行事にはなんとなく抵抗があった。由来はあると思うのだけれど、ほとんどの人が知らない。
 ただ冬至だからとかぼちゃを食べる。

「さあ? でも昔からのことだから」
 
 言って母は着替えるために自室のある二階に上がった。
 
 口元がほころんだのが、自分でもわかった。
 去年の私なら更にどうしてと尋ねたかもしれない。けれど今年の私は――かぼちゃを見て冬至を連想した今年の私は今の答えでなんとなく満足していた。
 細かいながらも、私の中にも小さな変化はあったらしい。

 私は冬至のかぼちゃを食べるのではない。
 冬至という季節を身体にいれるのだ。これからの私の暦には冬至があたり前のように刻まれていくのだろうな。母と同じに。
 
 私が食べることに季節を感じるようになったと言ったら母や兄はなんと応えるだろうか。

 ふーん、と言うくらいだろうか。

 そうだ、お風呂を洗わなきゃ。
 私はお風呂の扉に手をかけて、ふと先程の買い物の中に柚子を見かけたのを思い出した。入浴時には、柚子を剥いて幸せのカタチにしてやろうか。
 
 靴下を脱いで風呂場に入ると、足元からくる寒さにおもわず「ひゃっ」と声が出た。

 了

 


使わせていだいた写真はいとこ煮ですね。小豆と一緒に煮るの実は食べたことはないのですが美味しそうです。いいなぁ。
我が家でのかぼちゃはもっぱら砂糖みりんしょうゆで作る煮物です。これも良き。

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