【第二回】アルジャーノンに花束を、ヒトに知と心を

こんにちは。ヒロです。今回の記事も読書記録になります。今回は一冊のみですので、短くなるかもしれません。早速ですが紹介に移っていきます。少し障害などのセンシティブな問題に触れるかもしれません。それらの人々を貶める意図はありませんが、気になさる方は記事を読むのをやめるのをお勧めします。

アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス箸、小尾 芙佐訳)


引用 Hayakawa Online
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000012638/



32歳の大人であるのにも関わらず、主人公チャーリー・ゴードンには幼児並みの知能しかありません。そんな彼はパン屋の手伝いをして、それが終わったら精薄センターで熱心に勉強をしています。いくつかのテストの後、彼はその熱意を見込まれて知能を向上させる手術を受けることになりました。知識を得ることで、今まで自分がどう扱われていたかを理解し、憤り、悲しみ、恥ずかしさなどの感情を覚え、また、センターの教師であったアリスに対する恋心を自覚するなど、急速に一般的な大人といえるレベルになっていきます。それどころか、チャーリーは様々な分野の大学教授たちをも凌駕する天才になりました。しかし、知能は発達しても、精神が知能のそれに遅れ、苦しむことになります。チャーリーの前に、研究チームは数多のマウスに同じ手術を施して、人間で最初に手術を受けたのがチャーリーでした。しかし、マウスたちはどれも、向上した知能を維持できなかったのです。唯一アルジャーノンという名の個体を除いて。アルジャーノンは長期に渡って知能を維持していました。しかし、チャーリーは彼を観察するうちに、異変が起きていることに気づき、同時に自分の未来を悟ります。予想通り、チャーリーの知能は急速に低下をはじめ、最後には、、、

最初のページを開いたときから非常に驚かされます。幼児同然のチャーリーの日記はほとんどひらがなしかなく、読みづらいことこの上ないです。全体として、訳者さんの表現力にも驚かされました。本の内容に思いを馳せると、手術前の、自分が周囲に馬鹿にされていることに気づかず、友達だと笑っているチャーリーに非常に物悲しさを感じます。その周囲の人物たちは、手術後、人が変わったように賢くなったチャーリーを逆に遠ざけるようになっていますが、彼らを軽蔑することは少なくとも私にはできないように思いました。私が彼らの立場であっても面白いことではないでしょう。面白いおもちゃのように感じていた奴が急に自分よりも圧倒的に賢くなった、自分よりも劣っていたと感じていたものが自分よりも優れた人物になったのです。自分にもそのような一面がないと誰が言いきれるでしょうか。知能や精神年齢の向上とともに、徐々に昔の記憶、特に家族の記憶を取り戻していく様子の描写も胸が締め付けられます。いざ家族たちに会ったときに、チャーリーのことを覚えていたのが自分のことを守るような態度を見せていた父親ではなく、「普通の子」に矯正し、妹が生まれたからは敬遠するそぶりを見せていた母や、兄を嫌っていた妹の方であったのもまたいい意味で予想を裏切り、感じるものがあります。自分の未来を悟ってからのチャーリーの覚悟と知能と精神が後退しはじめてから築き上げてきたものが崩壊していく様子は予感できたものであっても、読んでいて、悲しく、耐え難いものでした。特に最後の二ページあたり、アリスの教室に行ってしまうことから、最後の手紙、なかでも「ついしん」はガラス細工が割れるのをスローモーションでみているように美しく、はかなく、悲しいものでした。持たない状態からあるものを与えられ、それを奪われるのは精神的には持たない状態であるままよりもつらいものではないでしょうか。それでも、エスカレーターを上がってまた降りたときに、いる場所は同じ階ではあっても、違う場所なのです。昔の純粋な人間性を取り戻しながら、それでもきっと昔とは何かが確実に変化したチャーリーを通して、知識や理性というものをある意味ではぎとったうえで、そこに現れる人間性とは何かということを問いかけている文章でもあるように感じました。

終わりに


思ったより長文になってしまいました。思考がまとまりづらく前回にもまして拙かったかもしれません。よろしければまた次回にお会いしましょう。

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