11. 真の流暢さを求めるなら
クライエントが、日本での生活に慣れ、日本語がそれなりに流暢になってくると、日本語の語句や表現などの微妙な意味合いをちゃんと知っているのか、うまく使えるのかが非常に重要になってきます。
使うべき単語を適切に選べていなかったり、母国語の表現をそのまま直訳したような言い方だったりすると、表現が直接的すぎて話し相手を傷つけてしまったり、または全く通じなかったりします。それだけならまだしも、既習の文法を正しく使わなかったために、伝えたかった話が正しく伝わらない場合もあります。
たとえば、「今日は上司に叱られるやら、財布を落とすやら、散々な日でした」と言おうとして、「今日は上司《が》叱られるやら、財布を落とすやら、散々な日でした」と言ってしまうと、間違えたのは助詞の「が」だけですが、「叱られた」人間が変わってしまいます。
また、母国と日本との文化的な違いを理解はしていないまでも、少なくとも「そういう違いがある」こと、最近流行っている言葉を使うなら、文化の多様性に柔軟に対応できなければ、人との関係性が上手く作れなくなり、「日本語で会話する」以前の問題になってしまうこともあります。
日本人はよく「すみません」という言葉を使いますが、もしクライエントが「なんで悪いこともしていないのに自分が謝らなければならないんだ!ありえない!」なんて態度だったら、日本社会にはなかなか溶け込めないでしょう。
私の経験では、仕事で日本語を使う必要がある外国人は、大抵このニュアンス・表現力問題にぶち当たっているようです。そして、解決策の1つとして、もう一度腰を据えてこれまでに学んだ文法を復習しようとします。
ですが、先にも述べた通り、問題は文法だけではありません。
したがって私は、既習文法総ざらえのレッスンでは、語彙やその表現が使われる背景など、文型以外のことを時間が許す限りカバーしています。
言葉の文化的な側面については教科書で「コラム」のような形で扱われていますが、ページ数の制限もあって、それほど多くありません。
でもそういうことを知るのが真の流暢さにつながるのだろうと思います。